30話 数字が示す道
勝ったはずなのに、胸の奥には微かに重さが残っていた。数字は正直で、歓声も拍手もすでに過去のものになっている。
それでも、次の音はもう鳴り始めていた。静かな家、整った教室、何も変わらない日常。けれど、何かが確かにずれている
ホールの自動扉を抜けた瞬間、外の空気がやけに冷たく感じられた。
さっきまで、音に包まれていた身体が、現実に引き戻される。
夕方の空は、まだ明るい。けれど、太陽はもう低く、長い影が駐車場に伸びていた。
東縁高校吹奏楽部、一行はホール前に集まっていた。
ケースを地面に置く音。
水筒の蓋を開ける音。
誰かが深く息を吐く音。
「……終わったんだな」
誰かの小さな呟きに、誰も否定しなかった。
地区大会は、確かに終わった。
瞬崎が、一歩前に出る。いつもの柔らかい表情だったが、目だけは、はっきりと部員全員を捉えていた。
「皆さん、地区大会お疲れ様でした。そしておめでとうございます。結果も含めてよくやったと思います」
一瞬、部員たちの表情が緩む。だが、瞬崎はそこで言葉を切らなかった。
「……ただし」
空気が、わずかに引き締まる。
「県大会は、今日みたいにはいきません」
誰も、驚かない。むしろ、全員がどこかで分かっていたことだった。
「今日の演奏は、“揃っていた”。それは強い。でも――」
瞬崎は、少しだけ間を置く。
「それだけじゃ、足りない場所です」
視線が、一人ひとりに向けられる。
「これからは、揃えるだけじゃ勝てません。音楽そのものを、もっと前に出さなければいけません」
響は、その言葉を胸の奥で受け止めた。
揃っていた。確かに、それは自分たちの武器だった。けれど、それ以上を求められている。
「ですが」
瞬崎は、ふっと笑った。
「だからこそ、行く意味があると私は考えています」
その一言で、空気が少しだけ軽くなる。そこへ、董白が一歩前に出た。腕を組み、いつもより低い声で口を開く。
「……創部以来初の地区突破。これは事実だ」
淡々とした口調だが、その目は誇らしげだった。
「本当におめでとう。でも」
一瞬、沈黙。
瞬崎と同じ言葉を使い、董白は続ける。
「県では、“通用した”なんて言葉は通じない。勝ちたいなら、今日の演奏から学ぶんだ」
厳しい言葉だった。けれど、誰一人として反発しない。むしろ、その言葉が自然に胸に落ちてくる。
「……ってなわけで皆んな今日はお疲れ様!地区代表として、練習怠るなよ〜」
董白はそれだけ言うと、一歩下がった。再び笑いが起こる。
全員の目は、確実に同じ方向を向いている。それだけでは、もう足りない場所へ向かうことになるとも。
玄関の扉を開けると、すぐに声がした。
「おかえり、おめでとう!」
その一言に、響は一瞬だけ立ち止まった。キッチンの方から、母が顔を出す。
「……ありがとう」
それだけで、胸の奥が少し緩む。ホールでは張りつめていた何かが、ようやくほどけた気がした。
靴を脱ぎ、リビングに入る。テレビはついているが、音は小さい。食卓には、すでに夕食の準備が整っていた。
「県大会行くんだって?」
箸を並べながら、母が聞く。
「……まあ、うん」
響は、いつも通り短く答える。
「すごいじゃない。よく頑張ったね」
派手なリアクションはない。けれど、その声は温かかった。
しばらくして、父も席につく。
「地区、突破したんだってな。おめでとう」
父はそれだけ言って、味噌汁に口をつけた。
「ありがとう」
「まぁでもここからだ。お前が本気で上の大会に行きたいなら努力しろ。きっと応えてくれるはずだ」
それ以上、詳しい話はしなかった。演奏の内容や、順位の重みを説明する必要はない気がした。
食卓には、いつもの時間が流れる。母が思い出したように言う。
「そういえば、また来週、愛美が帰ってくるって」
「……また?」
響は、箸を止めた。
「大学の方、少し落ち着いたみたいでね。短いけど、帰省するって」
愛美。姉の名前が出ると、空気が少し変わる。
「大会の話、聞きたいって言ってたよ」
「……別に、大したことじゃないけど」
そう言いながら、胸の奥がわずかにざわついた。
練習。
県大会。
次のステージ。
響は、湯気の立つ茶碗を見つめていた。
勝ったはずなのに。家に帰って、ようやく落ち着いたはずなのに。
なぜか、心の奥では、次の音がもう鳴り始めている気がしていた。
自室の扉を閉めると、家の音が少し遠くなった。机の上には、ユーフォのマウスピースと、譜面の束。いつもの光景だ。
ベッドに腰を下ろした瞬間、スマホが震えた。
通知音。
〈東縁吹部グループ〉
久瀬が、写真を送っている。開くと、画面いっぱいに紙が映った。大会でもらった、審査員講評用紙だ。
「来た……」
思わず、小さく呟く。続けて、もう一枚。全体の得点表。
各校の点数が、縦に並んでいる。
合計点。
そして、代表校のライン。東縁高校の点数は――その線を、確かに越えていた。
「……金か」
結果はもう知っている。けれど、数字で見ると、また違う重みがあった。
一つひとつ、講評を拡大して読む。
《全体のアンサンブルが非常に整っています》
《音程感が安定しており、基礎力の高さが感じられました》
《各パートの役割理解が明確です》
どれも、悪くない。むしろ、評価は高い。指先で、次の行へスクロールする。
《一方で、音楽的な起伏や、表現の幅に課題が残ります》
《もう一段階、踏み込んだ表現が欲しいです》
《より個性の明確化が鍵になるでしょう》
「……やっぱり」
小さく息を吐く。瞬崎が言っていたことと、同じだ。
揃っている。
安定している。でも、それだけでは足りない。
点数を、もう一度見る。代表校の中で、東縁は――ぎりぎりだ。
代表校7校中、下から5番目。大きく差をつけているわけではない。ほんの数点の世界。
「県じゃ……」
思わず、言葉が漏れる。写真の下に、メッセージが並んでいた。
〈久瀬〉
「思ったよりギリギリじゃない?」
〈狩川〉
「でもとりあえず通ったからね」
〈香久山〉
「県はもっとヤバそうだな」
短い言葉のやり取り。冗談っぽく見せているが、全員が同じ現実を見ている。
響は、スマホを伏せた。
部屋が、静かになる。
勝った。
次に進んだ。
それなのに、胸の奥が、少しだけ重い。
数字は正直だ。
拍手も、歓声も、すべてが終わったあとに残るのは――これだ。
「……前に出ろ、か」
瞬崎の言葉が、脳裏によみがえる。
揃えること。
支えること。
それは、自分が一番得意な役割だった。
けれど――
それだけで、県大会を越えられるのか。
スマホの画面は、もう暗い。
それでも、頭の中では、まだ音が鳴っていた。
次は、どんな音を出せばいい。
それを、考え始めてしまった自分に、響は気づいていた。
週明けの朝。
校門をくぐった瞬間、視界に赤と白が飛び込んできた。
校舎の壁に、いくつもの横断幕が掲げられている。
『祝・男子陸上、新体操インターハイ出場』
「……すご」
思わず、そんな声が漏れた。
インターハイ。
その言葉の重さは、さすがに分かる。ふと、別の考えが浮かぶ。
吹奏楽部も――もし、東海大会に出場が決まれば。
きっと、同じように横断幕が出るんだろう。
……東海大会。
その言葉が、やけに自然に頭に浮かんだ。
(あれ?)
立ち止まりそうになるのを、なんとかこらえる。
いつ東海大会の話なんて聞いた?
誰かに説明された覚えもない。
自分で調べた記憶もない。
それなのに――
「県の次は、東海」
そんな知識が、最初からそこにあったみたいに。響は、無意識に校舎を見上げていた。
放課後の教室は、静まり返っていた。
窓から差し込む西日の中、机が整然と並んでいる。教室に残っているのは、二人だけだった。
響と、担任の瀬戸川。
「じゃあ月本、学校生活について聞くぞ」
瀬戸川は、ファイルを手にしながら言った。
「勉強の方はどうだ? 困ってることはあるか」
「……特には」
「数学と歴史は、問題ないな」
紙をめくる音。
「国語は……もう少しだ」
「はい」
それだけで、響は視線を落とす。
「授業態度は真面目だし、提出物も遅れない」
瀬戸川は淡々と続ける。
「生活面も、今のところ問題はない」
一度、ペンが止まった。
「部活の方は……言うまでもないな」
「……はい」
「地区大会突破だ。おめでとう」
事実確認のような口調だった。
「副顧問として見ていても、よくやってる」
そこで、瀬戸川は一瞬だけ言葉を探す。
「ただ」
響は、無意識に背筋を伸ばした。
「自分の立ち位置を、まだ完全には掴みきれてない」
「……」
「悪い意味じゃない。むしろ、伸びる余地があるってことだ」
瀬戸川は、そう付け加えた。
「焦るな。勉強も、部活も」
「...はい」
それ以上、踏み込むことはなかった。けれど、響は分かっていた。
瀬戸川は、何かに気づいている。それを、今はまだ言葉にしないだけだ。
面談を終え、響はファイルを抱えて廊下に出た。いつもの、低音パート練習教室へ戻るだけだ。
放課後の校舎は、少しだけざわついている。
角を曲がった、その瞬間だった。
「あっ」
肩がぶつかり、足元がもつれる。次の瞬間、床に尻もちをついていた。
「すみません、大丈夫ですか?」
顔を上げると、見覚えのある顔があった。
天奏だった。
その隣に、もう一人。見知らぬ女性。
年上に見える。先生なのだろうか?
「あ、はい……大丈夫です」
響が立ち上がると、女性は軽く頭を下げた。
「よかった。すみません」
それだけ言って、二人は並んで歩き去っていく。
ふと、足元に視線を落とした。
楽譜だった。
見たことのない譜面。
「……落としたのかな」
さっきの二人を思い浮かべ、顔を上げる。けれど、廊下の向こうに、もう姿はなかった。
届けに行こうとして――
「おーい!」
奥の方から、声が飛んできた。
「あ、いたいた。もう練習始まるよ!」
来島だった。
「ごめん!今行く」
響は答え、無意識のまま楽譜を拾い上げる。そして、手に持っていたファイルに挟んだ。
深く考えることもなく。
そのまま、歩き出す。
その存在を――すぐに、意識の外へ追いやるように。
地区大会は終わりました。けれど、物語としては、ここからが本番です。
日常に戻ったようで、少しずつ、歯車は別の方向へ動き始めています。
次は県大会。
そして、その先へ。
感想、評価是非お願いします。
※前話で告知した通りここで番外編を一旦挟もうと思います。本編連載再開は年明けになると思います。ご理解ください。
これからも「心はB♭で響いている」をよろしくお願いします。
番外編お楽しみに!




