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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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25/42

25話 結果の向こう側

音の価値は、結果だけで決まるわけじゃない。けれど、結果がすべてを語ってしまう瞬間もある。

選ばれる音。

選ばれなかった音。

そして、まだ決まらない音。

この日のオーディションは、それぞれの“現在地”を、はっきりと浮かび上がらせていた。

(ひびき)は音楽室の真ん中にポツンと置かれた椅子に腰を下ろした。


視線を上げると瞬崎(しゅんざき)瀬戸川(せとがわ)が並んで座っている。瞬崎が笑顔で口を開いた。


月本(つきもと)君は今年からユーフォを始めたんですよね?」


「はい、そうです」


「なるほど。それであれだけの技術...さすがですね。チューニングは大丈夫ですか?」


「あ!はい」


瀬戸川先生は黙って響を見つめている。


「ではまず課題曲より、18〜42小節目までお願いします」


「はい」


僅かに手が震えていた。自分でも抑えられない。瀬戸川は気付いたように言った。


「緊張しているのか?」


「あ、いや、そのー」


「図星だな。だが悪いことではない。自分のペースでゆっくり落ち着いてやるといい」


「はい、ありがとうございます」


そういうとマウスピースを口に当てた。


──音が鳴る。

 

低音の支えを正確に捉え、旋律を滑らかに繋いでいく。

 

タンギング、フレーズ、ダイナミクス。手順に迷いはない。楽譜に書かれているとおり、それ以上でも以下でもない。

 

部屋の空気を振動させる豊かな響きが、淡々と小節を進めていく。


最後の音を置くように終え、ベルを下ろす。


「はい、ありがとうございます。では次、自由曲、中間部のソロですね」


瞬崎の短い指示。


響は椅子に深く腰をかけ直し、呼吸を整える。視線は譜面の一点だけに向けられている。


カウントが落ちる。


──静寂。


その真ん中に、ユーフォの一音が置かれる。柔らかな音色から始まり、旋律はゆっくりと上昇する。


支えるブレス、確実なスライド。変化のある拍、指定されたダイナミクス、そのすべてが譜面どおり。


余計なものはない。ただ、正確な音楽だけがそこにある。


音がわずかに膨らみ、また静まる。空間に均一に広がる響き。次のフレーズへ自然に繋がる。


速さの変化。

跳躍音程。

装飾音。


技術的な壁はない。壁があるとすれば、それは楽譜の黒い点だけだ。


最後の音を真っ直ぐ置き、響はベルを下げる。


「……はい、ありがとうございます。次はそうですね...92小節目から101小節目まで、出来ますか?」


予想外の指示。


一瞬だけ、響の眉がわずかに動く。


「はい」


視線を素早く譜面の該当箇所へ移す。余白の少ないページ。


だが迷う動きはない。


カウント。


──音が走る。


終盤手前の高まりを、流れを崩さずに拾う。要求される音量、音程、確実なタンギング。曲全体を理解していなければ成立しない区間。


響は正確に吹いた。音程もリズムも全て。


響の最後の音が、静かに空気へ溶けていく。


「……はい、そこまで大丈夫です」


短い評価。誉め言葉はないが、否定もない。響は小さく息を吐く。


それが緊張だったのか、集中を解いただけなのか、自分でも判断がつかない。


「ありがとうございました!」


そう言い残し、音楽室を後にした。



夏の吹奏楽コンクールは、人数によって部門が分かれる。


30人以内の《B部門》。

30人以上55人以内の《A部門》。


東縁(とうえん)高校吹奏楽部が出場しているのは、大編成のA部門だ。


そしてこの部門では、課題曲と自由曲の二曲を演奏することが義務づけられている。


人数が多い学校では、本番に乗るメンバーを決めるために校内オーディションを行うことが珍しくない。そこでは学年も入部歴も関係ない。


あるのはただ――“音”だけ。


だからこそ、三年生を差し置いて一年生が選ばれることもあるのだ。


実力がそのまま結果になる世界。


今、響達が挑んでいるのは、まさにそういう舞台だった。



家の玄関を開けると、夕食の匂いがふわりと流れてきた。


学校で張りつめていた空気とはまるで別世界だ。


「おかえり、響。オーディション、無事終わった?」


母が微笑む。


響は一拍置き、短く頷く。


「うん」


それ以上は何も言わない。母もそれ以上深くは聞かず、静かに返した。


「手洗ってきなさいね」


食卓ではいつもどおりの会話が続く。響は黙って箸を動かした。特別落ち込んでいるようには見えない。


むしろ、淡々としていて、彼そのものだ。ただ、視線だけが時折、無意識にリュックの方へ落ちる。それすら家族には気づかれないほど自然だった。


食事を終え、響は自室に戻る。ドアを静かに閉めると、外の生活音がすっと薄れた。


机の上の楽譜。自由曲のページが風もないのに微かに揺れたように見えた。


響は椅子に腰を下ろし、何も言わずスコアを開く。

今日吹いた箇所へ指が止まる。


そして机の端のCDプレイヤーの電源を入れた。


CDの音が流れる。


低音がゆっくり支えを作り、高音が旋律を運ぶ。曲は彼の自由曲の中間部、ちょうど今日オーディションで吹いたフレーズだ。


響は目を閉じることもなく、ただ耳と手をスコアに集中させる。


音の揺らぎ、テンポの微妙な強弱、息の入り方――すべてを“再確認する”かのように聴き取る。


スピーカーから流れる音と、自分の中にある今日の音とが重なり合う。


間違いはなかった。けれど、完全でもなかった。わずかな差が、胸の奥で小さくチクッと響く。響はスコアの指示通り、再び指先を滑らせる。


音を口に出さなくても、CDの音を通して、曲と対話しているかのようだった。


ベルを触ることも、唇を当てることでもない。ただ耳で、手で、心で、曲を追いかける。


――その静けさの中に、揺らぎはない。今はCDの音とスコアだけで、確かに自分のものになっていた。


曲の最後の一音が消え、響は指を止める。顔に表情はないが、わずかに肩の力を抜いた。


深く息を吸うと、胸の奥で何かが少しだけ落ち着くのを感じた。


言葉は必要ない。音だけが、彼の今日を、明日を、確かめてくれる。



音楽室には、それまでの静けさとは別の緊張が漂っていた。部員たちは椅子に腰を下ろし、足元や机の端に視線を落としている。


何人かが小さく息をつき、時計をちらりと見る。


そのとき、瞬崎と瀬戸川が入室した。一瞬、室内の空気がピンと張り詰める。


瞬崎がゆっくり口を開いた。


「皆さん、オーディションお疲れ様でした。皆さんの音をしっかり聞かせてもらいました。皆さんよく頑張ったと思います」


瀬戸川も静かにうなずく。決して個人を特別に褒めるわけではない。空気は一貫して、“音そのもの”を見ている厳格さに満ちていた。


瞬崎は続ける。


「ですが、これはオーディション。ここにいる数名は必ず落選してしまいます。ですが努力が無駄だったわけではありませんよ」


言葉のあと、室内に一瞬の沈黙が落ちる。椅子に座る部員たちは互いの顔をちらりと見る。


瀬戸川の視線が部員たちをひと通り確認し、口を開いた。


「……では合格者を発表する。呼ばれたらはっきりと返事をするように。まずフルート、矢口絵里(やぐちえり)


「はい!」


木下未来(きのしたみらい)


「はい!」


瀬戸川が名前を呼ぶたびに、部員たちの身体がわずかに動く。


呼ばれた者は、驚きや安堵の表情を浮かべ、手を胸に当てる。呼ばれなかった者は、目線を下げ、肩を落とす。


「...風山典義(かぜやまよしのり)


「はい!」


「トランペットは以上五名。次にホルン、林美濃(はやしみの)


「はい」


綾鳥愛慕(あやとりえいほ)


「は、はい!」


「...柊木真尋(ひいらぎまひろ)


「はい!」


だが確かに、音だけで決まる世界がここにあることを、誰もが理解していた。


瀬戸川は名簿を確認し、淡々と告げた。


「次にユーフォニアム」


ユーフォパートの三人が、わずかに姿勢を正す。三年の若田宗一郎(わかだそういちろう)、二年の桜咲彩花(おうさきあやか)、そして一年の月本響。


「若田宗一郎」


「はい」


若田は落ち着いた声で返事をし、静かに立ち上がる。当然だ、と言わんばかりの空気が、室内に流れる。


瀬戸川は続けて名簿に視線を落とす。


「……月本響」


一瞬、空気が止まった。本来、次に呼ばれるはずの名前は別にある。二年、桜咲彩花――。


だが呼ばれたのは、響だった。


「はい」


響は短く返事をし、立ち上がる。表情は変わらない。けれど、視線が一斉に集まっているのを、はっきりと感じていた。


沈黙。


瀬戸川は静かに口を開く。


「以上二名。次にチューバ」


何事もなかったように結果発表は続いていく。


香久山大兎(かぐやまだいと)


「はい」


茅野砂漣(かやのされん)


「はい」


「以上二名、最後にパーカッション」


「.....え、俺落ちた?」


来島(らいとう)は呑気に口を開く。誰も気づいてはなかった。



......瀬戸川は一度、名簿から視線を上げた。


「最後に、ソロパートの発表をする」


空気が、はっきりと変わる。部員たちの視線が一斉に集まった。その先はもちろん、ユーフォだ。


若田、響。選ばれるのはどちらなのか?誰もがそう思っていた。


一拍。


「ユーフォニアムのソロは...」


誰もが息をのむ。


「...若田宗一郎だ」


その名が、静かに音楽室に落ちた。


「……はい」


その瞬間、ざわめきが起こる――ことはなかった。だが、何人かの部員は、無意識のうちに視線を動かしていた。


同学年の部員や、数名の上級生が、響を見る。


――響、じゃないのか。


口に出されることはない。けれど、その疑問は確かに、空気の中に浮かんでいた。


響は、視線に気づいていた。だが顔を上げることはない。ただ静かに前を見つめている。胸の奥で、理解が静かに形を取る。


――技術と、音楽は、同じではない。


誰も何も言わない。

誰も異を唱えない。


瞬崎は一度、部員たちを見渡した。


「今回のオーディションについて、総評を伝えます」


誰も身じろぎしない。瞬崎の声は終始、穏やかだった。


「全体として、技術面は非常に安定していました。特に低音は、合奏をしっかり支えられる状態にあります」


何人かが小さく息をつく。


「ただし、音楽としては、まだ揃っていない。今は“正確に吹けている”段階です」


その言葉は、責める調子ではなかった。事実を、事実として述べているだけだった。


瞬崎は一拍置き、続ける。


「そこで、今年のコンクールについて、一つ伝えておきます」


空気が、再び張り詰める。


「今年は――大会ごとに、オーディションを行います」


一瞬、意味が追いつかない。次の瞬間、室内に微かなざわめきが走る。そして全員が一斉に視線を上げた。


驚き、戸惑い、緊張。いくつもの感情が、同時に立ち上がった。


瞬崎はそれを制することもなく、静かに言った。


「固定メンバーにはしません。大会ごとに、その時いちばん“音が出ている”人を選びます」


誰も反論しない。それが、この部の方針だと、全員が理解していた。


響は、ただ前を見つめていた。


――終わっていない。胸の奥で、静かにそう思う。


「今日の結果は、今日までの音です。明日の音は、また別です。どうかそれを忘れないでこれからも練習に励んでください」

オーディションの結果は、ひとつの区切りであって、結論ではない。そして選ばれた音も、選ばれなかった音も、ここで止まるわけではない。

それぞれの音が、これからどこへ向かうのだろうか?

感想、評価是非お願いします。

次回もお楽しみに!

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