31話 自らの意志
お待たせしました。番外編の正月パートが出てすぐですが、本日から本編の連載を再開します。改めて2026年も「心はB♭で響いている」をよろしくお願いします。
東縁高校は吹奏楽コンクール東北信地区大会で金賞を受賞、また代表として長野県大会への出場も決まった。しかし県大会まで、残された時間は三週間。地区大会を経て、部内の空気は少し張りつめ、揃える音がもたらす安心感も、どこか薄れていた。
そして、響の心には、まだ整理できぬ違和感が残っている――。彼の前に立ちはだかる“誰かの意思”と、“自分自身の選択”。その間で、音楽はどのような決断を求めるのか。
県大会まで、あと三週間。
地区大会が終わっても、部内の空気は緩んでいなかった。むしろ、少しだけ張りつめている。
合奏準備の音が、いつもより静かだ。ケースを開ける音、譜面を並べる音、椅子を引く音。どれも最低限で、無駄がない。
今日も、変わらない練習。
音出しから、基礎合奏、そして課題曲と自由曲。
最初の和音が鳴る。音程は合っている。バランスも悪くない。地区大会のときと、同じ――はずだった。瞬崎は、途中でタクトを止める。
「ダイヤモンドのD。低音、もっと響かせましょう。音量じゃなくて、息の支えです。和音の下を押し上げる意識で」
「はい!」
「エースのA、主旋の皆さんは走りすぎです。伴奏が築いた土台から落ちてますよ」
「はい!」
瞬崎の指摘に董白も続く。
「トランペット、前より音は飛んできてるが、音が割れてる」
「はい!」
「あとは...ユーフォ、いや正確には響!」
「あ、はい」
「地区の時から何も変わってない。揃える音はもう十分だ。でも今のお前の音、前に出る気がない」
「はい」
瞬崎は気にせず進める。
「ではもう一度、頭から」
合奏練習が終わり、片付けの時間になる。
椅子を畳む音。
譜面をファイルに戻す音。
金管楽器のケースが閉まる、低く乾いた音。
「お疲れさま!」
久瀬の一言で、その日の部活は終わった。
部員たちはそれぞれ、いつも通りの動きで帰り支度を進めていく。笑い声もある。だが、どこか控えめだった。
その頃、音楽準備室では、二人が向かい合っていた。
瞬崎と、董白。
扉が閉まると、外の音が一気に遠ざかる。
「……今日は一段と厳しめでしたね」
瞬崎が、譜面を机に置きながら言った。
「当たり前だ」
董白は腕を組んだまま、即答する。
「県だぞ。地区の延長だと思わせたら、そこで終わる」
瞬崎は苦笑する。
「分かってはいます。ただ、今の東縁は――“揃えること”でここまで来た部活ですから」
「だからこそだ」
董白は、低い声で続ける。
「その武器はもう通用しない。県では、“揃ってる”のは前提条件だ」
一枚、講評用紙を指で叩く。
「見ただろ。評価は安定。でも順位はギリギリだ」
瞬崎は、静かにうなずいた。
「……二回目のオーディション、やりますか」
その言葉に、董白の視線が鋭くなる。
「やらない理由がない」
即断だった。
「今のままじゃ、誰が前に出るのかが曖昧だ。県では、その曖昧さが一番削られる」
瞬崎は、少し間を置いてから口を開く。
「月本君の扱いも、考えないといけませんね」
その名前に、董白は一瞬だけ黙った。
「……あいつな」
腕を組み直す。
「技術は問題ない。むしろ、部内では頭一つ抜けてる」
「ですよね」
「だが、自分から前に出ようとしない」
その言葉は、断定だった。
「支える音に徹しすぎてる。それが強みでもあり、限界でもある」
瞬崎は、譜面越しに天井を見上げる。
「前に出ることが、目立つことだと思っている節があります」
「違う」
董白は、はっきりと言った。
「前に出るってのは、音楽の行き先を決めることだ」
一拍。
「それを、あいつはまだ選んでない」
瞬崎は、静かに息を吐いた。
「……だから、オーディションですか」
「ああ」
董白は短く答える。
「選ばせるんじゃない。選ぶ覚悟があるか、音で見せてもらう。今回のオーディションは僕も聞かせてもらう」
準備室に、沈黙が落ちる。
その外では、部員たちの足音が、少しずつ遠ざかっていった。
「県大会まで、あと三週間」
瞬崎が、改めて口にする。
「時間は、あまりありませんね」
「十分だ」
董白は、譜面を手に取った。
「変わる気があるならな」
その言葉は、誰に向けたものか、はっきりしなかった。
響は、家に帰ってきていた。
玄関で靴を脱ぎ、誰とも言葉を交わさないまま階段を上る。自室の扉を閉めると、家の生活音が一気に遠のいた。
制服のまま、ベッドに身を投げ出す。天井を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
「……疲れた」
そう呟いた声は、思ったより小さかった。
身体を起こし、鞄から楽譜を取り出す。いつもの課題曲。見慣れたページ。ベッドに腰を下ろし、譜面を広げる。音を出す気力はない。ただ、目で追うだけだ。
指先で、旋律をなぞる。
一小節。
二小節。
(ここは……)
低音が和音を支える場所。今日、董白に言われた言葉が、ふとよみがえる。
――合わせるな。和音を作りに行け。
指が、自然と止まった。
次の瞬間だった。
ズキリ、と。頭の奥を、鋭い痛みが貫いた。
「……っ」
思わず、楽譜を落とす。
視界が、わずかに揺れる。音が、遠くなる。
まるで、頭の中で何かが鳴ったかのような――低く、重い響き。
「……な、んだ……」
言葉にならないまま、身体が傾く。
ベッドに倒れ込むと同時に、意識が、急速に遠ざかっていった。
譜面は、床に落ちたまま。
指先だけが、まだ音を追うように、わずかに動いていた。
「おい響!話がある」
突然、後ろから声がした。振り返るとそこにいたのは東堂だった。
「東堂先輩、何かようですか?」
問いかけた瞬間、東堂はいきなり響の腕を掴み、力強く歩き出す。
「な、なんですか!離してください!」
必死に抵抗するも、東堂は片手で響の口を押さえる。
「喚くな、目障りが」
そのまま響は、抵抗も虚しく、東堂に連れて行かれる。廊下のざわめきや部活の声は次第に遠ざかり、周囲の景色も音も曖昧になっていった。
教室に足を踏み入れると、東堂はゆっくりと足を止めた。窓もカーテンも閉められ、部屋は漆黒の闇に包まれている。響は背筋に寒気を感じながら問いかける。
「……なんのつもりですか」
東堂は一瞬の間も置かず、冷たい声で答える。
「オーディション、ソロを若田に譲れ」
響の目が見開かれる。耳を疑うような指示。
「そ、それって……僕がわざと下手に吹けってことですか?」
「そうだ」
東堂の声には迷いも躊躇もない。まるで当然の命令のようだ。
「何言ってるんですか?!意味わかんないですよ!そんなのオーディションじゃありません!!」
叫ぶ前に、東堂の手が響の胸ぐらをつかむ。鋭い力で押し付けられ、息が詰まる。
「お前が目障りなんだよ」
響の心臓は張り裂けそうに打ち、手足が震える。言葉にならない恐怖。必死に抵抗するも、東堂の手は離れない。
「お前が来た時からずっと……嫉妬してた。全員だ」
響は耳を疑う。
「え……?」
東堂の声は低く、床に響くように、重々しく、そして苛烈だった。
「人間のレベルじゃない……お前がいると、部が壊れる」
響の胸がざわつく。息が詰まる。
「俺たち3年は、今年が最後なんだ……」
拳を握りしめ、東堂の声は震えていたが、それは怒りでも恐怖でもなく、ただ「お前を潰したい」という純粋な独占欲の震えだった。
「……お前さえいなければ、全てが上手くいく」
響は思わず後ずさる。目の前の東堂は、ただの先輩ではない――嫉妬と支配欲に取り憑かれた異形の存在だった。
「な……何言ってるんですか……そんな……」
言葉は震え、口をつくが、東堂の手は強く響の腕を掴み、抵抗は無力だった。
「黙れ……喚くな。お前の存在そのものが、俺の、皆の目の前で暴れている。邪魔なんだよ」
響の視界は暗く、心は押し潰されそうになる。逃げる場所はない――東堂の支配が教室全体を覆っていた。
「本当は今にでも消してやりたい」
冷酷な独占欲と嫉妬心が凝縮された言葉に、響は震え、言葉も息も詰まる。教室の漆黒の闇と、東堂の目だけが、響の心を完全に締め付ける。
言葉は短く、冷酷だった。響の視界は暗闇と東堂の姿だけに支配される。
「協力してくれればちゃんと代価を払ってやる。しないなら.........」
そう言って東堂はカッターを取り出しちらつかせる。
「どうなってもいいんだぞ?」
急に視界が闇に飲まれ、響は何も見えなくなった。心臓の音だけが耳を打つ。息が、頭が、ぼんやりと震える。
次の瞬間、再び目の前に教室が現れる。なぜか、入らなければならない気配に胸を突かれ、響は自然とドアを開けた。
中には、東堂が立っていた。
「ようくやったなぁ、響」
無意識に答える。
「はい」
「ちゃんとお前がソロから落ちてくれた。今日はそれで勘弁してやる」
東堂はポケットから何かを取り出す。
「ほら、ちゃんと代価を払ってやるよ!!!!!!!!!!」
響の顔に投げつけられるもの。避けることもできず、額に直撃。低く重い音が教室に響き渡る。
ガン……!!
東堂はそれを見ると、何事もなかったかのように教室を出ていった。最後に一言、低く残す。
「お前のせいで……」
響は額に触れ、落ちたものを拾う。現金、ざっと五万。とユーフォのマウスピース。前に自分が使っていたもの。オーディション前に別のマウスピースに差し替えられていたのだろう。
下を向いたまま、握りしめる。金とマウスピース。胸の奥が重く、痛むようだった。そして直撃した額からは静かに血が垂れていた。
響は、はっと目を覚ます。天井が、いつもの自室の白い天井が視界に広がっている。身体が汗でべっとりして、心臓はまだ早鐘を打っている。夢――だったのだ。
ベッドの中で手を握りしめ、額に触れる。夢の中で感じた痛みも、冷たい感触も、すべて現実ではない。ただ、額にはうっすら汗が伝っているだけだった。
「……夢……か」
響は小さく息を吐き、布団を握りしめたまましばらく動けなかった。
胸の奥に、あの教室の暗闇や、東堂の冷たい声が、まるで幻影のように残っている。どれも確かに現実。僕がかつて経験したこと。それが夢で再び蘇ったのだ。
額に手を当てながら、響はそっと目を閉じ、深呼吸する。
「……落ち着け……」
そして、自分の楽譜が入った鞄を見下ろす。現実の響の手元には、いつもの課題曲のページが静かに広がっていた。
響は過去に東堂に脅迫されていた。ソロを若田に譲れ、と........
真実を知っているのは東堂と響の2人だけだった。
音楽準備室。外は夕暮れ。静かな部室で、瞬崎と瀬戸川が向かい合う。
「……月本君、オーディション前の動きも少し不可解でしたね」
瞬崎は譜面を見つめながら、慎重に言葉を選ぶ。
「そうですね」
瀬戸川は低く頷く。腕を組み直し、目を細める。
「やつが自ら前に出ないのは理解できる。しかし……あの時の演奏には、何か“意図された揺らぎ”があった気がする」
「意図された揺らぎ……」
瞬崎は目を伏せ、少し間を置く。
「つまり、誰かに……コントロールされていた、ってことですか?」
瀬戸川は少し黙った後、短く答える。
「可能性は否定できない」
二人の間に、言葉にならない重みが落ちる。
「……ならば、次のオーディションでは、月本君自身の意思で前に出るしかない」
瞬崎の声は低く、決意を帯びていた。
「ええ」
董白は譜面を手に取り、窓の外を見やる。
「だが、それができるかどうか……本人次第だ」
教室を出ていく東堂の背中。拳を強く握りしめ、窓の外の空を見上げる。
「あいつのせいで、海斗……お前は離れたんだ」
拳の力が床に響く。言葉は震え、胸の奥の苦しみが滲む。闇の中に、東堂の声だけが残り、教室には静寂だけが戻る。
「……許してくれ、海斗。おれには、こうすることしかできなかった」
あの教室の暗闇は、響の胸に重く残った。東堂の支配、誰かに操られた揺らぎ……それらはすべて、彼の中で静かに混ざり合っている。
響は、自らの意志で、前に出る決断を迫られる――。誰が彼を導くのか、そして彼はその選択を貫くことができるのか。
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次回もお楽しみに!!




