25話 結果の向こう側
音の価値は、結果だけで決まるわけじゃない。けれど、結果がすべてを語ってしまう瞬間もある。
選ばれる音。
選ばれなかった音。
そして、まだ決まらない音。
この日のオーディションは、それぞれの“現在地”を、はっきりと浮かび上がらせていた。
響は音楽室の真ん中にポツンと置かれた椅子に腰を下ろした。
視線を上げると瞬崎と瀬戸川が並んで座っている。瞬崎が笑顔で口を開いた。
「月本君は今年からユーフォを始めたんですよね?」
「はい、そうです」
「なるほど。それであれだけの技術...さすがですね。チューニングは大丈夫ですか?」
「あ!はい」
瀬戸川先生は黙って響を見つめている。
「ではまず課題曲より、18〜42小節目までお願いします」
「はい」
僅かに手が震えていた。自分でも抑えられない。瀬戸川は気付いたように言った。
「緊張しているのか?」
「あ、いや、そのー」
「図星だな。だが悪いことではない。自分のペースでゆっくり落ち着いてやるといい」
「はい、ありがとうございます」
そういうとマウスピースを口に当てた。
──音が鳴る。
低音の支えを正確に捉え、旋律を滑らかに繋いでいく。
タンギング、フレーズ、ダイナミクス。手順に迷いはない。楽譜に書かれているとおり、それ以上でも以下でもない。
部屋の空気を振動させる豊かな響きが、淡々と小節を進めていく。
最後の音を置くように終え、ベルを下ろす。
「はい、ありがとうございます。では次、自由曲、中間部のソロですね」
瞬崎の短い指示。
響は椅子に深く腰をかけ直し、呼吸を整える。視線は譜面の一点だけに向けられている。
カウントが落ちる。
──静寂。
その真ん中に、ユーフォの一音が置かれる。柔らかな音色から始まり、旋律はゆっくりと上昇する。
支えるブレス、確実なスライド。変化のある拍、指定されたダイナミクス、そのすべてが譜面どおり。
余計なものはない。ただ、正確な音楽だけがそこにある。
音がわずかに膨らみ、また静まる。空間に均一に広がる響き。次のフレーズへ自然に繋がる。
速さの変化。
跳躍音程。
装飾音。
技術的な壁はない。壁があるとすれば、それは楽譜の黒い点だけだ。
最後の音を真っ直ぐ置き、響はベルを下げる。
「……はい、ありがとうございます。次はそうですね...92小節目から101小節目まで、出来ますか?」
予想外の指示。
一瞬だけ、響の眉がわずかに動く。
「はい」
視線を素早く譜面の該当箇所へ移す。余白の少ないページ。
だが迷う動きはない。
カウント。
──音が走る。
終盤手前の高まりを、流れを崩さずに拾う。要求される音量、音程、確実なタンギング。曲全体を理解していなければ成立しない区間。
響は正確に吹いた。音程もリズムも全て。
響の最後の音が、静かに空気へ溶けていく。
「……はい、そこまで大丈夫です」
短い評価。誉め言葉はないが、否定もない。響は小さく息を吐く。
それが緊張だったのか、集中を解いただけなのか、自分でも判断がつかない。
「ありがとうございました!」
そう言い残し、音楽室を後にした。
夏の吹奏楽コンクールは、人数によって部門が分かれる。
30人以内の《B部門》。
30人以上55人以内の《A部門》。
東縁高校吹奏楽部が出場しているのは、大編成のA部門だ。
そしてこの部門では、課題曲と自由曲の二曲を演奏することが義務づけられている。
人数が多い学校では、本番に乗るメンバーを決めるために校内オーディションを行うことが珍しくない。そこでは学年も入部歴も関係ない。
あるのはただ――“音”だけ。
だからこそ、三年生を差し置いて一年生が選ばれることもあるのだ。
実力がそのまま結果になる世界。
今、響達が挑んでいるのは、まさにそういう舞台だった。
家の玄関を開けると、夕食の匂いがふわりと流れてきた。
学校で張りつめていた空気とはまるで別世界だ。
「おかえり、響。オーディション、無事終わった?」
母が微笑む。
響は一拍置き、短く頷く。
「うん」
それ以上は何も言わない。母もそれ以上深くは聞かず、静かに返した。
「手洗ってきなさいね」
食卓ではいつもどおりの会話が続く。響は黙って箸を動かした。特別落ち込んでいるようには見えない。
むしろ、淡々としていて、彼そのものだ。ただ、視線だけが時折、無意識にリュックの方へ落ちる。それすら家族には気づかれないほど自然だった。
食事を終え、響は自室に戻る。ドアを静かに閉めると、外の生活音がすっと薄れた。
机の上の楽譜。自由曲のページが風もないのに微かに揺れたように見えた。
響は椅子に腰を下ろし、何も言わずスコアを開く。
今日吹いた箇所へ指が止まる。
そして机の端のCDプレイヤーの電源を入れた。
CDの音が流れる。
低音がゆっくり支えを作り、高音が旋律を運ぶ。曲は彼の自由曲の中間部、ちょうど今日オーディションで吹いたフレーズだ。
響は目を閉じることもなく、ただ耳と手をスコアに集中させる。
音の揺らぎ、テンポの微妙な強弱、息の入り方――すべてを“再確認する”かのように聴き取る。
スピーカーから流れる音と、自分の中にある今日の音とが重なり合う。
間違いはなかった。けれど、完全でもなかった。わずかな差が、胸の奥で小さくチクッと響く。響はスコアの指示通り、再び指先を滑らせる。
音を口に出さなくても、CDの音を通して、曲と対話しているかのようだった。
ベルを触ることも、唇を当てることでもない。ただ耳で、手で、心で、曲を追いかける。
――その静けさの中に、揺らぎはない。今はCDの音とスコアだけで、確かに自分のものになっていた。
曲の最後の一音が消え、響は指を止める。顔に表情はないが、わずかに肩の力を抜いた。
深く息を吸うと、胸の奥で何かが少しだけ落ち着くのを感じた。
言葉は必要ない。音だけが、彼の今日を、明日を、確かめてくれる。
音楽室には、それまでの静けさとは別の緊張が漂っていた。部員たちは椅子に腰を下ろし、足元や机の端に視線を落としている。
何人かが小さく息をつき、時計をちらりと見る。
そのとき、瞬崎と瀬戸川が入室した。一瞬、室内の空気がピンと張り詰める。
瞬崎がゆっくり口を開いた。
「皆さん、オーディションお疲れ様でした。皆さんの音をしっかり聞かせてもらいました。皆さんよく頑張ったと思います」
瀬戸川も静かにうなずく。決して個人を特別に褒めるわけではない。空気は一貫して、“音そのもの”を見ている厳格さに満ちていた。
瞬崎は続ける。
「ですが、これはオーディション。ここにいる数名は必ず落選してしまいます。ですが努力が無駄だったわけではありませんよ」
言葉のあと、室内に一瞬の沈黙が落ちる。椅子に座る部員たちは互いの顔をちらりと見る。
瀬戸川の視線が部員たちをひと通り確認し、口を開いた。
「……では合格者を発表する。呼ばれたらはっきりと返事をするように。まずフルート、矢口絵里」
「はい!」
「木下未来」
「はい!」
瀬戸川が名前を呼ぶたびに、部員たちの身体がわずかに動く。
呼ばれた者は、驚きや安堵の表情を浮かべ、手を胸に当てる。呼ばれなかった者は、目線を下げ、肩を落とす。
「...風山典義」
「はい!」
「トランペットは以上五名。次にホルン、林美濃」
「はい」
「綾鳥愛慕」
「は、はい!」
「...柊木真尋」
「はい!」
だが確かに、音だけで決まる世界がここにあることを、誰もが理解していた。
瀬戸川は名簿を確認し、淡々と告げた。
「次にユーフォニアム」
ユーフォパートの三人が、わずかに姿勢を正す。三年の若田宗一郎、二年の桜咲彩花、そして一年の月本響。
「若田宗一郎」
「はい」
若田は落ち着いた声で返事をし、静かに立ち上がる。当然だ、と言わんばかりの空気が、室内に流れる。
瀬戸川は続けて名簿に視線を落とす。
「……月本響」
一瞬、空気が止まった。本来、次に呼ばれるはずの名前は別にある。二年、桜咲彩花――。
だが呼ばれたのは、響だった。
「はい」
響は短く返事をし、立ち上がる。表情は変わらない。けれど、視線が一斉に集まっているのを、はっきりと感じていた。
沈黙。
瀬戸川は静かに口を開く。
「以上二名。次にチューバ」
何事もなかったように結果発表は続いていく。
「香久山大兎」
「はい」
「茅野砂漣」
「はい」
「以上二名、最後にパーカッション」
「.....え、俺落ちた?」
来島は呑気に口を開く。誰も気づいてはなかった。
......瀬戸川は一度、名簿から視線を上げた。
「最後に、ソロパートの発表をする」
空気が、はっきりと変わる。部員たちの視線が一斉に集まった。その先はもちろん、ユーフォだ。
若田、響。選ばれるのはどちらなのか?誰もがそう思っていた。
一拍。
「ユーフォニアムのソロは...」
誰もが息をのむ。
「...若田宗一郎だ」
その名が、静かに音楽室に落ちた。
「……はい」
その瞬間、ざわめきが起こる――ことはなかった。だが、何人かの部員は、無意識のうちに視線を動かしていた。
同学年の部員や、数名の上級生が、響を見る。
――響、じゃないのか。
口に出されることはない。けれど、その疑問は確かに、空気の中に浮かんでいた。
響は、視線に気づいていた。だが顔を上げることはない。ただ静かに前を見つめている。胸の奥で、理解が静かに形を取る。
――技術と、音楽は、同じではない。
誰も何も言わない。
誰も異を唱えない。
瞬崎は一度、部員たちを見渡した。
「今回のオーディションについて、総評を伝えます」
誰も身じろぎしない。瞬崎の声は終始、穏やかだった。
「全体として、技術面は非常に安定していました。特に低音は、合奏をしっかり支えられる状態にあります」
何人かが小さく息をつく。
「ただし、音楽としては、まだ揃っていない。今は“正確に吹けている”段階です」
その言葉は、責める調子ではなかった。事実を、事実として述べているだけだった。
瞬崎は一拍置き、続ける。
「そこで、今年のコンクールについて、一つ伝えておきます」
空気が、再び張り詰める。
「今年は――大会ごとに、オーディションを行います」
一瞬、意味が追いつかない。次の瞬間、室内に微かなざわめきが走る。そして全員が一斉に視線を上げた。
驚き、戸惑い、緊張。いくつもの感情が、同時に立ち上がった。
瞬崎はそれを制することもなく、静かに言った。
「固定メンバーにはしません。大会ごとに、その時いちばん“音が出ている”人を選びます」
誰も反論しない。それが、この部の方針だと、全員が理解していた。
響は、ただ前を見つめていた。
――終わっていない。胸の奥で、静かにそう思う。
「今日の結果は、今日までの音です。明日の音は、また別です。どうかそれを忘れないでこれからも練習に励んでください」
オーディションの結果は、ひとつの区切りであって、結論ではない。そして選ばれた音も、選ばれなかった音も、ここで止まるわけではない。
それぞれの音が、これからどこへ向かうのだろうか?
感想、評価是非お願いします。
次回もお楽しみに!




