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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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29話 奇跡の到来

舞台の扉の向こうから、音が漏れてくる。はっきりとは聞こえないけれど、演奏は確かに続いている。

五十五人の呼吸が揃うその瞬間まで、まだ何も始まっていない。

これは、地区大会という舞台で、東縁高校が刻む音楽の物語――。

舞台袖は、思っていたよりも狭かった。


大きな扉の向こうから、音が漏れてくる。はっきりとは聞こえない。


けれど、演奏が続いていることだけは、確かだった。


誰も喋らない。


それぞれの楽器を抱えたまま、五十五人が並んで立っている。


足音。

椅子のきしむ音。

そして、また音楽。


壁越しの響きは、どこか遠い。自分たちの音ではないからだ。


響は、ユーフォを胸に寄せた。金属の冷たさが、指先に伝わる。


息を整える。音を鳴らす準備は、もう終わっている。


隣に気配が来た。


「……響」


顔を向けると、柊木が立っていた。

いつもと同じようで、少しだけ背筋が伸びている。


「頑張ろうね」


短く、でもはっきりとした声だった。


「絶対、全国行こう」


響は、一瞬だけ柊木を見る。それから、小さく頷いた。


「うん」


それだけで、十分だ。


あとは――順番を待つだけだった。


「――長野県東縁(とうえん)高等学校のみなさん、お願いします」


その一言で、戻れない場所へ踏み出した。


何が始まるのか?それを教えてくれるのは、これから鳴る音だった。



「プログラム17番、長野県東縁高等学校。課題曲Ⅰに続きまして、自由曲、能世林(のぜはやし)作曲、黎明(れいめい)〜到来の夜明け〜。指揮は瞬崎カルマ(しゅんざきかるま)です」


瞬崎は深々と礼をする。ホールに拍手が響いた。そして振り返り五十五人を見渡した。


そして、指揮棒を上げる。



最初の一拍が、ホールの床を踏みしめた。


音は鋭く、しかし硬すぎない。始まりの瞬間にありがちなためらいはなく、五十五人分の呼吸が、同時に前へ踏み出した。


《勇者のマズルカ》。


拍は跳ねる。だが、浮つかない。


地面を蹴りながら、確実に前へ進む歩みのようなリズム。


打楽器が刻む拍は、決して主張しない。けれど、その存在は揺るがない。全体の中心に、見えない重心を置くように、音楽を支えている。


そこへ、木管の旋律が乗る。


クラリネットの音は、驚くほど揃っていた。息の入り、音の立ち上がり、フレーズの終わり。


誰一人として飛び出さず、誰一人として遅れない。音が横に広がっていく。


旋律が、列をなして進んでいくような感覚。


フルートがその上をなぞる。軽やかだが、軽すぎない。高音は透き通り、ホールの奥へまっすぐ伸びていく。


そこに金管が加わる。


トランペットは、鳴らし切らない。


音量ではなく、方向だけを前へ示すように吹かれている。


角の取れた音が、木管の旋律を押し出す。


ホルンは、その隙間を埋める。和声の中に溶け込み、気づけば音楽に厚みが生まれている。聞こえないわけではない。


ただ、前に出てこないだけだ。


低音が、すべてを受け止める。チューバの音は深く、揺るがない。


そのすぐ上で、ユーフォが鳴っている。響は、音量を求めない。


息は一定。


音程は、芯を外さない。


低音が安定すると、合奏全体の呼吸が揃う。誰かが次の拍を探す必要はない。


全員が、同じ時間の流れの中にいる。テンポは、微動だにしない。


瞬崎の指揮は大きくない。


煽ることも、抑え込むこともない。ただ、進む方向を示している。それで十分だった。


音楽は、勝手に走り出す。AからBへ、BからCへ。フレーズが自然につながり、音楽が切れ目なく流れていく。



中間部に差し掛かる。


旋律が、少しだけ表情を変える。明るさが増し、跳ねるリズムが前へ出る。


木管の動きが細かくなる。音の粒がそろい、転がるように進んでいく。一音一音が軽く、しかし雑ではない。金管は、それを包んだ。


決して覆い隠さない。旋律の輪郭を壊さない。ここでも、誰も無理をしない。フォルテでも、押し出しすぎない。


音量よりも、揃いを優先する。


整っている。それは、弱いことではない。揃っているからこそ、音は太い。


揃っているからこそ、前へ進む力が生まれる。客席の空気が、確実に変わっていく。


ざわめきは消え、ホール全体が音楽を受け止めている。誰かが身じろぎする気配もない。


演奏は続いていく。


マズルカ特有のリズムが、最後まで崩れない。ほんの一瞬の油断で崩れる曲を、最後まで保ち続けている。


低音が支え、内声がつなぎ、旋律が前へ進む。それぞれの役割が、正確に果たされている。


終盤に向かって、少しずつ音楽が引き締まっていく。打楽器が、わずかに力を込めた。


それに応じて、全体が一段階だけ前へ出る。派手ではない。だが、確実に高揚している。


 

クライマックス。


全員の息が、自然とそろう。音程が合い、縦がそろい、和音が一点に集まる。


そして、終結。


最後の和音が、きれいに決まる。音が止まった瞬間、ホールに静寂が落ちた。


余韻だけが、空気に残る。


一拍。

二拍。


瞬崎が、静かに指揮棒を下ろす。それから譜面をめくった。


《黎明〜到来の夜明け〜》。


ホールのライトが、静かに楽器に反射していた。


改めて瞬崎は五十五人を見渡した。皆んな本気なのと同時に、全力で演奏を楽しんでいる笑顔だった。


瞬崎は再び指揮棒を上げる。


その瞬間、ホール全体が息を止めた。



最初の音は、ほとんど“気配”だった。フルートが、息と音の境目をなぞる。はっきりとした音程を持たない、曖昧な音。


それは、夜明け前の空の色に似ていた。


黒でもなく、青でもない。


ただ、変わり始めているという事実だけが、そこにある。


クラリネットが続く。


同じ高さ、同じ強さ。けれど、完全には重ならない。


揺れている。

不安定だ。

だが、それがいい。


低音が、静かに入る。


チューバとユーフォが、ほとんど動かずに音を置く。鳴らすというより、そこに“在る”だけ。


響は、腹の奥に息を落とし、ゆっくりと送り出す。


音量は最小限。


しかし、芯だけは揺らさない。そこにトランペット、トロンボーンが加わった瞬間、音楽に大地が生まれた。


宙に浮いていた世界が、足を持つ。不安定だった音が、確かに立ち上がる。


打楽器が、かすかに時間を刻み始める。


拍ではない。

行進でもない。


まるで、遠くで鳴る太鼓のような音。まだ姿を見せない時代が、確実に近づいていることだけを告げる。


木管が、少しずつ動き出す。


断片だった音が、ゆっくりと意味を持つ。旋律になりきらない音が、列を作り始める。


不揃いで、未完成で、どこか焦っている。それは――時代そのものだった。


瞬崎の指揮は、ほとんど動かない。


煽らない。

急かさない。

ただ、そこに立ち、流れを見つめている。


まるで、まだ名もない志が、胸の奥で燻っているようだった。


やがて、ホルンが鳴る。遠くから届く、朝の合図。直接的ではない。しかし、確実に“変化”を知らせる音。


トランペットが、それに重なる。鋭さを抑え、光だけを差し込む。


音楽が、わずかに色を変える。夜の中に、初めて輪郭が生まれる。



中間部。


ここで、空気が変わった。低音が、前へ出る。若田(わかだ)のユーフォが、そっと顔を上げる。


ユーフォニアムソロ。


それは、叫びではない。主張でもない。ただ、一人の人間が立ち上がった音だった。柔らかく、しかし芯のある音。迷いを含みながらも、確実に前を向いている。


旋律は、どこか不器用だ。


華やかではない。だが、真っ直ぐだ。


響は、隣でその音を感じながら、支える側に徹する。


前に出るのは、若田だ。若田の音は、問いかける。


――このままでいいのか。

――変えられないのか。


背景で、木管が静かに揺れる。時代のうねりのように。


金管は、まだ強く出ない。その決断を、待っている。

ユーフォソロは、次第に音量を増す。


だが、決して荒れない。覚悟が、音に変わっていく。


やがて、トランペットが応える。


一つの音が、志に呼応する。ホルンがそれを包み、世界が広がっていった。


個の音が、集団へ変わる瞬間。音楽が、確かに“動いた”。


ここから先は、後戻りできない。リズムが、はっきりと姿を現す。拍が生まれ、時間が加速する。


それは行進ではない。


革命前夜の、ざわめきだ。低音が、全力で支える。


ユーフォとチューバが、音楽の背骨になる。響は、息を送り続ける。ここで逃げれば、すべてが崩れる。


木管が走る。

金管が応える。

音がぶつかり、重なり、うねりになる。


夜が、確実に薄れていく。一度、音楽が引く。

深い静けさ。

嵐の前の、決定的な間。


そして――


金管が解き放たれる。トランペットが、空を切り裂く。ホルンが、それを広げる。木管が一斉に旋律を刻み、そして低音が、すべてを支える。


夜明けだ。


音楽が、前へ進むのではない。時代そのものが、切り替わる。



クライマックス。


五十五人の音が、完全に一つになる。音程、リズム、呼吸、意志。すべてが一致する。


響は、限界まで息を送り続ける。


苦しさはない。この音楽の中では、個はもう存在しない。


最後の上昇。


音楽が、空へ解き放たれる。


そして――終結。


最後の和音が、ホールを満たし、音が消えていく。


沈黙。


それは失敗ではない。夜が明けきった、その一瞬だ。やがて、拍手が起こる。


評価ではない。理解と、驚きと、余韻。


瞬崎が、深く礼をする。


音楽は、確かに――

この場所に、到来した。



ホワイエに戻ると、ようやく時間が動き出した気がした。さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。


五十五人分の息遣いが重なり、ざわめきが生まれる。


「はぁ……終わった……」


陽翔(はると)がそう漏らすと、それを合図にしたように、あちこちで声が上がった。


「テンポ、ちょっと速くなかった?」


「いや、あれくらいでちょうどよかったと思う」


「最後、縦そろってたよな?」


演奏の振り返りとも、ただの雑談ともつかない言葉が行き交う。


楽器ケースを床に置く音、椅子を引きずる音。さっきまで“音楽”だった場所が、また“日常”に戻っていく。


若田が、ユーフォを膝に乗せたまま、少し落ち着かない様子で座っていた。


そこへ狩川(きりかわ)が近づく。


「お疲れ様、若田君」


「……なに?」


「ソロ、めっちゃ良かった」


一瞬、若田の目が丸くなる。


「え?」


「うん、ほんとに。あそこ、空気変わったもん」


久瀬(くぜ)も頷いた。


「変に力入ってなくてさ。ちゃんと前に出てた」


若田は、少しだけ視線を落とす。それから、照れ隠しのように小さく息を吐いた。


「……ありがと」


その声は小さかったが、確かに嬉しそうだった。


少し離れたところで、来島(らいとう)が周囲を見回している。


「……あれ?」


「どうした?」


奏多(かなた)、いなくない?」


言われてみると、確かに見当たらない。さっきまで近くにいたはずなのに。


すると、永井(ながい)がバッグを漁りながら答えた。


「ああ、奏多君?残りの団体、全部聴いてくるって言ってホール戻ったよ」


来島は、一瞬だけ驚いた顔をして、それから苦笑した。


「……あいつらしいな」


誰もそれ以上、追いかけようとはしなかった。それぞれが、それぞれの形で、この舞台と向き合っている。


響は、その様子を少し離れた場所から見ていた。体の奥に残る振動は、まだ消えていない。


けれど、さっきまでの緊張は確実にほどけている。


結果は、まだだ。

でも――


この演奏をした、という事実だけは、もう誰にも消せなかった。


そしてアナウンスの声が流れてくる。知らない学校名。知らない曲名。


拍手が起こり、また次の音楽が始まる。ホワイエにいるはずなのに、音は意外なほどはっきりと届いた。壁を越えて、床を伝って、空気に混じってくる。


けれど――


その音楽は、頭に入ってこない。


誰も真剣に聴いていない。それが悪いことだとは、誰も思っていなかった。今は、他人の音楽に耳を傾ける余裕がない。


「十九番」


また番号が読まれる。さっきまでなら、演奏順が進むたびに


「あと何校だ」


と数えていたはずなのに、今は違う。時間の感覚が、妙に曖昧だった。


時計を見る。針は確かに動いていた。けれど、その進み方が現実のものとは思えない。


誰かが水を飲む音。

ケースを閉じ直す音。


遠くで、トランペットの高音が一瞬だけ突き抜ける。


そして、また拍手。


演奏が終わるたびに、空気がわずかに揺れる。その揺れが、自分たちの胸にも触れる。


「……次、何番だっけ」


誰かが小さく呟く。


「もうそろそろ最後だよ」


答えは返ってくるが、会話はそれ以上続かない。結果の話は、誰もしない。


口に出した瞬間、すべてが確定してしまう気がしたからだ。


響は、ホールの方を見た。扉の向こうで、まだ誰かが吹いている。


さっきまで、そこに立っていたのが自分たちだった。


不思議な感覚だった。


終わったはずなのに、まだ何かが続いている。


音楽が流れ続ける限り、この時間も、まだ終われない気がした。



ホールの空気が、目に見えるほど張り詰めていた。何千、何百という顔が、同じ方向を向いている。


誰も喋らない。


咳ひとつ、立ち上がる音ひとつない。


しばらくして、舞台袖から人影が現れた。数名の大会関係者に続いて、各校の代表者が入場してくる。その中に、見覚えのある顔があった。


久瀬だ。


背筋を伸ばし、ゆっくりと歩いている。さっきまで一緒にホワイエにいたはずなのに、ずいぶん遠くに見えた。


久瀬は、舞台上の所定の位置に立つ。視線は前を向いたまま、こちらを見ることはない。


やがて、一人の男性がマイクの前に立った。軽く息を整える音が、スピーカー越しに響く。


「お待たせいたしました」


その一言で、ホールの緊張がさらに一段、引き締まった。


「ただいまより、第55回長野県吹奏楽コンクール東北信地区大会、高校の部の結果発表を行います」


淡々とした声だった。感情はない。


だからこそ、その言葉は重かった。


「これより、プログラム順に発表いたします」


紙をめくる音。そして――名前が、呼ばれ始めた。


「プログラム一番。橋河(はしかわ)第一高等学校、銀賞」


賞が読まれるたびに拍手が起こる。しかし各校ごと拍手の捉え方は全く違った。


「...ゴールド金賞」


ホールを包み込む大きな拍手もあれば、


「...銅賞」


少し間の空いたような拍手もあった。憐れむ心なのか?それはわからない。


「プログラム7番、長野県豊川(とよがわ)高等学校、ゴールド金賞」


拍手だけが起こった。歓声など起きなかった。豊川の人達にとってここは通過点ですらないのだろう。当たり前の”道”なのだ。


そして、


「プログラム17番、長野県東縁高等学校、


ゴールド金賞」


「やったーー!!」


思わず来島が立ち上がった。視線が来島に集まる。


「まだ、ここからだよ」


奏多がそっと声をかける。来島はしぶしぶ座った。


そうして一通り結果発表が終わった。


しばらくすると別の男性がマイクの電源を入れる。


「続きまして、来る長野県大会に進む、代表校、七校を発表致します」


再びホールの空気が張り詰めた。そして名前が呼ばれていく。


「...プログラム7番、長野県豊川高等学校」


当然だ、とでもいうような雰囲気だった。拍手は響くが歓声は起きない。



そうしてついに...



「...次に、プログラム17番、長野県東縁高等学校」



その瞬間、ホールにいた部員全員の身体が一斉に跳ねるような感覚に包まれた。


部員たちは目を合わせ、笑い、涙ぐみ、拳を突き上げる。


「やったーー!!」


声が重なり、空気を震わせる。


響は、胸の奥が熱くなるのを感じた。この瞬間のために、何度も何度も練習してきた。失敗の不安も、焦りも、すべてここに結晶した。


隣を見ると、柊木が小さく頷いている。永井は照れくさそうに拳を握り、来島は両手で顔を覆いながらも笑みをこぼしていた。


若田はずっとステージを見つめながら静かに喜びを噛み締めていた。


盛大な拍手と歓声の中で、初めて、創部以来初の地区大会突破が現実のものとなった。


東縁は次なるステージへと上がって行くんだ!!!

盛大な拍手と歓声の中、東縁高校は創部以来初の地区大会突破を果たした。

この瞬間、彼らは確かに次のステージへ踏み出したのだ。

音楽の余韻はまだ消えない――これからも続く旅路の始まりとして。

感想、評価是非お願いします!

次回もお楽しみに!


※告知※

番外編、制作決定!!!!!

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