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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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32/44

32話 1人の世界

朝の校舎は、いつもと変わらなかった。昇降口に流れる話し声も、廊下を抜ける風の匂いも、今まで通り。

けれど、響だけが知っていた。自分の中で、何かが確実にずれてしまったことを。ケースの重さが、妙に現実的だった。肩にかかる感触が、逃げ場を与えてくれない。

合奏準備の音が、部室に満ちていく。譜面を広げる音。椅子を引く音。金属が触れ合う、乾いた気配。そのすべてが、今までと同じ――なのに、響の呼吸だけが、わずかに合っていなかった。

まだ答えは出ていない。

目を逸らすこともできなかった。

バスパートの練習教室に、ひとつの影があった。


窓際に置かれた譜面台と、壁際に並ぶケース。その中央で、(ひびき)は一人、ユーフォを構えている。


ロングトーン。

ゆっくりと、息を流す。


音は低く、安定している。いつも通り――そう言えるはずだった。


(……少し、軽い)


自分の音に、ほんのわずかな違和感を覚える。


響は眉をひそめ、もう一度息を入れ直した。合わせにいこうとする癖が、無意識に顔を出す。


だが、そこで一瞬、手が止まった。


(誰も、いないのに)


思わず、小さく息を吐く。


譜面を見下ろす。

課題曲の低音パート。

支え続ける音、流れを作る音。


いつもなら、迷わない。ここはこう吹く、と身体が覚えている。


それでも今は――ほんの一拍、間を置いた。


そして次の音を、少しだけ前に置く。和音を待つのではなく、呼びにいくように。


音が、空間に残った。


その瞬間、廊下から足音が聞こえてくる。


がらり、と扉が開いた。


「もう来てたのか」


最初に顔を出したのは香久山(かぐやま)だった。チューバを抱えたまま、響を見る。


「早いな、相変わらず」


「はい…ちょっとだけ」


曖昧に返すと、香久山は気にせず中に入ってくる。


続いて、来島(らいとう)、そのうしろから桜咲(おうさき)らが続々と入ってきた。


「今日も一人でやってたの?」


桜咲が言いながら、楽器を下ろす。


「いつも通りです」


そう答えながら、響は楽器を構え直す。


来島がチューナーを取り出し、音を確認する。


「じゃ、軽く合わせるか」


全員が音を出す準備を整える。そのときだった。


「そういえばさ」


来島がチューナーを片手に、何気なく言った。


「次、県大会前のオーディション、あるよな」


その一言で、空気が少しだけ変わる。


「あ〜……」


桜咲が、露骨に肩を落とした。


「またやるのかぁ。正直、毎回これだと気が抜けないんだけど」


「わかる」


来島も苦笑いを浮かべる。


「大会ごとにオーディションって、慣れたけどさ。終わったと思ったら、また一からだもんな」


香久山はマウスピース片手に軽く息を吐いた。


「でも、それが東縁(とうえん)だろ」


その言葉に、二人は顔を向ける。


「一度決まったら固定、じゃない。毎回、今の音で決める。瞬崎(しゅんざき)先生がそうしたからこうして地区を突破できてるんだ」


「理屈は分かってますよ。けど……」


桜咲は譜面台に肘をつき、天井を仰ぐ。


「練習、また詰め直しですよ。県だし」


そのとき、扉の方から声がした。


「だから、じゃない?」


入ってきたのは永井(ながい)と、今伊(いまい)だった。個人練習を終えたばかりなのか、息が少し上がっている。


「せっかく毎大会オーディションあるんだからさ」


永井は、明るい調子で続ける。


「レギュラー、狙わないともったいないですよ」


「そうそう」


今伊も頷く。


「どうせなら、前よりいい音で挑まないと。同じままじゃ、意味ないし」


来島が少し驚いたように永井を見る。


「永井、お前そんなこと言うタイプだったっけ?」


「前は前、今は今」


永井は笑って楽器を構えた。


「県大会だよ?出られるだけでもすごいんだから、欲出さないと」


香久山が、ふと響を見る。


「響、お前は?」


問いかけは軽い。だが、響の中では、やけに重く響いた。


「……どう思ってる?」


一瞬、言葉に詰まる。


響は、楽器を握り直した。


「……ちゃんと、吹こうと思います」


短い言葉だった。

もっと言いたいことはあるはず、なのに。


香久山は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「そうだな」


来島も、桜咲も、特に何も言わない。

ただ、それぞれ楽器を構える。


いつもの練習。

いつものバスパート。


――オーディション。

その言葉が出るたび、胸の奥で何かがわずかに揺れる。


響は、それが何なのか、まだ名前をつけられずにいた。



音を合わせる。


それだけのはずだった。


若田(わかだ)の合図で、低音が揃う。チューバの芯、ユーフォの厚み、ホールを想定した響き。何度もやってきた、いつもの形。


――なのに。


(……遅い?)


一拍、ほんの一瞬。


響の中で、音が待たされる感覚があった。


若田が悪いわけじゃない。香久山の音程も安定している。桜咲の入りも、問題ない。他の音も全て。


それでも、響は無意識に息を早く流していた。


低音を「支える」のではなく、流れを「呼びにいく」ように。


自分でも気づかないうちに、音が前へ出る。


「……」


すぐに息を抑えた。


合わせ直す。

引く。

全体に溶け込ませる。


すると今度は、音が軽く感じた。


(……どっちだ)


ほんの数小節。


たったそれだけのやり取りが、やけに長く感じられる。


「はい、そこまで」


若田の声で、音が止まった。


「もう一回いこうか。今の、入りだけ」


誰も特別な顔はしていない。指摘もない。違和感を口にする者もいない。それが、逆に響の胸に残った。


(今の、僕だけだったのか)


再び、構える。


次は抑えた。出過ぎないように、合わせることだけを意識する。


音は、きれいに重なった。自分の音も自然と綺麗に重なる。


正解だ、と自分で分かってはいた。

なのに、その音にどうしても嫌気がする。


脅迫され、

それに従う。

前にそう自分で選んでしまったこと。


まるで自分で自分を裏切っているような気分だった。



一段落したところで、扉がノックされた。


「失礼しまーす」


顔を出したのは久瀬(くぜ)だった。譜面の束を抱え、少し息が上がっている。


「あ、みんな揃ってる。ちょうどよかった」


そう言って教室に入ると、久瀬は譜面台の上に紙を広げた。


「瞬崎先生から預かってきた。次のオーディションの詳細」


その一言で、空気が少し引き締まる。


久瀬は紙を順に配っていく。


――県大会前オーディション


響は手元に届いた紙を開くと、思わず息を呑んだ。


地区大会のときとは、指定箇所が大きく変わっていた。



ユーフォニアム

・課題曲Ⅰ「マズルカ」:C〜D、

・自由曲「黎明(れいめい)」:冒頭〜C、中間部ソロ前〜ソロ終わり



チューバ

・課題曲I「マズルカ」:冒頭〜C

・自由曲「黎明」:G〜Jの5小節前、L〜フィナーレ



コントラバス

・課題曲 I「マズルカ」:B〜D

・自由曲「黎明」:K〜Lのグランディオーソ前まで



低音パートの支えや、流れを作る箇所

合奏で曖昧になりやすい箇所

前に出すか引くかで音楽の流れが変わる箇所


――瞬崎が厳選したに違いない。


そして、ソロの箇所もちゃんと残っていた。前回、目立つ旋律を吹いた部分だ。


無意識に、今日の練習のことが思い出される。


音が前に出た瞬間。

引いたときの軽さ。

合わせるときにわずかに迷った一拍。


「地区のときと、全然違うな」


来島が紙を見ながら、軽く眉を寄せる。


「瞬崎先生相変わらず容赦ないな」


久瀬が少し肩をすくめる。


「地区のオーディションや、今までの合奏で“できてなかった箇所”を中心に、瞬崎先生が作ったんだと思う」


合わせるだけじゃ足りない。でも、前に出ることが正解とも限らない。


「ま、文句言っても始まらんか」


来島が苦笑して楽器を構える。


「練習するしかないな」


他も、それぞれ頷く。


誰が吹くのか

全体を聞くことができるのか

今後、音楽を引っ張って行けるのか


その判断が地区以上に明確に分かるはずだ。



響は楽器を背負い、バスパート教室を後にした。


「個人練、行ってきます」


小さな声を残して、誰も気づかないように足を速める。


向かったのは、旧南創庫の前。普段は部員もあまり立ち入らない、少し薄暗い場所だ。


周囲の雑草が足元に揺れ、廃れた雰囲気が響の背筋をピリリとさせる。


目の前には、錆びつき、塗装の剥がれたベンチがぽつんと置かれていた。座っても壊れはしなさそうだと確認すると、響はゆっくり腰を下ろす。


少し息を整え、ユーフォを抱える。音を出す前に、一度だけ深く息を吸い込む。


静寂の中、ロングトーンを始めた。


空気に音が溶けていく。低く、重く、響くべき場所に正確に広がる音。誰もいない。聞くのは自分だけだ。


それでも、音のひとつひとつに、昨日の練習で感じた違和感や迷いが重なる。


響は唇に息を当て、ユーフォのベルをほんの少し上げたり下げたりしながら、音の重みを確かめる。ベンチの冷たさと錆の匂いが、無言の緊張感を強めた。


「……」


再び息を流す。音は前よりも少しずつ、響きの芯に重なり、空間に残った。


誰もいない創庫前の静寂の中で、響は自分だけの世界に没入していく。


――すると、ふと足音が近づいた。


「……瞬崎先生」


気配の方向を見ると、瞬崎だった。


校舎の影をゆっくり歩く先生の姿。手には何も持っていない。


「頭が痛くなって、気分転換にぶらぶらしていただけです」


先生は穏やかな口調で、響の視線に気づき軽く微笑む。


響は少し疑問に思った。まだ職務中じゃないのか?


いや、そんなことはどうでもいい――音を止めるわけにはいかない。


――再び息を流す。


先生はただ、静かに聞いている。注意するでも、褒めるでもなく、ただそこにいる。


響は、ユーフォをおろし瞬崎の方を見る。


「どうですか?」


――しかし、瞬崎は答えない。


「……どう変えるかどうかは、月本(つきもと)君次第です」


その声は、去り際にだけ響いた。


「コンクールも、そしてこれからも」


響は唇を噛む。何かを言いたくても、先生はもう歩き去っている。


その背中が見えなくなる直前、先生は小さく振り返り、低く声をかけた。


「多くの人は、”従う音”に囚われています。本当は、私のアドバイスも当てになるとは思っていません。だからこそ、君のような、”導く音”を私は大切にしていきたい」



――響はしばらく、ただユーフォを抱えたまま座っていた。瞬崎先生の言葉が頭の中で何度も再生される。


従う音

導く音


ただアドバイスをそのまま再現して終わる音か、

ルール、概念に囚われず進むべき道を示す音か、


瞬崎の言葉は今の響には重かった。



響は少し息を整え、楽譜ファイルの中から1枚の楽譜を取り出す。


「Euph. for You――」


ヤマト再合奏前以来、久しぶりに手にする楽譜だ。息をつけ、唇を当て、軽く吹き始める。


――音が、すぐに空間を満たした。


音は、空気を押し広げ、近くのガラスを震わせる。古びた倉庫も、音の波に合わせてカタカタと揺れた。


音は校庭を、校舎を超えて、街中にまで広がっていくようだった。


響の音は空間を支配していた。倉庫周りの薄暗い空間を、低音の波が満たしていく。


練習していた部員たちは、音を聴きすぐに気づく。


「……響だ」


香久山は思わず手を止め、ベルを握り直す。音圧に押され、息がわずかに乱れる。


来島もすぐに悟った。


「やっぱり……あいつか」


桜咲は目を見開き、唇をわずかに震わせる。


しかし、気づいた瞬間、ただ驚くのではなく、彼らの体の奥から違う感覚が湧き上がる。


単なる上手さでは説明できない、異常とも言える演奏の力強さと支配力。


「……相変わらずだな」


香久山が小さく呟く。


「音が……空間を揺らしてる……」


来島も息を漏らす。


「……ほんと、何なの?」


桜咲は唖然としたまま、楽器を握る手が止まる。


空気の密度まで操作しているかのように、音は重く、厚く、しかし滑らかに流れる。


部員たちはその場で立ち尽くし、息を飲む。誰も声を出せない。指揮台のように音を呼び、周囲を導く力を持った音に、自然と体が反応してしまう。


「……響君、やっぱり化け物だな」


若田の声は小さく、震えていた。


「前も聴いてたけど、改めて実感する……」


来島が息を整えながら呟く。


桜咲は震える指先で譜面を握りしめ、目を逸らせない。


その音は部員たちの心を揺さぶった。技術だけではなく、音楽の流れを自分の意志で作り、空間を導く。


まさに『従う音ではなく導く音』。


「次のオーディション、どうなるんだろう……」


若田は無言のまま楽器を握り直す。


誰も口に出せなかった恐怖と畏怖が、心の奥で渦巻く。響の存在を前に、改めて自分たちの小ささを知る瞬間だった。



廊下の端で、東堂(とうどう)もまた演奏を聴いていた。


下を向いたまま、そして持っていたペットボトルを握りつぶした。


廊下にペットボトルの潰れた音が響く。


「目障りだ、あの時も、今も、これからも……」



県大会は刻一刻と迫っている。1人ひとり考えは違う。それでも東縁もまたさらなる高みを目指す......


導く音

それを奏でられる真の奏者を求めて。

響の音は、ただ響くだけじゃない。空間を揺らし、人の心を動かす。

その力を前に、部員たちは息を呑む――恐怖と畏怖が入り混じる瞬間だった。

次のオーディション、そして県大会。

響の本当の音は、まだ誰も知らない景色を見せてくれる。たとえ、誰かに縛られていようと.........

しかし本人はそれに気付けないだろう。

感想一言でもいいのでお願いします。評価も是非。

次回も楽しみに!!

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