24話 再び試される
音が迷うことなんて、ないと思っていた。
息を入れれば音が鳴る。
心を込めれば音が届く――はずだった。
だけど今日の僕の音は、何かが足りない。
何を失くしたのかさえ、まだわからないまま。
放課後の音楽室。
緊張と期待が張りつめる中、課題曲のフレーズが響き渡る。
「――ストップ」
瞬崎の冷静な声が、その空気を切り裂いた。
「まずクラリネット。メロディラインが前に出ていません。遠慮しすぎです」
「はい!」
クラリネットパートが小さく肩を揺らす。
「フルート。細かいパッセージ、一本ずつの支えが足りていません。音が軽く跳ねてるだけに聞こえます」
「はい」
「それからトランペット。派手に吹けばいいというものではありません。周りを“勝手に”置き去りにしていますよ?」
「はい、すみません」
鋭い視線に、トランペットの一年が小さくうなだれた。
空気が一段と重くなる。
瞬崎は、ゆっくりとタクトを持ち替えながら言葉を続けた。
「合奏は、自分の音を通すだけじゃ音楽になりません。支える音と混ざる音、その上で輝く音があるんです。わかりますか?」
「はい!」
彼の視線が低音パートに向く。
「では次。Bから入ります。低音は縦しっかり合わせること」
「はい」
指揮棒が振り下ろされる。厚みのあるハーモニーが響きだす──その中に、ふと違和感が走る。
再びタクトが止まった。
「……ストップ、ユーフォ。今のは誰の音ですか?」
瞬崎の目が、まっすぐ響を射抜いた。
「月本君」
部室が一瞬、静まり返る。
「はい...」
「息の芯が細すぎます。もっと音圧をかけて、ホールに響かせるイメージをもってください」
響の喉が苦しげに鳴る。
「……すみません」
「謝る必要はありません。直せばいいだけですから。ですが今のままでは、音楽に置いて行かれますよ」
瞬崎は短く告げ、再びタクトを上げた。
.......................
「今日はここまでにします。低音パートは後で個別確認をします。自主練をしたい人はご自由に」
「ありがとうございました!」
久瀬の挨拶に続いて全員が口を開く。
来島、永井、柊木──
仲間たちが心配そうにこちらを見ていた。胸の奥が、また少し痛む。
自分だけが遠くで鳴っているような孤独が、静かに広がった。
いつものバスパート練習教室。
窓から差し込む朝の光が、譜面の五線を淡く照らしていた。
響はユーフォのベルを少し上向きにして、ロングトーンを吹き続けていた。
だけど、その音はいつものようにまっすぐではない。
わずかな震え。息の流れに、かすかな迷いが混じる。
来島がチューバから顔を上げた。
「……なんかさ、響、最近の音、ちょっと違くない?」
永井も不安そうに眉を寄せて言う。
「数日前まであんなに芯のある音だったのに……何かあった?今日の合奏だって......」
響は、音孔にそっと手を当てて視線を落とした。
「なんでもないよ。大丈夫、大丈夫……」
そう答えたのに、その表情は大丈夫じゃないと物語っていた。
胸の奥が苦しい。音を出すたびに、その苦しさが膨らんでいく気がした。
――あの時の言葉が、まだ離れない。
ほんの数日前。誰かの何気ない一言が、心に鋭く刺さったままだった。なんで自分は反応してしまったんだろう。
息を吸う。でも肺に空気がうまく入らない。
「…………はぁ」
響は気づかないうちにため息を零していた。来島がそっと口を開く。
「無理すんなよ?オーディションも近いんだし。お前の音、みんな楽しみにしてんだからさ」
響はわずかに笑った。けれど――その笑顔はどこか弱いままだ。支えられている自分に気付く勇気がまだ持てなかった。
音楽室の外では、他のパートがオーディションに向けて音を重ねている。
その音が、いつもより遠く聞こえた。
黄昏色に染まる帰り道。
いつもなら来島や永井と騒がしく歩いているはずなのに、今日は響一人だった。
靴音だけが、薄暗い廊下のように寂しく響く。
(……僕、何してるんだろ)
校門を抜けたところで、
「おーい、響君」
背後から軽やかな声がした。振り返ると、奏多が手を軽く振って走ってくる。
「一人で帰るの、珍しいね」
「たまたまね。……みんな、先に帰った」
ほんの少し言い訳のように響は答えた。奏多は隣に並び、同じ歩幅で歩き始める。
「今日の合奏、どうしたの。いつもならさ、もっとドーン!て音なのにさ」
手で大げさに音を表現してみせる奏多。響は苦笑した。
「……自分でも、わからないんだ」
「不調ってやつ?」
響は少しだけ考え、首を横に振る。
「不調というか……頭で考えれば考えるほど、音が遠くなる感じ」
「ほーん……哲学っぽいこと言うじゃん」
奏多が冗談めかして肩をすくめる。
けれどその目は、ちゃんと心配していた。
「でもさ。もう明後日にはオーディションだよ?」
響の足が一瞬止まる。道路の白線を見つめたまま、短く答える。
「……うん」
「なら、まだ止まんないの」
奏多は前を向いたまま言った。
「今年の低音、響君が引っ張んないと。僕は響君の音、好きだし」
その言葉が、少し胸を温かくした。
「……ありがとう」
「礼はいいよ。ただまあ、何か悩んでたら、何でも話してよ。僕そういう話も好きだから」
「だからその好き、ってどういうこと?」
それが奏多の励まし方。響は深く息を吸い、夕方の風を肺に入れる。少しだけ、息が通った。
「よし。じゃ、コンビニ寄って帰ろっか」
奏多はそう言って響の手を掴む。
「僕、そんなに元気じゃないけど」
「元気にするから大丈夫!」
まるで何も問題なんてないかのように笑う奏多。その笑顔につられて、響の頬にも小さな笑みが浮かんだ。
夕焼けの道を、二人の影が並んで伸びていく。
朝の空気は、どこか張りつめていた。
今日は朝練がない。だから、校内はいつもより静かで、風が廊下を抜ける音さえ大きく感じる。
響は一人、教室へ向かって歩いていた。いつもなら誰かと他愛ない会話をしている時間なのに、今日は違う。胸の奥に、言葉にできない重さがつっかえていた。
(本当に……このままでいいのかな)
そのとき――
ふっと、かすかにユーフォの音が届いた。
遠くで、だけど確かに、息遣いのこもった音色。まっすぐ響いてくる。
吸い寄せられるように音を追っていく。階段を降り、扉を開き、外へ出ると…
旧校舎の下。
薄暗いコンクリートのスペースに、ひとり立つ背中。
桜咲彩花。
いつも明るくて、後輩の面倒見も良い2年生のユーフォ吹きだ。
彼女は響に気づかないまま、一音一音、全力で吹き込んでいた。
肩は小さく震え、唇は真剣にマウスピースへと押し当てられている。
強く、想いのこもった音。
「絶対に勝ち取る」という気迫が音圧になって押し寄せる。
響は静かに息をのむ。
——みんな、吹きたいんだ。
ホールで。
大きな舞台で、あの光の中で。
自分だけじゃない。
不安なのも、焦ってるのも、夢を掴みたいのも。
みんな、本気なんだ。
彼女はラストの一音を吹き切ると、大きく息を吐いた。
その音の余韻が消える前に、響は小さく背を向ける。
名を呼ぶこともなく。
視線を交わすこともなく。
ただ静かに、その場を離れた。
――音が胸の奥に、刺さったまま。
――――――――
音楽室には、いつもと違う空気が満ちていた。
笑い声も、雑談もない。椅子のきしむ小さな音すら、鋭く響く。
みんなが前を向いて、ただ、待っている。呼吸を浅くして、胸の鼓動を押し殺して。
ガチャ――扉が開き、瞬崎がゆっくりと入ってきた。
その一歩で、空気がさらに張り詰める。
「……皆さんお待たせしました」
短い挨拶。
けれどその声は部屋中に重く響いた。
瞬崎は手元のリストを軽く持ち上げる。
「いよいよ今日がオーディションです。課題曲、自由曲、そしてパートによってはソロ部分の抜き取り。一人ひとり、真剣勝負です」
誰も身動きをしない。ただ、背筋だけは全員が一直線に伸びていた。
「言っておきますが――情けは必要ありません」
鋭い瞳が一人一人を貫く。
「音がすべてです。ステージに立つ資格があるのから、それだけを見ます」
一拍、間。静寂が鼓膜を締めつける。
「それから」
瞬崎の声が、少しだけ柔らかくなる。
「選ばれなかったからといって、その努力が無駄になるわけではありません。音は裏切りませんから。今までの積み重ねを、全力で発揮してください」
小さな震えの音が、いくつも胸の中に生まれる。響も、拳を強く握りしめた。
「では、始めましょうか」
「よろしくお願いします!!」
部員達の声が音楽室に響き渡る。
「オーディションの時間です」
いつものバスパート練習教室。
でも普段の空気ではなかった。椅子に座っているだけなのに、心臓がうるさい。
壁に反響する他パートの音が、やけに鋭く聞こえる。
「うわぁぁぁ……無理無理無理……」
来島が両手で頭を抱えながら、椅子の上でぐねぐねしていた。
「まだ俺の順番じゃないのに……胃が、胃が死ぬ……!」
「そんなに緊張することかな?練習通りやれば大丈夫」
「逆に永井は何でそんな落ち着いてるんだよ」
永井が肩を軽く叩きながら、呆れたように笑う。
「先輩もなんか言ってくださいよ」
「うーん……そうだな」
香久山かぐやまは少し考えてから、真顔で言った。
「平常心、かな?」
「おおおいっ!? フォローになってませんよそれ!」
来島がガバッと顔を上げた。香久山は首をかしげる。
「え、安心しないか?」
「しませんわ!! 余計プレッシャーですよ!!」
永井が吹き出し、控えめに笑っていた響もつられて小さく笑った。
――緊張はある。でも、この空間は居心地がいい。そのことが、少しだけ心を軽くした。
「……でもさ」
来島は深呼吸して、弱く笑う。
「俺ら低音で、今年絶対吹こうな。ホールで」
響は、そっと頷いた。
「うん……もちろん」
扉の向こうでは、誰かの本気の音が鳴り続けている。
オーディションはもう始まっている。
「……月本君」
その声に、響が顔を上げる。若田がユーフォを片腕に抱えながら、静かに近づいてきた。
「ちょっといい?」
響は小さく頷き、席を立つ。二人だけが少し離れ、他の声が遠くなる。
若田は響のベルを一瞬見つめ、真剣な目で言った。
「……どうしたの?最近ずっと調子悪かったけど。大丈夫?」
核心を突くような直球。響は視線を落としたまま、言葉を探す。
「……うまく、息が通らないっていうか……」
「そういう日もあるよ。でもね――」
若田はほんの少しだけ笑ってみせた。
「それでも響君の音は、ずっと前からみんなの支えなんだ。だからさ、変な遠慮しなくていい」
響の胸に、ふっと熱が灯る。
「僕が……支え、か……?」
「当たり前でしょ」
若田の声は淡々としていたけれど、そこに嘘はなかった。
「でも、今日は絶対に負けない。ソロは僕が取る。ユーフォのトップも」
響は目を見開いた。
「……もちろん。僕も負けませんよ」
若田は満足そうに頷き、ユーフォを肩に乗せて仲間の方へ戻っていく。
残された響は、そっと深呼吸した。
――戦う相手は、誰より近くにいる。けれどそれが、不思議と心を強くした。
「次、バスパート、ユーフォからです」
教室の扉が開きそう聞こえた。
「よし!二人とも行くか!」
「はい!」
響と桜咲は口を揃えた。そうして教室を後にする。
その時、
「響君!」
永井の声が聞こえた。響は振り返る。
「...頑張ってね」
「ではまず、ユーフォ。若田さん」
その声に、若田の背筋がわずかに伸びた。
「じゃ、いってくるね」
淡々と。だがその目は燃えていた。扉が静かに閉まり、廊下には響と桜咲だけが残される。
途端に、静寂。壁越しに聞こえるのは、呼吸と軽いキーバルブの音だけ。
桜咲がぽつりとつぶやいた。
「……若田先輩はやっぱ安定のうまさだね」
「はい」
響は短く返す。でも、その一言の奥にはたくさんの感情が溢れていた。
「去年はさ、先輩たちが全部の柱だった。でも今年は――」
桜咲が響を見る。
「私は君がその柱だと思ってる」
心臓が跳ねる。
「……僕なんて」
「そうやって言うところが、弱いの」
桜咲はそっぽを向いた。だけどその声は、震えていなかった。
「……ま、その気持もわからなくもないけど」
小さく笑う。
「でも、負けたくないんだ。私だって」
その瞬間、音が鳴った。若田の音。まっすぐで、強くて、迷いがない。教室の壁なんて簡単に突き抜けていく。
(……さすがだ)
響は唇を噛んだ。桜咲は壁にもたれかかりながら、囁くように言う。
「悔しいね」
響は答えられなかった。
やがて、最後の一音。若田のオーディションは案外早く終わった。
やがて扉が開く。
少し汗ばんだ顔。だけど目は誇らしげ。
「……じゃあ僕はこれにて」
若田はそれだけ言って笑い、すれ違いざまに響の肩を軽く叩いた。
「……真剣勝負、だからね」
響はその手の温度を忘れられなかった。瞬崎の声が廊下に響く。
「次、桜咲さん」
桜咲はベルを軽く押さえ、深呼吸した。
「じゃ、行ってくるね」
そう言って扉へ歩いていく背中は――震えているようで、でも、誇り高かった。
響は祈るように、その扉を見送った。
扉が閉まり、また静寂。桜咲の息を整える音が、壁越しでも聞こえる気がする。
やがて桜咲のユーフォが響く。
まっすぐ。強く。まるで、光だ。
桜咲の音は、感情を真正面からぶつけるような音だった。
(綺麗、というより......)
響は思う。
(必死なんだ)
悔しさ、焦り、恐怖。全部を音に叩きつけている。
最後の一音。またしても早く終わった。
泣きそうで、でも折れない強さを残して――桜咲の演奏は終わった。
扉が開く。
息を荒くしながら桜咲が出てくる。その表情は、少し泣きそうで、でも笑っていた。
「……全部出せた。あとは響君、任せたよ」
その言葉を置くように、すれ違っていく。
響は小さく頷いた。
指先が震える。
瞬崎の声。
「次、月本君」
廊下の空気が重く沈む。響はベルの縁を一度そっと撫で、扉に手をかける。
来島、永井、香久山。奏多。若田。桜咲。
みんなが積み上げてきた音が、耳の奥で響く。響は一歩を踏み出した。扉が静かに閉まり、スポットライトのような視線を浴びる。
音楽室の真ん中――
響のオーディションが始まる。
「一年、ユーフォニアムの月本響です。よろしくお願いします!」
本番前の音は、どんな感情も隠してくれない。
強がりも、不安も、闘う理由も――全部鳴ってしまう。
いよいよ、響の番だ。
次回、勝負のステージへ。
響の音は、どこへ向かって響くのか。
評価、感想是非お願いします。次回もお楽しみに!




