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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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23/42

23話 焦燥の隙間で

教室に響く音と呼吸。小さな迷いも、不安も、すべては今の一音に詰まっている。――そう、未来への一歩として。

でも、そんな迷い、不安もいずれ混乱を招く火種となってしまうのだろうか?

長崎の港。潮の匂いと煤けた木の香りが混ざり、湿った風が港町を包んでいた。


船の帆がゆらゆらと揺れ、商人たちが声高に呼び込みをする。小さな子どもたちが石を蹴って遊ぶ声も聞こえる。


龍馬(りょうま)は、手紙を置き、視線を遠くの海へ投げた。


「……まだ、何も変えられんのか」


独り言は誰にも届かない。だが、言葉にすることで、胸のもやもやが少しだけ整理される気がした。


港の雑踏の中、薩摩(さつま)藩士の一団が通りかかる。槍を握る手に力が入り、足取りも揃っている。


「おい、あの船、薩摩藩か?」


隣の町人が小声で囁く。


「そうだ、運び屋に荷を積むらしい」


子どもが声を潜め、木箱の間をすり抜けていく。龍馬は深く息を吐き、手紙に視線を戻した。


薩長(さっちょう)同盟……本当にうまくいくのか?...いや、俺が動かなきゃ、誰も動かん」


筆の先が震える。だが、震えるのは手だけではない。心も、揺れていた。


そして港の向こう、オランダ船の帆が光を反射し、潮風に揺れる。


「新しい時代が、来るのか……それとも、ただの夢か」


龍馬の独白は、港の喧騒にかき消される。


「龍馬殿!お急ぎください、会合の時間が!」


近江屋の同志・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が呼びかける。汗で額をぬらしながら、紙包みを手に駆け寄る。


「わかっている、中岡。だが、この国を変えるには、焦らず慎重でなければ」


龍馬は筆を置き、港を見渡す。遠くに揺れる船、波間に散る光、そして波打ち際で遊ぶ子どもたち──すべてが混乱と希望の入り混じった時代を映していた。


「……俺は、この国を変えられるのか」


拳を握りしめる。胸の奥に、恐怖と渇望が同時に押し寄せる。


「……でも行くしかない。何があろうと」


その目には、未来への渇望と、嵐のような不安が交錯していた。


港の風、波の揺れ、遠くの呼び声──すべてが龍馬の心の中でうずまく。


「俺は……俺は、必ずこの国を変えてみせる」


言葉は風に消え、港町のざわめきに紛れる。しかし、胸の奥で、熱い決意は確かに燃え続けていた。



「おーい、どうした?」


来島(らいとう)の声が響く。


(ひびき)は、譜面台の前で小さく頭を振る。


「……あ、なんでもない」


来島は少し首を傾げた。


「またブツブツ独り言か?変な癖だな」


「……いや、集中してただけ」


響は慌てて答え、マウスピースに息を通す。手元の譜面をちらりと確認する。


「そっか。まあ……その、相変わらず凄いな」


来島は照れくさそうに手を掻く。


「俺は全然ダメだな。響には追いつけない」


「……そんなことない」


響は静かに返す。言葉は短いが、来島の緊張を和らげるには十分だった。



教室の片隅。ファゴットを抱え、奏多(かなた)はひとりで息を調整していた。


「……ふぅ、やっぱりこのパッセージ難しいな」


譜面に目を落とす。指を動かしても、思った通りの音は出ない。


背後のドアが開く音に、奏多は思わず肩をすくめた。


「……あ、先輩」


入ってきたのは二年、ファゴットの守田木乃香(もりたののか)。軽やかな足取りで近づいてくる。


ファゴットを抱えた姿は自然で、落ち着いた空気を漂わせている。


「おつかれ。ずっと一人で練習?」


木乃香の声は明るく、でもどこか鋭さを含んでいた。


「はい……少し気合い入れたくて」


奏多は少し照れながら答える。


「ふーん……あのさ、聞いた? 今年のオーディション、結構厳しいらしいよ」


木乃香は譜面を軽く指で押さえながら、少し笑う。


「そうですか....」


奏多は眉を上げる。


「ユーフォのあの子……響くん、知ってる?」


木乃香の言葉に、奏多の手が少し止まる。


「……同じクラスなんで流石に知ってますよ」


「すごいんだってね。演奏も、雰囲気も……一緒にやると圧倒されるって評判だよ」


木乃香は笑みを浮かべ、奏多は深く息を吸い、指を軽く震わせる。


(……自分の音で負けたくない……)


「ま、焦らなくていいよ。最初はみんな同じだから」


木乃香の声は柔らかい。だけど、その言葉に込められた重みは、ちゃんと奏多の胸に届く。


「……はい。頑張ります」


奏多は小さく答え、もう一度ファゴットを構えた。


「ふふ、じゃあ一緒に練習しよっか」


木乃香は軽やかに譜面をセットする。二人は楽器を構え息を吹き込む。二つのファゴットの音がゆっくりと重なり、課題曲の序盤が静かに動き出す。


低音が床に響くように伸び、旋律が互いの息と絡み合う。


(……この部分、少し強めに入る方が曲が生きる)


奏多の心の中で確認しながら、指を確実に動かす。木乃香の音が柔らかく重なり、二人の音が徐々に一つの流れになる。


互いに視線を交わすことはない。ただ、呼吸のリズムで呼応する。旋律が跳ねるように軽やかになり、音の粒が教室中に散る。


二人のファゴットは互いを支え合い、旋律が教室いっぱいに広がる。


微かな乱れもなく、完璧とは言えないまでも、互いの呼吸がぴったり噛み合った瞬間だった。


演奏が終わると、室内は静寂に包まれる。奏多はゆっくりと息を整え、譜面を見つめながら小さく呟く。


「……やっぱり、一人よりずっとやりやすいですね」


木乃香は肩をすくめて微笑む。


「うん、少しずつ完成に近づけそうだね」


木乃香が軽く息をついた。


「ねえ、どうして東縁(とうえん)高校を選んだの?」


軽い質問のようでいて、どこか真剣な視線が奏多を捉える。


奏多は楽器を下ろし、少し考える。


「えっと……家からバスで行ける距離なんで」


木乃香は眉をひそめ、くすっと笑う。


「ふーん……単純だね。で、本当は?」


奏多は視線を少し落とす。しばらく沈黙したあと、小さな声で答えた。


「……自分が本当にやりたいことを見つけたいから……ですかね」


奏多の声は小さく、でも揺るがない。その言葉には、中学校から始めた音楽への想いが込められている。


中学に入ったとき、奏多はファゴットに出会った。最初は右も左もわからず、ただ吹くことに必死だった。授業の延長のような部活、先輩の指導、合奏の緊張……すべてが未経験の連続で、時には挫けそうになったこともあった。


それでも、一度だけあった演奏の瞬間――


譜面通りに音を重ねたとき、周囲の空気が変わった気がした。


「自分の音で、何かを動かせる……」


その感覚が、奏多の心に強く刻まれた。


「だから、単純な理由かもしれませんけど……バスで行ける距離の学校を選んだんです」


奏多は視線を譜面に落とす。


「でも本当にやりたいことを探すために、自分が吹きたい音を出せる場所を選びたかった。自分の意思で音楽を続けられる場所……それが東縁でした」


木乃香は黙って頷く。その瞳に、奏多の言葉以上に重みのある真剣さが映る。


「……なるほどね」


奏多は小さく息をつき、ファゴットを構え直す。空気は静かに満ち、彼の中の決意を受け止めてくれるかのようだった。



職員室の窓から差し込む光が、整頓された書類の上で淡く反射している。


瞬崎(しゅんざき)は譜面を広げ、真剣な眼差しで文字を追ったまま口を開く。


「オーディション、手加減はしません。全員、実力で評価します」


副顧問の瀬戸川(せとがわ)は淡々と頷く。


「ええ。三年生だからといって優遇することもありませんし、経験があるからといって安全圏には置きません」


瞬崎は譜面に視線を落としたまま続ける。


「選ばれるのは、最も音で示した者だけです。オーディションは評価ではなく、通過点です。甘えも、言い訳も許されません」


瀬戸川が書類をまとめながら付け加える。


「その通りです。生徒たちにとっても、自分の音を突き詰める良い機会になるでしょう」


瞬崎は立ち上がり、窓の外を見つめる。


「この夏、誰が本物か。誰が舞台に立つ資格を持つか……全て、音が答えます」


瀬戸川も立ち、静かに頷いた。


「覚悟を決めた者だけが前に進める。そういうことですね」


瞬崎の視線は、譜面の向こうにいる生徒たちへ向けられているかのようだった。


瀬戸川が静かに続ける。


「オーディション。それぞれのその時のベストを見極める。一回で全て見極められるものでしょうか?」


瞬崎の手が、机の上で止まった。目の前の譜面に視線を落としたまま、何かに気づいたように息を吸う。


「……その時のベスト…今の……!」


一瞬、室内の空気が変わった。瀬戸川は瞬崎の変化に

気づき、静かに見守る。


瞬崎の瞳は、譜面の向こうの生徒たちの顔を思い浮かべていた。


「全ては、その時の瞬間の音で決まる……過去の実績でも、未来の可能性でもない」


瀬戸川は微かに微笑み、瞬崎はゆっくりと拳を握った。


窓の外の蝉の声も、職員室の静寂に混ざる。決意が、二人の間で静かに交わされた瞬間だった。



教室の端、トロンボーンを構える東堂(とうどう)


楽譜の最初の一音が出ると、低く、深い響きが部屋を満たす。滑らかで正確な音程、音の立ち上がりの美しさ──ただ吹いているだけで空気の流れが変わるようだった。


複雑な装飾音も、驚くほど自然に溶け込み、旋律にしなやかな躍動感を与える。


(……ここで少しテンポを変えれば、曲がさらに立体的に聞こえる)


東堂は微かに息を整え、微妙なニュアンスを加えながら、旋律の一つ一つを丁寧に形作っていく。音量の強弱も指の速度も、全て彼の頭の中のイメージ通り。


一つのフレーズを終えると、音は残響とともにゆっくりと消え、教室には静寂が戻る。


「東堂君、もう吹けるんだ。凄いね。楽譜配られて間もないのに」


偶然通りかかった狩川(きりかわ)が声をかける。副部長として、部活全体の進捗も気になるのだろう。


東堂は肩越しにちらりと視線を送るだけで、そっけなく答える。


「普通だろ」


狩川は少し黙り込む。東堂の態度にはいつも通り慣れているはずなのに、今日はどこか、距離を感じる。やがて小さく息をつき、慎重に言葉を選ぶ。


「……まだ、響君のこと、引きずってるの?」


東堂の動きが一瞬止まる。音を出す手は止めない。だが、呼吸がわずかに乱れたのを狩川は見逃さなかった。


「……別に」


短く、そっけない返答。だが、言葉の裏に隠れる微妙な感情を狩川は理解している。


「ふうん……そう」


狩川はそう言い残しその場を立ち去った。


......東堂はしばらく下を向くと何か決断したように顔を上げた。そしてトロンボーンと楽譜を抱えて、その場を後にした。


少し遠くの、クラリネットパート。陽翔(はると)は少し肩をすくめながら譜面に向かっていた。


今日も、パートの先輩たちの理不尽な指摘が飛び交う。


「陽翔!その音、なんでこんなに遅れるの! 全然リズムに乗れてないじゃない!」


三年はは眉をひそめ、鋭い視線を投げつける。


「え……いや、先輩も途中で……」


陽翔が弁解しようとすると、その他の三年がすかさず口を挟む。


「何言ってるのよ!あんたのせいで曲が台無しになるのよ!いい加減にしてよね!」


静かだった二年まで加わり、女子の声が重なって降り注ぐ。


「全然息も合ってないし、指も遅い!私たちの邪魔するのやめてよ!」


「生意気な態度も直して!男だからって特別扱いされると思ったら大間違い!」


陽翔の胸は締め付けられる。確かに自分は男子で、人数的にも目立つ立場にいる。


でも、言い返したくても言えない雰囲気。周囲の女子たちは、全員が彼の動きをじっと見つめ、ほんの些細なミスも見逃さない。


しかし、自分のミスは見ようともしてない動き。


(……先輩たち、自分より全然音も悪いのに……)


心の中で呟いても、外には出せない。叱責は止まらない。


「ねぇ、もっとしっかり音出してよ!全然響いてないし!」


「あなたの音のせいで、全体が揺れてるのよ!」


「もう、なんでこんな簡単なところで間違えるのよ……男のくせに何やってるの?」


教室の空気は重く、息が詰まるようだった。陽翔は肩を落とし、譜面に視線を落とす。バスクラを支える手が震える。しかし、低音を支える意識は失わない。


(……俺がしっかり吹かないと、このパート、崩れる……てか、もう崩れてる...のか?)


小さな息遣いで音を整え、指を正確に動かす。先輩たちの罵声はまだ止まらない。けれど、陽翔の音は確実に教室全体を支えていた。


(……でも、俺がやるしかない……)


静かに自分を奮い立たせ、低音を響かせる。パートの中で理不尽に責められるドロドロの空気の中でも、陽翔は自分の音を信じ、演奏を続けた。



校内の廊下を、響はゆっくりと歩いていた。休憩の合間、頭の中は練習のこと、オーディションのこと、そして――いろんな音の余韻でいっぱいだった。


足音が響く木の床。遠くから部活の声や笑い声がかすかに聞こえる。響は深く息を吸い、肩の力を抜いた。


「――ふぅ……少し歩かないと、頭が疲れるな」


そんなとき、後ろから声がした。


「おい響!話がある」


振り返った先にいたのは、



........................................................

廊下に響く足音、頭の中を巡る練習の音。胸の奥には、まだ落ち着かない焦りと、不安が小さくうずまいている。

それでも、次に吹く音が未来を少しずつ形作る――そう信じながら、彼らは歩みを止めない。

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