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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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28/42

28話 B♭が揃うまで

問いは、まだ消えていない。むしろ、今日という朝を迎えて、その重さは、はっきりと形を持ちはじめた。

音を鳴らすのは、これから。

だが、逃げないと決めたのは、もうずっと前だ。

音楽室には、以前よりも密度の高い音が満ちていた。五十五人に絞られた合奏は、無駄がなく、確実に音楽として前へ進んでいる。


「クラリネット、音程もそうだが、今の所は縦をそろえろ」


「はい!」


董白の声が飛ぶ。


次の瞬間、クラのアタックがわずかに締まり、フレーズの芯が立つ。


「フルート。上、出すな。歌いすぎだぞ!」


「はい!」


息が引かれ、旋律が一段落ち着く。


「トランペット、そこ。鳴らしきるな。ホールで割れる」


「はい」


金管の響きが、鋭さを抑えて前に流れた。瞬崎がすぐに補足する。


「今の修正、全体で共有しましょう。木管は流れ、金管は方向、打楽器は土台です」


指揮棒が止まらない。合奏は、そのまま進む。


「ホルン、和音の中に潜れ。前に出るな」


「はい!」


「トロンボーン、そこは遅れるな。支える気持ちで」


「はい」


「打楽器、今のクレッシェンド、一拍早い」


「はい!」


次々と指摘が飛び、音が削られていく。揃っている。確実に、整っている。


――上手くなっている。誰もが、そう感じていた。


だが。


「ユーフォ」


董白の視線が、低音に落ちる。


「音程も、量も、正しい。でもな……守りすぎだ」


(ひびき)の胸が、わずかに詰まる。


「低音は、逃げるな。怖いなら、なおさら前に出ろ」


瞬崎が、静かに続ける。


「今の東縁(とうえん)は、音を合わせる力はあります。でも大会で必要なのは、音を預け合う勇気です」


指揮棒が、再び振り下ろされる。


合奏が始まる。


五十五人分の音は、前よりも確かに整っている。それでも、響の胸には、あの言葉が残っていた。


――残る音。


正解の音を、選んでいないか。この音に、自分は何を賭けているのか。



合奏が終わり、音楽室には深い疲労だけが残っていた。


誰かが椅子に腰を落とす音。譜面台を畳む金属音。


瞬崎が、手にした紙束を軽く叩く。


「はい。皆さん、少しだけ集中してください」


ざわつきかけた空気が、すぐに静まる。


「地区大会の日程表と演奏プログラムが届きました。今、配ります」


前から順に、紙が回されていく。


白い紙に並ぶ校名と番号。誰も口を開かない。響は、自分の手元に来た紙へ視線を落とした。


――長野県東縁高等学校。


番号の横に書かれた数字を見て、喉がわずかに動く。


全21団体中、17番


決して早くもなく、遅すぎるわけでもない。だが、妙に重たい位置だった。


「……17か」


どこかから、小さな声が漏れる。


豊川(とよがわ)は……」


別の誰かが、視線を走らせる。


「7番目だって」


その名前に、空気がほんの一瞬だけ張りつめる。強豪校。誰もが知っている番号。


部員たちの視線が紙から離れない。


その時。


「ま、正直言うとだな」


董白が、腕を組んだまま口を開く。


「順番なんて、ぶっちゃけどうでもいい」


何人かが、思わず顔を上げる。


「早かろうが遅かろうが、前に強豪がいようがいまいが――君たちが全力をぶつければ、審査員はそれに必ず答えてくれる」


董白の声は、大きくはなかった。だが、妙に真っ直ぐだった。


「演奏順は、コントロールできない。でも、鳴らす音は、君たちが決められる」


瞬崎が、静かに頷く。


「ですから、考えるべきは一つだけです」


視線が、五十五人に向けられる。


「当日、どんな音を鳴らすか」


紙を握る手に、少しだけ力が入る。


17番目という数字は、まだそこにあった。


けれど――その数字よりも、胸の奥で別の問いが、静かに重さを増していた。


――その音に、自分は何を賭けるのか。



夕方の空は、すっかり色を落としていた。校門を出た六人は、言葉少なに歩き、バス停のベンチに並んで腰を下ろす。


昼間の合奏の疲労が、今になってじわじわと体に残っていた。


「……いよいよだな」


ぽつりと、陽翔(はると)が言う。


「地区大会...」


永井(ながい)が、息を吐くように笑った。


「もう明日みたいな気分なんだよね」


「分かる」


来島(らいとう)が頷く。


「楽譜見てても、全部“本番だったら”で考えちゃう」


「来島には関係ないでしょ?」


陽翔は冷静にツッコむ。


「関係なくないよ。大会ごとオーディションあるんだから。次は絶対にメンバーに入ってやる!」


響は、何も言わずに空を見上げていた。夕焼けが消えかけた空に、薄く雲が流れている。さっきまで鳴っていた音が、まだ耳の奥に残っている。


「演奏順、17番だっけ」


奏多(かなた)が、思い出したように言う。


「豊川は7番」


柊木(ひいらぎ)が即座に返す。


「でもさ」


柊木が肩をすくめる。


「董白先生の言う通りじゃない?順番なんて」


誰も、否定しなかった。


その時。


――ドン。


遠くで、低い音がした。一瞬、全員が顔を上げる。続いて、夜空の端が、ふわりと光った。


「……花火?」


来島が言う。


少し遅れて、もう一発。小さく、けれど確かな光が、夜の奥で弾けた。


「早くない?」


陽翔が首をかしげる。


奏多が、あ、と声を上げた。


「たぶん、練習だよ」


「練習?」


「来月あるでしょ。Summer Night in Nagano。地域の学校主体でやる夏祭りイベント。商店街とか公園とか、全部使うやつ」


「毎年、吹部も出るんだっけ」


永井がそう問う。


「うん。うちらも演奏すると思うよ」


奏多は、空を見上げたまま答えた。


「夜の屋外ステージでさ。照明も派手で、人も多くて……結構、楽しいんだよ」


もう一度、花火が上がった。さっきよりも少しだけ、大きく光る。


コンクール。

審査。

順位。


その全部から、ほんの一瞬だけ離れた場所だった。


「……あんまり実感湧かないな。もうすぐコンクールなのに」


陽翔が、呟いた。


誰も返事をしなかった。けれど、その言葉は、静かに全員の中に落ちていった。


遠くの花火が消え、夜はまた、いつもの暗さに戻る。


しばらく、誰も口を開かなかった。バス停の明かりが、六人の影を淡く地面に落としている。


その沈黙を破ったのは、柊木だった。


「……だからこそ」


小さく呟きながら、一歩前に出る。そして、ぎゅっと握った拳を、夜空へ突き上げた。


「僕たちは勝つ」


視線の先には、雲一つない空。天高く昇った月が、静かに光っている。


「絶対に――全国で吹くんだ」


声は大きくなかった。けれど、迷いはなかった。


陽翔が、思わず笑う。


「……言い切ったな」


「言い切らなきゃ、意味ないでしょ?」


柊木は拳を下ろし、照れ隠しのように視線を逸らす。誰も茶化さなかった。


来島も、永井も、奏多も、何も言わない。ただ、その言葉が、確かに胸に残っていた。


響は空を見上げながら、静かに息を吸う。


――全国で、吹く。


それはまだ遠い場所のはずなのに、今は不思議と、手の届く距離にあるような気がしていた。


バスのヘッドライトが、道の先に滲む。


夜は続く。


そして、勝負の夏は――もう始まっている。



暗い天井を、響はじっと見つめていた。


――ピッ。


枕元の時計が、鳴る寸前で止まる。響は、音を立てないように腕を伸ばし、アラームを切った。秒針だけが、静かに動き続けている。


まだ外は暗い。カーテンの隙間から、薄い朝の色が滲んでいた。


地区大会当日。


頭の中は、不思議なほど静かだった。緊張も、不安も、騒がしさもない。ただ、今日吹く音だけが、そこにある。


響は、ゆっくりと息を吸う。


(――逃げるな)

(――怖いなら、なおさら前に出ろ)


董白の言葉が、胸の奥でよみがえる。


ベッドから起き上がり、足を床につける。冷たい感触が、現実を連れてきた。


ユーフォのケースが、部屋の隅に置かれている。


黒いケースは、何も語らない。けれど、確かに、待っていた。


響は立ち上がり、ケースに近づく。


「……行こうか」


誰にともなく、そう呟く。


朝食を済ませ、響は静かに身支度を整えた。


鏡の前で、ブレザーに腕を通す。大会用のそれは、いつもの制服よりも、少しだけ重く感じた。ネクタイを締め直し、袖を整える。


動きに無駄はない。けれど、普段より慎重だった。


すべての準備を終え、響はソファに腰を下ろす。リモコンを押すと、テレビの電源が入った。


画面いっぱいに広がるステージ。客席のざわめき、照明、楽器を抱えた生徒たち。


『頑張れ!ジャパンズブラス♬~長野県吹奏楽部の挑戦!~』


明るいナレーターの声が、部屋に響く。


『いよいよ本日、東北信地区大会当日です』


その言葉に、胸の奥が、きゅっと締まる。


画面が切り替わり、見覚えのある校名が映し出された。


――豊川高校。


整然と並ぶ部員たち。落ち着いた表情。強豪校として何度も名前を聞いた、その姿が、今は“同じ舞台”に立っている。


『現在は、豊川高校のリハーサルの様子をライブでお伝えしています』


「……もう、始まってるのね」


キッチンから母の声が届く。


テレビの向こうで鳴る音は、まだ遠い。けれど、確実に、今日の音だった。


響は立ち上がり、テレビを消す。画面が暗くなり、部屋に再び静けさが戻る。


けれど――大会は、もう始まっている。それに、


今日、鳴らす音は――

もう、決まっている。



校門をくぐると、すでに部活用トラックとバスが到着していた。打楽器や大型ケースが荷台に積まれ、運搬作業が静かに始まっている。


「ユーフォは……あ、響君いるね」


部長の久瀬(くぜ)が、手にした紙を片手にパートごとの人員確認をしていた。揃っているパートには小さく頷き、まだ到着していない部員の名前には眉をひそめる。


「クラリネット、全員揃ってる?」


「はい、そろっています」


「フルートは?」


「まだです。一年が一人来てません」


パートごとの確認が続く。到着済みの部員はケースを下ろす手を止め、まだ来ていない部員の到着を待ちながら、緊張を抱えたまま周囲を見回していた。


一方、オーディションで落選した組の部員たちは、すでにホール内で待機している。控室のドア越しに漏れる話し声は少なく、だが誰もが気持ちを引き締めているのが伝わってくる。


「打楽器チーム、こっち運んで」


久瀬の指示に、数名の部員が素早く応じる。ケースが地面に静かに置かれる音が、夏の朝の空気に響いた。


響も、自分のユーフォを抱えながら深呼吸する。今日鳴らす音は、すでに心の中でイメージされていた。


「よし、全員揃ったら、バスで向かいます」


久瀬の声が、静かな決意と指揮力を帯びて響く。部員たちはそれぞれ、自分の立場と役割を確認しながら、着実に準備を進めていった。



文化ホール《言の葉(ことのは)》の裏手。


シャッターが開き、トラックの荷台が姿を現す。係員の指示に従い、打楽器が一つずつ慎重に降ろされていった。


「ティンパニ、先行きます」


「マリンバ、角気をつけて」


短い声が飛び、キャスターが床を転がる低い音が響く。


金属、木、皮――それぞれ違う質感の音が、ホールの裏側に混じっていく。


響はユーフォのケースを肩にかけたまま、その様子を見守っていた。


自分の楽器は、もうここにある。あとは、人が入るだけだ。


「じゃ、打楽器は搬入終わり次第ホワイエ集合で」


久瀬の声に、全員が頷く。楽器の移動が一段落すると、部員たちはホール正面へ回った。


ガラス張りの扉を抜けた先。そこが、ホワイエだった。


高い天井。


外光が差し込み、床に柔らかな影を落としている。すでにいくつかの学校が、静かに待機していた。


ケースを足元に置き、壁際や椅子に沿って座る。


話し声は自然と小さくなる。


「……思ったより、静かだな」


陽翔が、息を潜めるように言う。


「本番前は、だいたいこんな感じだよ」


奏多が小さく答える。


誰も楽器を吹かない。

指を動かす者も、目を閉じる者もいる。


それぞれが、それぞれの準備をしていた。


響は、ホワイエの中央に立ち、天井を見上げる。この空間を抜けた先に、ステージがある。


客席があり、審査員がいて――音が放たれる。


ユーフォのケースに、そっと手を置く。


(ここまで来た)


不思議と足はすくんでいなかった。ガラス越しに、別の学校の部員たちが視界に入る。


同じ表情。

同じ緊張。


「……17番目、だっけ」


誰かの小さな声。


久瀬が、軽く頷いた。


「順番は気にしないで。自分たちの音だけ見る」


ホワイエに、静かな覚悟が満ちていく。


やがて、係員の声が響いた。


「長野県東縁高等学校さん、準備をお願いします」


その一言で、空気が変わる。


立ち上がる音。

ケースを持ち上げる音。


足並みが、自然と揃っていった。



チューニングルームには、低く、細かな音が満ちていた。


B♭の音。


それぞれの楽器が、それぞれの高さで鳴らす基準音。

音は同じはずなのに、どこか揺れている。


「……ちょっと高い?」


フルートの三年が、焦ったように頭部管を回す。


「クラ、下がりすぎじゃない?」


「え、マジ?」


クラリネットの列で、息を吸い直す音が重なる。


金管の方では、チューナーの針を何度も確認する姿があった。


「トランペット、今日合わなくない?」


「気温のせいかな……」


ホルンがベルを膝に当て、息の角度を探している。トロンボーンはスライドを微調整しながら、何度も同じ音を吹き直していた。


打楽器は、すでに音を出さず、黙って待っている。鍵盤打楽器のマレットが、静かに手の中で転がされた。


響も、ユーフォを構え、そっと息を入れる。


――B♭。


チューナーの針が少し揺れる。一度、楽器を下ろす。董白の言葉が、また頭をよぎる。


――逃げるな。


もう一度、息を吸う。今度は、針が真ん中に近づいた。


「……よし」


小さく、そう呟いた時だった。


「――はい、みんな」


久瀬が、チューニングルームの前に立つ。ざわついていた音が、少しずつ消えていく。


最後に残ったB♭の音が止まり、空間に静寂が落ちた。


五十五人分の視線が、久瀬に集まる。久瀬は、少しだけ息を吸ってから、口を開いた。


「みんなに話しておきたいことがある」


自然と部員たちの背筋が伸びた。


「ここまで、本当に長かったと思う」


誰も、何も言わない。


「瞬崎先生が来てから、この部活は大きく変わった。去年までみたいな適当な雰囲気じゃない」


一人ひとりを、順に見渡す。


「だからこそ、大変な事もあったと思う。人数も多かったし、オーディションもあった。悔しい思いをした人も、納得できなかった人もいる」


チューニングルームの奥で、誰かが唇を噛む。


「それでも」


久瀬の声が、少しだけ強くなる。


「今日、ここにいる全員、誰一人として逃げなかった」


その言葉に、空気が変わる。


「うまくいかない日もあった。音が揃わない日もあった。でも、投げなかった」


一拍、間を置く。


「私は――」


久瀬は、拳を軽く握った。


「本気で、全国に行きたい」


誰かが、息を飲む音。


「“行けたらいいな”じゃない。“目標”でもない」


久瀬の視線が、まっすぐ前を向く。


「行く」


短く、断言する。


「今日の一本で、全部決めるつもりで行こう」


誰も、目を逸らさない。響は、無意識にユーフォのバルブに指をかけていた。


「音程が完璧じゃなくてもいい。一音もミスしない演奏じゃなくていい」


その言葉に、少しだけ緊張が緩む。


「でも――」


久瀬は、はっきりと言った。


「逃げる音だけは、出さないで」


その瞬間、響の背筋が、すっと伸びた。


「自分を、仲間を信じて。それに静かに応えよう」


久瀬は、深く息を吸い、最後に言った。


「そして行こう。東縁高校吹奏楽部として」


静寂。


次の瞬間。


「……はい!」


響の声を皮切りに、返事が重なる。


「はい!」


「はい!」


全員の声が、一つになる。


その様子を見て瞬崎が口を開いた。


「では皆さん、行きましょう。大会の時間です!」

長かった準備の時間は終わり、音を鳴らす場所は整いました。

けれど、本当に問われるのは――**「どんな音を鳴らすのか」**ではなく、「その音に、何を賭けるのか」。

次回、29話はいよいよ本番。

音は、もう逃げません。

どうか、最後まで見届けてください。

感想、評価是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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