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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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24/43

24話 再び試される

音が迷うことなんて、ないと思っていた。

息を入れれば音が鳴る。

心を込めれば音が届く――はずだった。

だけど今日の僕の音は、何かが足りない。

何を失くしたのかさえ、まだわからないまま。

放課後の音楽室。


緊張と期待が張りつめる中、課題曲のフレーズが響き渡る。


「――ストップ」


瞬崎(しゅんざき)の冷静な声が、その空気を切り裂いた。


「まずクラリネット。メロディラインが前に出ていません。遠慮しすぎです」

 

「はい!」


クラリネットパートが小さく肩を揺らす。


「フルート。細かいパッセージ、一本ずつの支えが足りていません。音が軽く跳ねてるだけに聞こえます」


「はい」


「それからトランペット。派手に吹けばいいというものではありません。周りを“勝手に”置き去りにしていますよ?」


「はい、すみません」


鋭い視線に、トランペットの一年が小さくうなだれた。


空気が一段と重くなる。


瞬崎は、ゆっくりとタクトを持ち替えながら言葉を続けた。


「合奏は、自分の音を通すだけじゃ音楽になりません。支える音と混ざる音、その上で輝く音があるんです。わかりますか?」


「はい!」


彼の視線が低音パートに向く。


「では次。Bから入ります。低音は縦しっかり合わせること」


「はい」


指揮棒が振り下ろされる。厚みのあるハーモニーが響きだす──その中に、ふと違和感が走る。


再びタクトが止まった。


「……ストップ、ユーフォ。今のは誰の音ですか?」


瞬崎の目が、まっすぐ(ひびき)を射抜いた。


月本(つきもと)君」


部室が一瞬、静まり返る。


「はい...」


「息の芯が細すぎます。もっと音圧をかけて、ホールに響かせるイメージをもってください」


響の喉が苦しげに鳴る。


「……すみません」


「謝る必要はありません。直せばいいだけですから。ですが今のままでは、音楽に置いて行かれますよ」


瞬崎は短く告げ、再びタクトを上げた。


.......................



「今日はここまでにします。低音パートは後で個別確認をします。自主練をしたい人はご自由に」


「ありがとうございました!」


久瀬の挨拶に続いて全員が口を開く。


来島(らいとう)永井(ながい)柊木(ひいらぎ)──


仲間たちが心配そうにこちらを見ていた。胸の奥が、また少し痛む。


自分だけが遠くで鳴っているような孤独が、静かに広がった。



いつものバスパート練習教室。


窓から差し込む朝の光が、譜面の五線を淡く照らしていた。


響はユーフォのベルを少し上向きにして、ロングトーンを吹き続けていた。


だけど、その音はいつものようにまっすぐではない。


わずかな震え。息の流れに、かすかな迷いが混じる。

来島がチューバから顔を上げた。


「……なんかさ、響、最近の音、ちょっと違くない?」


永井も不安そうに眉を寄せて言う。


「数日前まであんなに芯のある音だったのに……何かあった?今日の合奏だって......」


響は、音孔にそっと手を当てて視線を落とした。


「なんでもないよ。大丈夫、大丈夫……」


そう答えたのに、その表情は大丈夫じゃないと物語っていた。


胸の奥が苦しい。音を出すたびに、その苦しさが膨らんでいく気がした。


――あの時の言葉が、まだ離れない。


ほんの数日前。誰かの何気ない一言が、心に鋭く刺さったままだった。なんで自分は反応してしまったんだろう。


息を吸う。でも肺に空気がうまく入らない。


「…………はぁ」


響は気づかないうちにため息を零していた。来島がそっと口を開く。


「無理すんなよ?オーディションも近いんだし。お前の音、みんな楽しみにしてんだからさ」


響はわずかに笑った。けれど――その笑顔はどこか弱いままだ。支えられている自分に気付く勇気がまだ持てなかった。


音楽室の外では、他のパートがオーディションに向けて音を重ねている。


その音が、いつもより遠く聞こえた。



黄昏色に染まる帰り道。


いつもなら来島や永井と騒がしく歩いているはずなのに、今日は響一人だった。


靴音だけが、薄暗い廊下のように寂しく響く。


(……僕、何してるんだろ)


校門を抜けたところで、


「おーい、響君」


背後から軽やかな声がした。振り返ると、奏多(かなた)が手を軽く振って走ってくる。


「一人で帰るの、珍しいね」


「たまたまね。……みんな、先に帰った」


ほんの少し言い訳のように響は答えた。奏多は隣に並び、同じ歩幅で歩き始める。


「今日の合奏、どうしたの。いつもならさ、もっとドーン!て音なのにさ」


手で大げさに音を表現してみせる奏多。響は苦笑した。


「……自分でも、わからないんだ」


「不調ってやつ?」


響は少しだけ考え、首を横に振る。


「不調というか……頭で考えれば考えるほど、音が遠くなる感じ」


「ほーん……哲学っぽいこと言うじゃん」


奏多が冗談めかして肩をすくめる。


けれどその目は、ちゃんと心配していた。


「でもさ。もう明後日にはオーディションだよ?」


響の足が一瞬止まる。道路の白線を見つめたまま、短く答える。


「……うん」


「なら、まだ止まんないの」


奏多は前を向いたまま言った。


「今年の低音、響君が引っ張んないと。僕は響君の音、好きだし」


その言葉が、少し胸を温かくした。


「……ありがとう」


「礼はいいよ。ただまあ、何か悩んでたら、何でも話してよ。僕そういう話も好きだから」


「だからその好き、ってどういうこと?」


それが奏多の励まし方。響は深く息を吸い、夕方の風を肺に入れる。少しだけ、息が通った。


「よし。じゃ、コンビニ寄って帰ろっか」


奏多はそう言って響の手を掴む。


「僕、そんなに元気じゃないけど」


「元気にするから大丈夫!」


まるで何も問題なんてないかのように笑う奏多。その笑顔につられて、響の頬にも小さな笑みが浮かんだ。


夕焼けの道を、二人の影が並んで伸びていく。



朝の空気は、どこか張りつめていた。


今日は朝練がない。だから、校内はいつもより静かで、風が廊下を抜ける音さえ大きく感じる。


響は一人、教室へ向かって歩いていた。いつもなら誰かと他愛ない会話をしている時間なのに、今日は違う。胸の奥に、言葉にできない重さがつっかえていた。


(本当に……このままでいいのかな)


そのとき――


ふっと、かすかにユーフォの音が届いた。


遠くで、だけど確かに、息遣いのこもった音色。まっすぐ響いてくる。


吸い寄せられるように音を追っていく。階段を降り、扉を開き、外へ出ると…


旧校舎の下。


薄暗いコンクリートのスペースに、ひとり立つ背中。


桜咲彩花(おうさきあやか)


いつも明るくて、後輩の面倒見も良い2年生のユーフォ吹きだ。


彼女は響に気づかないまま、一音一音、全力で吹き込んでいた。


肩は小さく震え、唇は真剣にマウスピースへと押し当てられている。


強く、想いのこもった音。


「絶対に勝ち取る」という気迫が音圧になって押し寄せる。


響は静かに息をのむ。


——みんな、吹きたいんだ。

ホールで。

大きな舞台で、あの光の中で。

自分だけじゃない。

不安なのも、焦ってるのも、夢を掴みたいのも。

みんな、本気なんだ。


彼女はラストの一音を吹き切ると、大きく息を吐いた。


その音の余韻が消える前に、響は小さく背を向ける。


名を呼ぶこともなく。

視線を交わすこともなく。

ただ静かに、その場を離れた。

――音が胸の奥に、刺さったまま。

――――――――



音楽室には、いつもと違う空気が満ちていた。


笑い声も、雑談もない。椅子のきしむ小さな音すら、鋭く響く。


みんなが前を向いて、ただ、待っている。呼吸を浅くして、胸の鼓動を押し殺して。


ガチャ――扉が開き、瞬崎がゆっくりと入ってきた。


その一歩で、空気がさらに張り詰める。


「……皆さんお待たせしました」


短い挨拶。


けれどその声は部屋中に重く響いた。


瞬崎は手元のリストを軽く持ち上げる。


「いよいよ今日がオーディションです。課題曲、自由曲、そしてパートによってはソロ部分の抜き取り。一人ひとり、真剣勝負です」


誰も身動きをしない。ただ、背筋だけは全員が一直線に伸びていた。


「言っておきますが――情けは必要ありません」


鋭い瞳が一人一人を貫く。


「音がすべてです。ステージに立つ資格があるのから、それだけを見ます」


一拍、間。静寂が鼓膜を締めつける。


「それから」


瞬崎の声が、少しだけ柔らかくなる。


「選ばれなかったからといって、その努力が無駄になるわけではありません。音は裏切りませんから。今までの積み重ねを、全力で発揮してください」


小さな震えの音が、いくつも胸の中に生まれる。響も、拳を強く握りしめた。


「では、始めましょうか」


「よろしくお願いします!!」


部員達の声が音楽室に響き渡る。


「オーディションの時間です」



いつものバスパート練習教室。


でも普段の空気ではなかった。椅子に座っているだけなのに、心臓がうるさい。


壁に反響する他パートの音が、やけに鋭く聞こえる。


「うわぁぁぁ……無理無理無理……」


来島が両手で頭を抱えながら、椅子の上でぐねぐねしていた。


「まだ俺の順番じゃないのに……胃が、胃が死ぬ……!」


「そんなに緊張することかな?練習通りやれば大丈夫」


「逆に永井は何でそんな落ち着いてるんだよ」


永井が肩を軽く叩きながら、呆れたように笑う。


「先輩もなんか言ってくださいよ」


「うーん……そうだな」


香久山かぐやまは少し考えてから、真顔で言った。


「平常心、かな?」


「おおおいっ!? フォローになってませんよそれ!」


来島がガバッと顔を上げた。香久山は首をかしげる。


「え、安心しないか?」


「しませんわ!! 余計プレッシャーですよ!!」


永井が吹き出し、控えめに笑っていた響もつられて小さく笑った。


――緊張はある。でも、この空間は居心地がいい。そのことが、少しだけ心を軽くした。


「……でもさ」


来島は深呼吸して、弱く笑う。


「俺ら低音で、今年絶対吹こうな。ホールで」


響は、そっと頷いた。


「うん……もちろん」


扉の向こうでは、誰かの本気の音が鳴り続けている。

オーディションはもう始まっている。


「……月本君」


その声に、響が顔を上げる。若田(わかだ)がユーフォを片腕に抱えながら、静かに近づいてきた。


「ちょっといい?」


響は小さく頷き、席を立つ。二人だけが少し離れ、他の声が遠くなる。


若田は響のベルを一瞬見つめ、真剣な目で言った。


「……どうしたの?最近ずっと調子悪かったけど。大丈夫?」


核心を突くような直球。響は視線を落としたまま、言葉を探す。


「……うまく、息が通らないっていうか……」


「そういう日もあるよ。でもね――」


若田はほんの少しだけ笑ってみせた。


「それでも響君の音は、ずっと前からみんなの支えなんだ。だからさ、変な遠慮しなくていい」


響の胸に、ふっと熱が灯る。


「僕が……支え、か……?」


「当たり前でしょ」


若田の声は淡々としていたけれど、そこに嘘はなかった。


「でも、今日は絶対に負けない。ソロは僕が取る。ユーフォのトップも」


響は目を見開いた。


「……もちろん。僕も負けませんよ」


若田は満足そうに頷き、ユーフォを肩に乗せて仲間の方へ戻っていく。


残された響は、そっと深呼吸した。


――戦う相手は、誰より近くにいる。けれどそれが、不思議と心を強くした。


「次、バスパート、ユーフォからです」


教室の扉が開きそう聞こえた。


「よし!二人とも行くか!」


「はい!」


響と桜咲は口を揃えた。そうして教室を後にする。


その時、


「響君!」


永井の声が聞こえた。響は振り返る。


「...頑張ってね」



「ではまず、ユーフォ。若田さん」


その声に、若田の背筋がわずかに伸びた。


「じゃ、いってくるね」


淡々と。だがその目は燃えていた。扉が静かに閉まり、廊下には響と桜咲だけが残される。


途端に、静寂。壁越しに聞こえるのは、呼吸と軽いキーバルブの音だけ。


桜咲がぽつりとつぶやいた。


「……若田先輩はやっぱ安定のうまさだね」


「はい」


響は短く返す。でも、その一言の奥にはたくさんの感情が溢れていた。


「去年はさ、先輩たちが全部の柱だった。でも今年は――」


桜咲が響を見る。


「私は君がその柱だと思ってる」


心臓が跳ねる。


「……僕なんて」


「そうやって言うところが、弱いの」


桜咲はそっぽを向いた。だけどその声は、震えていなかった。


「……ま、その気持もわからなくもないけど」


小さく笑う。


「でも、負けたくないんだ。私だって」


その瞬間、音が鳴った。若田の音。まっすぐで、強くて、迷いがない。教室の壁なんて簡単に突き抜けていく。


(……さすがだ)


響は唇を噛んだ。桜咲は壁にもたれかかりながら、囁くように言う。


「悔しいね」


響は答えられなかった。


やがて、最後の一音。若田のオーディションは案外早く終わった。


やがて扉が開く。


少し汗ばんだ顔。だけど目は誇らしげ。


「……じゃあ僕はこれにて」


若田はそれだけ言って笑い、すれ違いざまに響の肩を軽く叩いた。


「……真剣勝負、だからね」


響はその手の温度を忘れられなかった。瞬崎の声が廊下に響く。


「次、桜咲さん」


桜咲はベルを軽く押さえ、深呼吸した。


「じゃ、行ってくるね」


そう言って扉へ歩いていく背中は――震えているようで、でも、誇り高かった。


響は祈るように、その扉を見送った。



扉が閉まり、また静寂。桜咲の息を整える音が、壁越しでも聞こえる気がする。


やがて桜咲のユーフォが響く。


まっすぐ。強く。まるで、光だ。


桜咲の音は、感情を真正面からぶつけるような音だった。


(綺麗、というより......)


響は思う。


(必死なんだ)


悔しさ、焦り、恐怖。全部を音に叩きつけている。


最後の一音。またしても早く終わった。


泣きそうで、でも折れない強さを残して――桜咲の演奏は終わった。


扉が開く。


息を荒くしながら桜咲が出てくる。その表情は、少し泣きそうで、でも笑っていた。


「……全部出せた。あとは響君、任せたよ」


その言葉を置くように、すれ違っていく。


響は小さく頷いた。


指先が震える。


瞬崎の声。


「次、月本君」


廊下の空気が重く沈む。響はベルの縁を一度そっと撫で、扉に手をかける。


来島、永井、香久山。奏多。若田。桜咲。


みんなが積み上げてきた音が、耳の奥で響く。響は一歩を踏み出した。扉が静かに閉まり、スポットライトのような視線を浴びる。


音楽室の真ん中――

響のオーディションが始まる。


「一年、ユーフォニアムの月本響です。よろしくお願いします!」

本番前の音は、どんな感情も隠してくれない。

強がりも、不安も、闘う理由も――全部鳴ってしまう。

いよいよ、響の番だ。

次回、勝負のステージへ。

響の音は、どこへ向かって響くのか。

評価、感想是非お願いします。次回もお楽しみに!

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