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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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26話 歪んだ調和

音が揃い始めたとき、すべてが順調に進んでいるように見える。けれど、その整った響きの裏側で、誰かの心は静かに揺れていた。

選ばれる音。

選ばれなかった音。

そして――まだ、誰にも知られていない音。その違いは、ほんのわずかなはずなのに、一度生まれた揺らぎは、確かに影を落とし始めていた。

オーディションから数日が経った。


放課後の音楽室には、譜面台が並び、椅子が整えられ、ケースの開閉音が静かに重なっていた。


集まっているのは、オーディションを通過した五十五人。欠けた席も、空いた譜面台もない。人数は揃っている。


だが――音楽室の空気は、以前とは少しだけ違っていた。


「ではまず課題曲から」


瞬崎(しゅんざき)の声が、いつも通りに響く。


誰もが反射的に姿勢を正し、譜面を上げる。音が短く交わり、すぐに収束していく。


「低音、もう一段階息を前に。支えるだけじゃなくて、進ませましょう」


「はい!」


瞬崎の指示は簡潔だった。特定の名前を呼ぶことはない。それでも、言葉は正確に届く。


ユーフォの列で、(ひびき)は自然に息を整えた。合奏の中で、自分の音がどこにあるのかは、意識しなくても分かる。


音が重なり、前へ進む。


「フルート、三小節目。走らないように」


軽く、だが冗談ではない口調。数人が小さくうなずき、次の小節で音が落ち着く。


合奏は止まらない。


「トランペット、出だしはいいですが、その音量は最後まで取っておきましょう」


「はい」


「ホルン、内声を忘れないように。聞こえなくても、そこが軸です」


「はい!」


指示は的確で、無駄がない。止める必要のある場所だけを止め、必要な言葉だけを落とす。


――整っている。


技術も、反応も、集中も。オーディションを越えた五十五人の音は、確かにまとまり始めていた。


だが。


響は、合奏の中でふと気づく。


自由曲に切り替わった瞬間、音楽室の空気が、わずかに張りつめることに。


「……では次に自由曲」


瞬崎の一言で、譜面がめくられる。


黎明(れいめい)〜到来の夜明け〜』


まだ、正解の形が見えない曲。誰もが音を出しながら、探している段階だ。


「出だしは、焦らなくていいですよ。夜は急に明けるものではありません」


その言葉に、数人が息を深く吸い直す。響は、無意識に最初の音を支えた。


特別なことはしていない。ただ、流れの中に音を置いただけだ。それでも、合奏の底で、その一音が確かに“芯”になる。


瞬崎の視線が、一瞬だけ低音セクションに向いた。しかし、すぐに何事もなかったように前へ戻る。


合奏は続く。


――何も起きていない。けれど、何かが、確実に動き始めていた。



合奏練習が一区切りついたところで、瞬崎が指揮台から声をかけた。


「今日はここまでにします。残りは個人練習にしてください」


椅子が引かれ、譜面が閉じられる音が重なる。部員たちはそれぞれの練習場所へと散っていった。響もまた、楽器を手にして音楽室を出る。向かう先は、いつものバスパート練習教室だった。


廊下に出た、そのとき。不意に、手首を掴まれる。


「……響」


振り返ると、柊木(ひいらぎ)が立っていた。掴む力は強くないが、離す気もない。


「今日、二人で帰ろ」


短い言葉だった。冗談めいた調子はなく、視線も逸らさない。いつもよりずっと、真剣な目をしていた。


「え……?」


響が問い返すより早く、柊木は言葉を続けなかった。理由も、説明もない。ただ、そのまま響を見ている。


少しの沈黙。


響は、自分でもはっきりと意識しないまま、頷いていた。


「……うん」


柊木の手が、ようやく離れる。柊木はそのまま去っていった。



いつものバスパート練習教室は、音楽室よりも少しだけ空気が緩んでいた。低音楽器のケースが壁際に並び、椅子は半円状に置かれている。


「あ〜あ……オーディション、落ちちゃったなぁ」


椅子に腰を下ろしながら、来島(らいとう)が天井を見上げて呟いた。


「去年は普通に吹けてたんだけどねぇ〜。やっぱ瞬崎先生、容赦ないな」


桜咲(おうさき)も楽器を膝に乗せたまま、短く息を吐く。その二人に、香久山(かぐやま)が楽譜をまとめながら言った。


「大会ごとにオーディションがあるんだ。今回は今回。次もある。だから二人とも、練習は怠らないようにしないと」


「わかってますよ……」


二人は口を揃える。軽口のようで、言葉は現実的だった。


その横で、若田(わかだ)は会話に加わらず、譜面台に向かったままユーフォを構えている。自由曲のソロ部分だけを、何度も繰り返していた。


同じフレーズ。

同じ入り。

だが、毎回わずかに違う。


部屋の端では、永井(ながい)今伊(いまい)がコンバスを抱えながら会話に混ざる。


「でも、低音は人数多いからね」


「ちょっとした差でも、すぐ結果に出ますしね」


「コンバスも同じだよ。弾き方一つで音が変わるし」


そんな声を背に、響は若田の方へ歩いた。


若田は気づかない。もう一度、ソロを吹こうとして――。


「先輩」


呼ばれて、ようやく顔を上げる。


「今の入り、少しだけ遅れてます。舌じゃなくて、息で入った方が安定すると思います」


響はそれだけ言って、若田の譜面を指さした。


「あと、次の音までの流れが切れてます」


若田は一度頷き、何も言わずに吹き直す。今度は、音が自然につながった。小さく、若田が声を漏らす。


「やっぱ凄いよ。響君は.....」


響は何も言わなかった。


バスパート練習教室には、再び低音が重なり始める。それぞれの立場も、結果も違う。けれど、音だけは同じ場所へ向かっていた。


「どうして、君じゃなくて、僕が.....................」


若田の喉から、声が漏れた。


練習が終わり、楽器を片付ける音が廊下に流れ始める。夕方の校舎は、どこか気の抜けた空気に包まれていた。


「なあ響〜、今日も一緒に帰ろ」


鞄を肩にかけながら、来島がいつもの調子で声をかける。桜咲や永井も、それに続いて足を止めた。


そのとき。


横から、すっと一人分の影が前に出る。


「ごめん」


柊木だった。


来島たちの視線が集まる中、柊木は落ち着いた声で続ける。


「今日は、響君と二人で帰る予定なんだ」


一瞬の間。


「……ふーん」


来島は特に深掘りもせず、軽く肩をすくめた。


「そうなんだ。じゃ、また明日な」


「おつかれ〜」


あっさりとそう言って、来島たちはそのまま昇降口の方へ向かっていく。振り返る者はいない。



柊木と響は、ファミレスへ立ち寄った。注文を済ませ、ドリンクバーのグラスを手に席へ戻る。


二人並んで腰を下ろしたところで、響が口を開いた。


「……なんで今日、二人で帰ろって言ったの?」


言い切る前に、柊木が被せる。


「……脅されてるの?」


「は?」


響は思わず目を瞬かせた。


「何言って――」


柊木は笑っていなかった。テーブル越しに、まっすぐ響を見ている。


「最近の響、なんかおかしい音が揺れてる。安定してるのに、迷ってる揺れ方だ」


響は言葉を失う。


「それに、オーディションでソロに選ばれないのもおかしい。実力だけ見たら、どう考えても――」


「ちょ、ちょっと待って!」


響が慌てて遮る。


「落ち着いて。なんでそうなるの?」


「だって――」


柊木は思わず声を強めた。


「響が、ソロにふさわしいんだ!」


一瞬、店内が静まる。いくつかの視線がこちらに向いた。


「……っ」


響は慌てて身を乗り出し、柊木の腕を軽く押さえた。


「声、大きい! 一旦落ち着いて!」


数秒の沈黙。


柊木が息を整え、視線を落とす。


その間に、響が静かに言った。


「心配しないで。誰にも脅されてない。僕は、僕の出せる音を出した。その上で、瞬崎先生は若田先輩を選んだ。それだけだよ」


柊木は顔を上げる。


「……本当?」


「本当」


迷いのない声だった。


しばらくして、柊木は小さく頷く。


「……なら、いい」


そして、少しだけ間を置いて続けた。


「でもさ、次のオーディションは、絶対に取って。それだけは、譲らない」


拳を軽く握りしめる。


響は一瞬だけ考えてから、苦笑した。


「……もちろん」


その答えに、柊木はようやく納得したように息を吐いた。



職員室には、放課後特有のざわめきが残っていた。キーボードの音、紙をめくる音、誰かの小さな咳。


瞬崎は自分の席に戻り、椅子に腰を下ろすと、深く息を吐いた。


「……やっぱり、何人かは納得していない顔でしたね」


向かいの席で、瀬戸川(せとがわ)が資料を揃えながら答える。


「.......」


瞬崎は下を向く。


「響のことですか」


瀬戸川は否定も肯定もしないまま、短く言った。


「音は、確かに一番安定している。技術も申し分ない。ただ――」


瞬崎は言葉を探すように、一拍置いた。


「何か、一瞬の迷いを感じたんです」


瀬戸川はゆっくり頷く。瀬戸川は口を開く。


「若田は、今のバンドに必要な音を出せる。多少荒くても、流れを引っ張れる」


「はい。今は“結果を出す音”が必要な時期ですから」


瞬崎は机の上の大会要項に視線を落とす。


「だからこそ、大会ごとにオーディションをすることにしたんです」


瀬戸川は静かに言った。


「逃げ道は作らない、ということですか」


「ええ。でも同時に、可能性も切り捨てません。響君も含めて、です」


瀬戸川は一瞬だけ、視線を上げた。


「……あいつは、伸びる」


「ですね」


瞬崎は小さく笑った。瀬戸川は続ける。


「早すぎる芽は、摘むよりも、揺らした方がいい」


「揺らしすぎて折れないといいですが」


瀬戸川の言葉に、瞬崎は笑顔で頷いた。


職員室の窓の外では、部活を終えた生徒たちの声が遠くに響いていた。


そのときだった。


職員室の奥、廊下の向こうから、微かな音が流れ込んできた。


最初は、空調の音かと思うほど静かだった。だが次の瞬間、それが旋律であることを、瞬崎も瀬戸川も同時に理解した。


――オーボエ。

 

一本の線のような音だった。太くも細くもない。ただ、揺れがない。息の入り口が見えない。音が“始まった”感覚がなく、気づいたときには、すでにそこに在る。


「……」


瞬崎は無言で耳を澄ました。音は廊下の壁をすり抜け、職員室の空間に自然に溶け込んでくる。誰かに聴かせようとする圧はない。だが、無視することもできない。


一音一音が、完全に制御されていた。ピッチは揺れず、息の流速は一定。


ロングトーンの中で音色が変質しない――普通ならあり得ない。


「……知らない曲ですね」


瞬崎が低く言う。


「ええ。うちのレパートリーではありません」


瀬戸川の声も、自然と小さくなっていた。


旋律は続く。


跳躍しても音程は狂わず、速いパッセージでも一切濁らない。タンギングは存在感を消し、音の“角”だけを残している。


――無駄がない。


いや、正確には無駄という概念そのものが存在しない音だった。


「技術……というより」


瞬崎が言葉を探す。


「音そのものが、完成している」


その瞬間、瀬戸川は確信した。


(オーボエ――)


視線を上げ、廊下の先を見つめる。


(間違いない)


旋律が、ふっと途切れた。余韻だけが、職員室に残る。まるで、最初からそこにあった空気が、元に戻ったかのように。


瀬戸川は、静かに口を開いた。


「……オーボエなら、きっと天奏(てんそう)でしょう。あの音は、“今ここで吹く理由”を知っている」


瞬崎が振り返る。


天奏若葉(てんそうわかば)さん、ですか」


「ええ」


断定ではない。だが、迷いは一切なかった。


「今の音は、才能とか努力とか、そういう次元じゃありません。“鳴らせる人間が限られている音”です」


瞬崎は、ゆっくりと頷いた。


「……月本君と、似ていますね」


「似てはいますが、違います」


瀬戸川はそう言って、少しだけ目を細めた。



音は、途中で途切れた。


自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。指はまだキーの上にある。息も残っている。


けれど――それ以上、音が前へ進まなかった。


耳の奥で、何かが囁く。はっきりした言葉ではない。旋律でもない。ただ、音と音の隙間に入り込む、不快な気配。



《吹部やらない?》

《ずるいよ、そんな音》

《また失う》

《もっと聞きたいなぁ》

《私、バカだね》

《いや、いや!!!もうやめて!!!》

《もっと聞いていたかったよ》

《天奏まで見捨てるんだ》

《私にやる資格なんてない》

《疲れた》

《音楽、好き?》

《...ふふ、私も......大っ嫌いだよ》



「……やめて」


その声は掠れていた。自分でも聞こえないくらいに。


「お願い……やめて……」


オーボエを持つ手が、わずかに震える。深呼吸をしようとしても、息が途中で引っかかる。


視線が、譜面台へ落ちた。


そこには、一枚の楽譜が立てかけられている。見覚えのある旋律。忘れようとしても、忘れきれなかった曲。


色褪せたその楽譜には、


わずかに血が滲んでいた。

音は、確かに美しかった。

正確で、揺れがなく、完成されていた。だからこそ、その音が途中で止まった理由を、誰も知らない。

地区大会に向けて動き出している――でも、少しずつ歯車は狂い始めていた。

気づかぬうちに、誰かの音も、誰かの心も、少しずつ揺れている。

感想、評価も是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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