27話 問いの重さ
音が揃うほど、違和感は小さく見える。全員で同じフレーズを吹き、同じテンポで進めば、そこに迷いはないように思えてしまう。
けれど、本当に揃っているのは、音だけなのか。歪んだ調和の先で、それぞれの胸に残ったものが、静かに問いかけてくる。
――自分は、何を吹いているのか。
校舎裏に、ユーフォの音が響いていた。
コンクリートの壁に反射し、わずかに遅れて戻ってくる音。外で吹くには十分すぎるほど、若田の音は通っていた。
息も、指も、迷ってはいない。ソロとして求められている技術は、すべて満たしている。
――それでも。
若田は、同じフレーズをもう一度吹いた。入りは正確。音程も安定している。だが、音の終わりが、ほんのわずかに前のめりになる。
「……っ」
舌打ちまではいかない、短い息。
若田は楽器を下ろし、譜面を見つめた。自由曲のソロ。何度も吹いたはずの場所。合奏でも、個人でも、指摘されたことはない。
それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
(落とせない)
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
もうすぐ大会だ。
地区大会。
失敗は許されない。
若田は再び構え、息を吸った。今度は、少しだけ音量を抑える。流れを意識して――。
「おーい」
不意に、背後から声がした。
若田の音が、そこで切れる。振り返ると、校舎の影から三人が出てきていた。久瀬、狩川、そして東堂。三人とも楽器ケースを肩にかけ、練習帰りらしい格好だった。
久瀬が、軽く手を上げる。
「やっぱりここだったか」
「ずっと練習してたの?」
「うん。一応ソロだし」
若田は楽器を下ろしたまま答える。狩川が、壁にもたれかかりながら笑った。
「さっきから音、聞こえてた。やっぱユーフォはみんなうまいな」
「みんなって、響君も?」
短く返すと、久瀬が首をかしげる。
「もう、なんでみんなすぐ響君のことになるかなぁ。もうすぐ大会なのに」
その言葉に、若田の指が、無意識にベルの縁をなぞった。
「分かってる」
「ほんと?」
久瀬は、冗談めいた調子を崩さない。けれど、視線だけは真剣だった。
「最近、ずっと一人で吹いてるでしょ。合奏終わっても、すぐ消えるし」
狩川が、肩をすくめる。
「まぁ、ソロだしね。練習するのは当然か」
若田は、答えなかった。代わりに、もう一度楽器を構え、ソロの出だしを吹く。今度は、誰かに聴かれている音。ほんの一瞬だけ、息が浅くなる。
音は、崩れない。
だが、伸びきる前に、わずかに硬くなる。久瀬は、何も言わなかった。東堂も、黙ったままその音を聴いている。
狩川が、ぽつりと言った。
「……プレッシャー、すごそうだね」
若田は、吹き終わってから楽器を下ろす。
「当たり前だよ。選ばれたんだから」
その言葉に、久瀬は一瞬だけ間を置く。
「そうだね。選ばれた」
肯定だった。否定ではない。
「だからさ」
久瀬は続ける。
「一人で抱え込まないでよ。大会は、ソロだけじゃないから」
若田は視線を逸らし、校舎の壁を見る。
(分かってる)
心の中では、そう答えていた。
分かっている。
でも――。
「まぁ、無理はしないでよ。本番前に潰れたら、意味ないから」
狩川が、少しだけトーンを落として言った。
若田は、返事をしなかった。校舎裏に、短い沈黙が落ちる。遠くから、別の楽器の音が微かに聞こえた。
「じゃ、先行くね」
久瀬がそう言って歩き出す。狩川も、その後ろについていく。
東堂が最後に一度だけ振り返った。
「若田」
「何?」
東堂は少し黙り込み、一言。
「お前はお前のままでいい...ソロ、がんばれよ」
それだけ言って、再び背を向けた。そうして三人は校舎の影へ消えた。
再び、若田一人。
若田は、ゆっくりと息を吸い、楽器を構えた。
――落とせない。
もう一度、ソロの出だし。
音は、確かに正しい。けれど、その響きには、逃げ場のない緊張が、はっきりと混じっていた。
音楽室に集まっているのは、五十五人だけだった。
以前のような満員のざわめきはない。椅子と譜面台の間には、わずかな余白があり、その分だけ空気が張りつめている。
――ここにいるのは、選ばれた者だけ。その事実が、誰の胸にも静かにのしかかっていた。
チューニングの音が、短く、慎重に交わされる。無駄な音はない。私語もない。
響はユーフォを構えながら、前方を見つめていた。指揮台の横に、いつもは置かれていない譜面台が一つある。
その時、ガラリと扉が開く音。
入ってきたのは、一人の男だった。軽装だが、立ち姿に隙がない。視線が音楽室を一巡しただけで、空気が一段階沈む。
「……音早先生!」
誰かが、そう口にした。
瞬崎が前に出る。
「今日、合奏を見ていただきます。ナーガフェスに続いて、夏のコンクールも指導に入ってもらえることになりました」
「やぁ!みんなお久しぶり!音早董白だ!みんな元気にしてたか?っておいおい返事なしかよ〜」
その声に音楽室の空気は少し和らいだ。
「まぁそれは置いといて。みんなもうすぐ地区大会だ!気合い入れて、やれば出来る!つーわけで今日からまたビシバシ指導していくぞ。ついてこい!」
「はい!」
瞬崎が続ける。
「では、まず一旦通しましょうか」
全員が譜面を上げる。
合図。
音が、一斉に立ち上がった。以前より、明らかに揃っている。音程も、バランスも、精度が高い。
――五十五人に絞られた音。
だが。
音早は腕を組んだまま、止めない。
表情も変えない。数十小節が流れ、瞬崎が視線を送る。そこで、音早が静かに手を上げた。
音が、止まる。
一瞬の沈黙。
音早は、低音から順に視線を走らせ、最後に全体を見渡した。
「……悪くはない」
その一言に、わずかに息が抜ける。だが、続きが来ることを、全員が知っていた。
「ただし」
空気が、再び張りつめる。
「“通った音”だ。“残る音”じゃない」
響の胸に、その言葉が刺さる。
(残る音……)
それは、オーディションで求められていたもの。そして今もなお、答えが出ていないものだった。
「もう一回」
音早は、短く言う。
「五十五人で吹く意味を、音に出せ」
瞬崎が、ゆっくりと頷く。指揮棒が上がる。
合奏は、続いていた。
止められては、やり直し。また止められては、同じ小節に戻る。
同じところ。
何度も、何度も。
指揮棒が下りるたび、音楽室の空気が少しずつ重くなっていく。
「……そこ」
董白が、短く言った。瞬崎が指揮を止める。
五十五人分の音が、一斉に消えた。
董白は譜面から顔を上げ、木管の列を見た。しばらく視線を巡らせてから、ぽつりと口を開く。
「今、吹いてるのは……その子は?」
瞬崎が一歩前に出る。
「あぁオーボエ、イングリッシュホルン担当、二年の――天奏若葉さんです」
その名前に、わずかに空気が揺れた。天奏は、楽器を構えたまま背筋を伸ばす。視線は前。だが、指先にほんの少しだけ力が入っていた。
董白は、譜面を指で叩く。
「課題曲、ジャパンのJ、アウフタクトから」
瞬崎は口を開く。
「一人で?」
「そう。一人でだ」
即答だった。
音楽室が、完全に静まる。
天奏は一度だけ深く息を吸い、リードを口に含んだ。
合図はない。
次の瞬間、オーボエの音が立ち上がる。澄んでいる。音程は完璧。息の流れも安定している。
フレーズのつなぎも、教科書通りに美しい。
――上手い。
誰もが、そう思った。
だが。
董白の表情は、動かなかった。数小節が流れたところで、彼は静かに手を上げる。
音が止まる。
「……ふぅん」
低い声。
「技術はある。音も、指も、息も、全部そろってる」
天奏は、何も言わない。
ただ、楽器を下ろさない。
董白は、首をかしげるようにして言った。
「でもな」
一拍。
「つまらん」
音楽室が、凍りつく。
「機械音声みたいだ。正しい音が、正しい順番で鳴ってるだけ」
瞬崎が、言葉を挟もうとするより先に、董白は続けた。
「間違いはない。でも、そこに“人”がいない」
天奏の喉が、わずかに鳴る。
「この音じゃ、合奏を引っ張れない。誰の心にも、引っかからない」
沈黙。
誰も、天奏を見ない。見られない。董白は、天奏を見つめたまま、少しだけ首を傾けた。
「なあ」
低い声だった。叱責でも、問い詰める調子でもない。
「ここ――今吹いたところ。君は、どんなふうに吹きたいんだ?」
音楽室が、さらに静まる。天奏は、一瞬だけ瞬きをした。予想していなかった問いだった。
「……?」
董白は、譜面を指で軽く叩く。
「強弱とか、テンポとかの話じゃない。このフレーズで、何を感じてる?何を思い浮かべながら、息を入れてる?」
誰も口を挟まない。瞬崎も、指揮棒を下ろしたまま黙っている。天奏の喉が、かすかに動いた。
「…………」
言葉が、出てこない。頭の中には、音程も、指使いも、ブレスの位置もある。
でも――「感じていること」を、言葉にしたことはなかった。
「……正確に」
ようやく、絞り出すように天奏が言う。
「楽譜通りに、間違えずに……」
董白は、ため息をついた。
「それは“どう吹いてるか”だ」
きっぱりと言い切る。
「僕が聞いてるのは、“なぜ吹いてるか”だ」
天奏の指先に、力が入る。
沈黙。
音楽室の空気が、重く沈む。
「……何も」
天奏の声は、小さかった。
「何も、考えてません」
誰かが、息を呑む音がした。董白は、怒らなかった。ただ、静かに頷いた。
「なるほど」
一拍置いて、続ける。
「だから“完成してる”んだ」
天奏が、わずかに顔を上げる。
「技術は確かにある。僕が見てきた中でもかなり上の方だ。お前の音は、崩れない。でもな――」
董白は、一歩だけ前に出た。
「何も賭けてない音は、誰の心も動かさない」
空気が、張りつめる。
「上手い音はいくらでもある。正しい音も、いくらでもある。でも“残る音”は、吹いてる人間の中身が透けて聞こえる」
董白は、視線を巡らせ、五十五人全員を見渡す。
「怖さでもいい。迷いでもいい。欲でも、悔しさでも、焦りでもいい」
再び、天奏に視線を戻す。
「お前は、今、何を賭けてこの音を吹いてる?」
天奏は、答えられなかった。
オーボエを持つ手が、わずかに震える。音楽室のどこかで、誰かの心臓の音まで聞こえそうだった。
董白は、それ以上追い詰めなかった。しばらく反応が無いことを確認すると、
「……まぁ、すぐに答えを出す必要はないさ。ゆっくり、自分の想いのままやっていけばいい」
いつものテンションに戻った。
「さぁ、時間は有限だ。1秒1秒大切に、今から10回通しやるぞ!」
「えぇ?!」
陽翔が愚痴にも似た声を漏らした。
「おいおい、そんなんで全国金なんて夢のまた夢だぞ?地区大会だって舐めてると痛い目見るからな!」
董白がそう言うと音楽室に笑いが起きた。陽翔は口をポカンと開けたまま静止している。
瞬崎は笑顔で口を開いた。
「では、2分休憩後、10回通しやりますよ」
「ってホントにやるんかい!!!!!」
部員全員の声がハモった。瞬崎は笑顔を絶やさず続ける。
「もちろん。何せ私達の目標は、全国大会金賞なんですから」
「……はい。ここまで」
瞬崎の声が、音楽室に落ちた。その一言で、五十五人分の緊張が一気にほどける。
椅子に座り込む者。
譜面台に体を預ける者。
その場にしゃがみ込み、天井を見上げる者。
――十回通し。
腕も、唇も、肺も、限界だった。誰かが息を吐き出す音が、やけに大きく聞こえる。
「……」
「…………」
「………………」
いつもなら、条件反射のように出るはずの言葉が、今日は出てこない。
『ありがとうございました』
そう言おうとして、喉が動かない。
瞬崎は、その様子を見渡し、無理に求めなかった。
「……今日は、ここまででいいですよ」
その言葉に、さらに何人かが力なく崩れ落ちた。響は、ユーフォを膝に乗せたまま、荒い呼吸を整えていた。汗が、額から首筋へと流れる。
ふと、隣に気配がないことに気づく。
視線を向けると――。若田が、立ち上がっていた。
誰とも目を合わせず、何も言わず。ユーフォを静かに抱え、音楽室の出口へ向かう。
足取りは重い。
それでも、迷いはなかった。
扉が、静かに開く。
その背中を、響は追えなかった。
「……若田先輩、10回も通したのに、まだ練習するのかよ。もう、限界なんだけど」
少し離れたところから、陽翔の声が飛ぶ。冗談めいた口調。
けれど、声に力はなかった。若田は、振り返らない。返事もない。
扉が閉まる音だけが、音楽室に残った。
しばらく、誰も動かなかった。
響は、ユーフォのベルを見つめながら、胸の奥に残った言葉を思い出していた。
――“残る音”。
それは、疲労の中でも、はっきりとそこにあった。
音楽室の片付けが、静かに進んでいた。
譜面を閉じる音。
ケースのファスナーを引く音。
疲労のせいか、どれも少しだけ遅い。天奏は、オーボエを丁寧にケースに収めていた。指先はもう震えていない。けれど、胸の奥に残った言葉だけが、消えずにあった。
(――何を賭けて、この音を吹いてる?)
その問いが、何度も頭の中で反響する。
「天奏」
不意に、低い声。顔を上げると、董白が立っていた。いつもの軽い調子ではない。けれど、厳しさとも違う。
「ちょっと、いいか」
天奏は小さく頷き、ケースを持ち上げる。
音楽室の外。
廊下には、もうほとんど人影がなかった。董白は、壁に背を預け、腕を組む。
「さっきの話な」
天奏は、何も言わない。言葉を待つ。
「悪い音じゃない。むしろ、いい音だ」
一拍。
「でも、今のお前には――」
董白は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「合奏の中で“変わるきっかけ”が足りない」
天奏の指が、ケースの取っ手を強く握る。董白は、軽く肩をすくめた。
「だから」
視線を合わせる。
「今度、君にピッタリの講師を紹介してあげよう」
天奏は、思わず瞬きをした。
「……講師、ですか?」
「そう。ちょっと変わり者だけどな」
董白は、それ以上説明しなかった。
「今のままでも、上手いままだ。でもな――」
天奏の横をすり抜け、歩き出しながら、ぽつりと言う。
「その人に会えば、“なぜ吹くか”から逃げられなくなるぞ」
音は、吹き終われば消えていく。だが、言葉や問いは、いつまでも残る。うまく吹けているはずなのに、満たされない者。限界まで通しても、立ち止まれない者。何も言わず、その背中を見送ることしかできない者。
この合奏で残ったのは、完成ではなく、疑問だった。
次に響く音は、その問いに、どう答えるのだろうか。
感想、評価是非お願いします。
次回もお楽しみに!




