32話 1人の世界
朝の校舎は、いつもと変わらなかった。昇降口に流れる話し声も、廊下を抜ける風の匂いも、今まで通り。
けれど、響だけが知っていた。自分の中で、何かが確実にずれてしまったことを。ケースの重さが、妙に現実的だった。肩にかかる感触が、逃げ場を与えてくれない。
合奏準備の音が、部室に満ちていく。譜面を広げる音。椅子を引く音。金属が触れ合う、乾いた気配。そのすべてが、今までと同じ――なのに、響の呼吸だけが、わずかに合っていなかった。
まだ答えは出ていない。
目を逸らすこともできなかった。
バスパートの練習教室に、ひとつの影があった。
窓際に置かれた譜面台と、壁際に並ぶケース。その中央で、響は一人、ユーフォを構えている。
ロングトーン。
ゆっくりと、息を流す。
音は低く、安定している。いつも通り――そう言えるはずだった。
(……少し、軽い)
自分の音に、ほんのわずかな違和感を覚える。
響は眉をひそめ、もう一度息を入れ直した。合わせにいこうとする癖が、無意識に顔を出す。
だが、そこで一瞬、手が止まった。
(誰も、いないのに)
思わず、小さく息を吐く。
譜面を見下ろす。
課題曲の低音パート。
支え続ける音、流れを作る音。
いつもなら、迷わない。ここはこう吹く、と身体が覚えている。
それでも今は――ほんの一拍、間を置いた。
そして次の音を、少しだけ前に置く。和音を待つのではなく、呼びにいくように。
音が、空間に残った。
その瞬間、廊下から足音が聞こえてくる。
がらり、と扉が開いた。
「もう来てたのか」
最初に顔を出したのは香久山だった。チューバを抱えたまま、響を見る。
「早いな、相変わらず」
「はい…ちょっとだけ」
曖昧に返すと、香久山は気にせず中に入ってくる。
続いて、来島、そのうしろから桜咲らが続々と入ってきた。
「今日も一人でやってたの?」
桜咲が言いながら、楽器を下ろす。
「いつも通りです」
そう答えながら、響は楽器を構え直す。
来島がチューナーを取り出し、音を確認する。
「じゃ、軽く合わせるか」
全員が音を出す準備を整える。そのときだった。
「そういえばさ」
来島がチューナーを片手に、何気なく言った。
「次、県大会前のオーディション、あるよな」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「あ〜……」
桜咲が、露骨に肩を落とした。
「またやるのかぁ。正直、毎回これだと気が抜けないんだけど」
「わかる」
来島も苦笑いを浮かべる。
「大会ごとにオーディションって、慣れたけどさ。終わったと思ったら、また一からだもんな」
香久山はマウスピース片手に軽く息を吐いた。
「でも、それが東縁だろ」
その言葉に、二人は顔を向ける。
「一度決まったら固定、じゃない。毎回、今の音で決める。瞬崎先生がそうしたからこうして地区を突破できてるんだ」
「理屈は分かってますよ。けど……」
桜咲は譜面台に肘をつき、天井を仰ぐ。
「練習、また詰め直しですよ。県だし」
そのとき、扉の方から声がした。
「だから、じゃない?」
入ってきたのは永井と、今伊だった。個人練習を終えたばかりなのか、息が少し上がっている。
「せっかく毎大会オーディションあるんだからさ」
永井は、明るい調子で続ける。
「レギュラー、狙わないともったいないですよ」
「そうそう」
今伊も頷く。
「どうせなら、前よりいい音で挑まないと。同じままじゃ、意味ないし」
来島が少し驚いたように永井を見る。
「永井、お前そんなこと言うタイプだったっけ?」
「前は前、今は今」
永井は笑って楽器を構えた。
「県大会だよ?出られるだけでもすごいんだから、欲出さないと」
香久山が、ふと響を見る。
「響、お前は?」
問いかけは軽い。だが、響の中では、やけに重く響いた。
「……どう思ってる?」
一瞬、言葉に詰まる。
響は、楽器を握り直した。
「……ちゃんと、吹こうと思います」
短い言葉だった。
もっと言いたいことはあるはず、なのに。
香久山は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そうだな」
来島も、桜咲も、特に何も言わない。
ただ、それぞれ楽器を構える。
いつもの練習。
いつものバスパート。
――オーディション。
その言葉が出るたび、胸の奥で何かがわずかに揺れる。
響は、それが何なのか、まだ名前をつけられずにいた。
音を合わせる。
それだけのはずだった。
若田の合図で、低音が揃う。チューバの芯、ユーフォの厚み、ホールを想定した響き。何度もやってきた、いつもの形。
――なのに。
(……遅い?)
一拍、ほんの一瞬。
響の中で、音が待たされる感覚があった。
若田が悪いわけじゃない。香久山の音程も安定している。桜咲の入りも、問題ない。他の音も全て。
それでも、響は無意識に息を早く流していた。
低音を「支える」のではなく、流れを「呼びにいく」ように。
自分でも気づかないうちに、音が前へ出る。
「……」
すぐに息を抑えた。
合わせ直す。
引く。
全体に溶け込ませる。
すると今度は、音が軽く感じた。
(……どっちだ)
ほんの数小節。
たったそれだけのやり取りが、やけに長く感じられる。
「はい、そこまで」
若田の声で、音が止まった。
「もう一回いこうか。今の、入りだけ」
誰も特別な顔はしていない。指摘もない。違和感を口にする者もいない。それが、逆に響の胸に残った。
(今の、僕だけだったのか)
再び、構える。
次は抑えた。出過ぎないように、合わせることだけを意識する。
音は、きれいに重なった。自分の音も自然と綺麗に重なる。
正解だ、と自分で分かってはいた。
なのに、その音にどうしても嫌気がする。
脅迫され、
それに従う。
前にそう自分で選んでしまったこと。
まるで自分で自分を裏切っているような気分だった。
一段落したところで、扉がノックされた。
「失礼しまーす」
顔を出したのは久瀬だった。譜面の束を抱え、少し息が上がっている。
「あ、みんな揃ってる。ちょうどよかった」
そう言って教室に入ると、久瀬は譜面台の上に紙を広げた。
「瞬崎先生から預かってきた。次のオーディションの詳細」
その一言で、空気が少し引き締まる。
久瀬は紙を順に配っていく。
――県大会前オーディション
響は手元に届いた紙を開くと、思わず息を呑んだ。
地区大会のときとは、指定箇所が大きく変わっていた。
ユーフォニアム
・課題曲Ⅰ「マズルカ」:C〜D、
・自由曲「黎明」:冒頭〜C、中間部ソロ前〜ソロ終わり
チューバ
・課題曲I「マズルカ」:冒頭〜C
・自由曲「黎明」:G〜Jの5小節前、L〜フィナーレ
コントラバス
・課題曲 I「マズルカ」:B〜D
・自由曲「黎明」:K〜Lのグランディオーソ前まで
低音パートの支えや、流れを作る箇所
合奏で曖昧になりやすい箇所
前に出すか引くかで音楽の流れが変わる箇所
――瞬崎が厳選したに違いない。
そして、ソロの箇所もちゃんと残っていた。前回、目立つ旋律を吹いた部分だ。
無意識に、今日の練習のことが思い出される。
音が前に出た瞬間。
引いたときの軽さ。
合わせるときにわずかに迷った一拍。
「地区のときと、全然違うな」
来島が紙を見ながら、軽く眉を寄せる。
「瞬崎先生相変わらず容赦ないな」
久瀬が少し肩をすくめる。
「地区のオーディションや、今までの合奏で“できてなかった箇所”を中心に、瞬崎先生が作ったんだと思う」
合わせるだけじゃ足りない。でも、前に出ることが正解とも限らない。
「ま、文句言っても始まらんか」
来島が苦笑して楽器を構える。
「練習するしかないな」
他も、それぞれ頷く。
誰が吹くのか
全体を聞くことができるのか
今後、音楽を引っ張って行けるのか
その判断が地区以上に明確に分かるはずだ。
響は楽器を背負い、バスパート教室を後にした。
「個人練、行ってきます」
小さな声を残して、誰も気づかないように足を速める。
向かったのは、旧南創庫の前。普段は部員もあまり立ち入らない、少し薄暗い場所だ。
周囲の雑草が足元に揺れ、廃れた雰囲気が響の背筋をピリリとさせる。
目の前には、錆びつき、塗装の剥がれたベンチがぽつんと置かれていた。座っても壊れはしなさそうだと確認すると、響はゆっくり腰を下ろす。
少し息を整え、ユーフォを抱える。音を出す前に、一度だけ深く息を吸い込む。
静寂の中、ロングトーンを始めた。
空気に音が溶けていく。低く、重く、響くべき場所に正確に広がる音。誰もいない。聞くのは自分だけだ。
それでも、音のひとつひとつに、昨日の練習で感じた違和感や迷いが重なる。
響は唇に息を当て、ユーフォのベルをほんの少し上げたり下げたりしながら、音の重みを確かめる。ベンチの冷たさと錆の匂いが、無言の緊張感を強めた。
「……」
再び息を流す。音は前よりも少しずつ、響きの芯に重なり、空間に残った。
誰もいない創庫前の静寂の中で、響は自分だけの世界に没入していく。
――すると、ふと足音が近づいた。
「……瞬崎先生」
気配の方向を見ると、瞬崎だった。
校舎の影をゆっくり歩く先生の姿。手には何も持っていない。
「頭が痛くなって、気分転換にぶらぶらしていただけです」
先生は穏やかな口調で、響の視線に気づき軽く微笑む。
響は少し疑問に思った。まだ職務中じゃないのか?
いや、そんなことはどうでもいい――音を止めるわけにはいかない。
――再び息を流す。
先生はただ、静かに聞いている。注意するでも、褒めるでもなく、ただそこにいる。
響は、ユーフォをおろし瞬崎の方を見る。
「どうですか?」
――しかし、瞬崎は答えない。
「……どう変えるかどうかは、月本君次第です」
その声は、去り際にだけ響いた。
「コンクールも、そしてこれからも」
響は唇を噛む。何かを言いたくても、先生はもう歩き去っている。
その背中が見えなくなる直前、先生は小さく振り返り、低く声をかけた。
「多くの人は、”従う音”に囚われています。本当は、私のアドバイスも当てになるとは思っていません。だからこそ、君のような、”導く音”を私は大切にしていきたい」
――響はしばらく、ただユーフォを抱えたまま座っていた。瞬崎先生の言葉が頭の中で何度も再生される。
従う音
導く音
ただアドバイスをそのまま再現して終わる音か、
ルール、概念に囚われず進むべき道を示す音か、
瞬崎の言葉は今の響には重かった。
響は少し息を整え、楽譜ファイルの中から1枚の楽譜を取り出す。
「Euph. for You――」
ヤマト再合奏前以来、久しぶりに手にする楽譜だ。息をつけ、唇を当て、軽く吹き始める。
――音が、すぐに空間を満たした。
音は、空気を押し広げ、近くのガラスを震わせる。古びた倉庫も、音の波に合わせてカタカタと揺れた。
音は校庭を、校舎を超えて、街中にまで広がっていくようだった。
響の音は空間を支配していた。倉庫周りの薄暗い空間を、低音の波が満たしていく。
練習していた部員たちは、音を聴きすぐに気づく。
「……響だ」
香久山は思わず手を止め、ベルを握り直す。音圧に押され、息がわずかに乱れる。
来島もすぐに悟った。
「やっぱり……あいつか」
桜咲は目を見開き、唇をわずかに震わせる。
しかし、気づいた瞬間、ただ驚くのではなく、彼らの体の奥から違う感覚が湧き上がる。
単なる上手さでは説明できない、異常とも言える演奏の力強さと支配力。
「……相変わらずだな」
香久山が小さく呟く。
「音が……空間を揺らしてる……」
来島も息を漏らす。
「……ほんと、何なの?」
桜咲は唖然としたまま、楽器を握る手が止まる。
空気の密度まで操作しているかのように、音は重く、厚く、しかし滑らかに流れる。
部員たちはその場で立ち尽くし、息を飲む。誰も声を出せない。指揮台のように音を呼び、周囲を導く力を持った音に、自然と体が反応してしまう。
「……響君、やっぱり化け物だな」
若田の声は小さく、震えていた。
「前も聴いてたけど、改めて実感する……」
来島が息を整えながら呟く。
桜咲は震える指先で譜面を握りしめ、目を逸らせない。
その音は部員たちの心を揺さぶった。技術だけではなく、音楽の流れを自分の意志で作り、空間を導く。
まさに『従う音ではなく導く音』。
「次のオーディション、どうなるんだろう……」
若田は無言のまま楽器を握り直す。
誰も口に出せなかった恐怖と畏怖が、心の奥で渦巻く。響の存在を前に、改めて自分たちの小ささを知る瞬間だった。
廊下の端で、東堂もまた演奏を聴いていた。
下を向いたまま、そして持っていたペットボトルを握りつぶした。
廊下にペットボトルの潰れた音が響く。
「目障りだ、あの時も、今も、これからも……」
県大会は刻一刻と迫っている。1人ひとり考えは違う。それでも東縁もまたさらなる高みを目指す......
導く音
それを奏でられる真の奏者を求めて。
響の音は、ただ響くだけじゃない。空間を揺らし、人の心を動かす。
その力を前に、部員たちは息を呑む――恐怖と畏怖が入り混じる瞬間だった。
次のオーディション、そして県大会。
響の本当の音は、まだ誰も知らない景色を見せてくれる。たとえ、誰かに縛られていようと.........
しかし本人はそれに気付けないだろう。
感想一言でもいいのでお願いします。評価も是非。
次回も楽しみに!!




