23話 焦燥の隙間で
教室に響く音と呼吸。小さな迷いも、不安も、すべては今の一音に詰まっている。――そう、未来への一歩として。
でも、そんな迷い、不安もいずれ混乱を招く火種となってしまうのだろうか?
長崎の港。潮の匂いと煤けた木の香りが混ざり、湿った風が港町を包んでいた。
船の帆がゆらゆらと揺れ、商人たちが声高に呼び込みをする。小さな子どもたちが石を蹴って遊ぶ声も聞こえる。
龍馬は、手紙を置き、視線を遠くの海へ投げた。
「……まだ、何も変えられんのか」
独り言は誰にも届かない。だが、言葉にすることで、胸のもやもやが少しだけ整理される気がした。
港の雑踏の中、薩摩藩士の一団が通りかかる。槍を握る手に力が入り、足取りも揃っている。
「おい、あの船、薩摩藩か?」
隣の町人が小声で囁く。
「そうだ、運び屋に荷を積むらしい」
子どもが声を潜め、木箱の間をすり抜けていく。龍馬は深く息を吐き、手紙に視線を戻した。
「薩長同盟……本当にうまくいくのか?...いや、俺が動かなきゃ、誰も動かん」
筆の先が震える。だが、震えるのは手だけではない。心も、揺れていた。
そして港の向こう、オランダ船の帆が光を反射し、潮風に揺れる。
「新しい時代が、来るのか……それとも、ただの夢か」
龍馬の独白は、港の喧騒にかき消される。
「龍馬殿!お急ぎください、会合の時間が!」
近江屋の同志・中岡慎太郎が呼びかける。汗で額をぬらしながら、紙包みを手に駆け寄る。
「わかっている、中岡。だが、この国を変えるには、焦らず慎重でなければ」
龍馬は筆を置き、港を見渡す。遠くに揺れる船、波間に散る光、そして波打ち際で遊ぶ子どもたち──すべてが混乱と希望の入り混じった時代を映していた。
「……俺は、この国を変えられるのか」
拳を握りしめる。胸の奥に、恐怖と渇望が同時に押し寄せる。
「……でも行くしかない。何があろうと」
その目には、未来への渇望と、嵐のような不安が交錯していた。
港の風、波の揺れ、遠くの呼び声──すべてが龍馬の心の中でうずまく。
「俺は……俺は、必ずこの国を変えてみせる」
言葉は風に消え、港町のざわめきに紛れる。しかし、胸の奥で、熱い決意は確かに燃え続けていた。
「おーい、どうした?」
来島の声が響く。
響は、譜面台の前で小さく頭を振る。
「……あ、なんでもない」
来島は少し首を傾げた。
「またブツブツ独り言か?変な癖だな」
「……いや、集中してただけ」
響は慌てて答え、マウスピースに息を通す。手元の譜面をちらりと確認する。
「そっか。まあ……その、相変わらず凄いな」
来島は照れくさそうに手を掻く。
「俺は全然ダメだな。響には追いつけない」
「……そんなことない」
響は静かに返す。言葉は短いが、来島の緊張を和らげるには十分だった。
教室の片隅。ファゴットを抱え、奏多はひとりで息を調整していた。
「……ふぅ、やっぱりこのパッセージ難しいな」
譜面に目を落とす。指を動かしても、思った通りの音は出ない。
背後のドアが開く音に、奏多は思わず肩をすくめた。
「……あ、先輩」
入ってきたのは二年、ファゴットの守田木乃香。軽やかな足取りで近づいてくる。
ファゴットを抱えた姿は自然で、落ち着いた空気を漂わせている。
「おつかれ。ずっと一人で練習?」
木乃香の声は明るく、でもどこか鋭さを含んでいた。
「はい……少し気合い入れたくて」
奏多は少し照れながら答える。
「ふーん……あのさ、聞いた? 今年のオーディション、結構厳しいらしいよ」
木乃香は譜面を軽く指で押さえながら、少し笑う。
「そうですか....」
奏多は眉を上げる。
「ユーフォのあの子……響くん、知ってる?」
木乃香の言葉に、奏多の手が少し止まる。
「……同じクラスなんで流石に知ってますよ」
「すごいんだってね。演奏も、雰囲気も……一緒にやると圧倒されるって評判だよ」
木乃香は笑みを浮かべ、奏多は深く息を吸い、指を軽く震わせる。
(……自分の音で負けたくない……)
「ま、焦らなくていいよ。最初はみんな同じだから」
木乃香の声は柔らかい。だけど、その言葉に込められた重みは、ちゃんと奏多の胸に届く。
「……はい。頑張ります」
奏多は小さく答え、もう一度ファゴットを構えた。
「ふふ、じゃあ一緒に練習しよっか」
木乃香は軽やかに譜面をセットする。二人は楽器を構え息を吹き込む。二つのファゴットの音がゆっくりと重なり、課題曲の序盤が静かに動き出す。
低音が床に響くように伸び、旋律が互いの息と絡み合う。
(……この部分、少し強めに入る方が曲が生きる)
奏多の心の中で確認しながら、指を確実に動かす。木乃香の音が柔らかく重なり、二人の音が徐々に一つの流れになる。
互いに視線を交わすことはない。ただ、呼吸のリズムで呼応する。旋律が跳ねるように軽やかになり、音の粒が教室中に散る。
二人のファゴットは互いを支え合い、旋律が教室いっぱいに広がる。
微かな乱れもなく、完璧とは言えないまでも、互いの呼吸がぴったり噛み合った瞬間だった。
演奏が終わると、室内は静寂に包まれる。奏多はゆっくりと息を整え、譜面を見つめながら小さく呟く。
「……やっぱり、一人よりずっとやりやすいですね」
木乃香は肩をすくめて微笑む。
「うん、少しずつ完成に近づけそうだね」
木乃香が軽く息をついた。
「ねえ、どうして東縁高校を選んだの?」
軽い質問のようでいて、どこか真剣な視線が奏多を捉える。
奏多は楽器を下ろし、少し考える。
「えっと……家からバスで行ける距離なんで」
木乃香は眉をひそめ、くすっと笑う。
「ふーん……単純だね。で、本当は?」
奏多は視線を少し落とす。しばらく沈黙したあと、小さな声で答えた。
「……自分が本当にやりたいことを見つけたいから……ですかね」
奏多の声は小さく、でも揺るがない。その言葉には、中学校から始めた音楽への想いが込められている。
中学に入ったとき、奏多はファゴットに出会った。最初は右も左もわからず、ただ吹くことに必死だった。授業の延長のような部活、先輩の指導、合奏の緊張……すべてが未経験の連続で、時には挫けそうになったこともあった。
それでも、一度だけあった演奏の瞬間――
譜面通りに音を重ねたとき、周囲の空気が変わった気がした。
「自分の音で、何かを動かせる……」
その感覚が、奏多の心に強く刻まれた。
「だから、単純な理由かもしれませんけど……バスで行ける距離の学校を選んだんです」
奏多は視線を譜面に落とす。
「でも本当にやりたいことを探すために、自分が吹きたい音を出せる場所を選びたかった。自分の意思で音楽を続けられる場所……それが東縁でした」
木乃香は黙って頷く。その瞳に、奏多の言葉以上に重みのある真剣さが映る。
「……なるほどね」
奏多は小さく息をつき、ファゴットを構え直す。空気は静かに満ち、彼の中の決意を受け止めてくれるかのようだった。
職員室の窓から差し込む光が、整頓された書類の上で淡く反射している。
瞬崎は譜面を広げ、真剣な眼差しで文字を追ったまま口を開く。
「オーディション、手加減はしません。全員、実力で評価します」
副顧問の瀬戸川は淡々と頷く。
「ええ。三年生だからといって優遇することもありませんし、経験があるからといって安全圏には置きません」
瞬崎は譜面に視線を落としたまま続ける。
「選ばれるのは、最も音で示した者だけです。オーディションは評価ではなく、通過点です。甘えも、言い訳も許されません」
瀬戸川が書類をまとめながら付け加える。
「その通りです。生徒たちにとっても、自分の音を突き詰める良い機会になるでしょう」
瞬崎は立ち上がり、窓の外を見つめる。
「この夏、誰が本物か。誰が舞台に立つ資格を持つか……全て、音が答えます」
瀬戸川も立ち、静かに頷いた。
「覚悟を決めた者だけが前に進める。そういうことですね」
瞬崎の視線は、譜面の向こうにいる生徒たちへ向けられているかのようだった。
瀬戸川が静かに続ける。
「オーディション。それぞれのその時のベストを見極める。一回で全て見極められるものでしょうか?」
瞬崎の手が、机の上で止まった。目の前の譜面に視線を落としたまま、何かに気づいたように息を吸う。
「……その時のベスト…今の……!」
一瞬、室内の空気が変わった。瀬戸川は瞬崎の変化に
気づき、静かに見守る。
瞬崎の瞳は、譜面の向こうの生徒たちの顔を思い浮かべていた。
「全ては、その時の瞬間の音で決まる……過去の実績でも、未来の可能性でもない」
瀬戸川は微かに微笑み、瞬崎はゆっくりと拳を握った。
窓の外の蝉の声も、職員室の静寂に混ざる。決意が、二人の間で静かに交わされた瞬間だった。
教室の端、トロンボーンを構える東堂。
楽譜の最初の一音が出ると、低く、深い響きが部屋を満たす。滑らかで正確な音程、音の立ち上がりの美しさ──ただ吹いているだけで空気の流れが変わるようだった。
複雑な装飾音も、驚くほど自然に溶け込み、旋律にしなやかな躍動感を与える。
(……ここで少しテンポを変えれば、曲がさらに立体的に聞こえる)
東堂は微かに息を整え、微妙なニュアンスを加えながら、旋律の一つ一つを丁寧に形作っていく。音量の強弱も指の速度も、全て彼の頭の中のイメージ通り。
一つのフレーズを終えると、音は残響とともにゆっくりと消え、教室には静寂が戻る。
「東堂君、もう吹けるんだ。凄いね。楽譜配られて間もないのに」
偶然通りかかった狩川が声をかける。副部長として、部活全体の進捗も気になるのだろう。
東堂は肩越しにちらりと視線を送るだけで、そっけなく答える。
「普通だろ」
狩川は少し黙り込む。東堂の態度にはいつも通り慣れているはずなのに、今日はどこか、距離を感じる。やがて小さく息をつき、慎重に言葉を選ぶ。
「……まだ、響君のこと、引きずってるの?」
東堂の動きが一瞬止まる。音を出す手は止めない。だが、呼吸がわずかに乱れたのを狩川は見逃さなかった。
「……別に」
短く、そっけない返答。だが、言葉の裏に隠れる微妙な感情を狩川は理解している。
「ふうん……そう」
狩川はそう言い残しその場を立ち去った。
......東堂はしばらく下を向くと何か決断したように顔を上げた。そしてトロンボーンと楽譜を抱えて、その場を後にした。
少し遠くの、クラリネットパート。陽翔は少し肩をすくめながら譜面に向かっていた。
今日も、パートの先輩たちの理不尽な指摘が飛び交う。
「陽翔!その音、なんでこんなに遅れるの! 全然リズムに乗れてないじゃない!」
三年はは眉をひそめ、鋭い視線を投げつける。
「え……いや、先輩も途中で……」
陽翔が弁解しようとすると、その他の三年がすかさず口を挟む。
「何言ってるのよ!あんたのせいで曲が台無しになるのよ!いい加減にしてよね!」
静かだった二年まで加わり、女子の声が重なって降り注ぐ。
「全然息も合ってないし、指も遅い!私たちの邪魔するのやめてよ!」
「生意気な態度も直して!男だからって特別扱いされると思ったら大間違い!」
陽翔の胸は締め付けられる。確かに自分は男子で、人数的にも目立つ立場にいる。
でも、言い返したくても言えない雰囲気。周囲の女子たちは、全員が彼の動きをじっと見つめ、ほんの些細なミスも見逃さない。
しかし、自分のミスは見ようともしてない動き。
(……先輩たち、自分より全然音も悪いのに……)
心の中で呟いても、外には出せない。叱責は止まらない。
「ねぇ、もっとしっかり音出してよ!全然響いてないし!」
「あなたの音のせいで、全体が揺れてるのよ!」
「もう、なんでこんな簡単なところで間違えるのよ……男のくせに何やってるの?」
教室の空気は重く、息が詰まるようだった。陽翔は肩を落とし、譜面に視線を落とす。バスクラを支える手が震える。しかし、低音を支える意識は失わない。
(……俺がしっかり吹かないと、このパート、崩れる……てか、もう崩れてる...のか?)
小さな息遣いで音を整え、指を正確に動かす。先輩たちの罵声はまだ止まらない。けれど、陽翔の音は確実に教室全体を支えていた。
(……でも、俺がやるしかない……)
静かに自分を奮い立たせ、低音を響かせる。パートの中で理不尽に責められるドロドロの空気の中でも、陽翔は自分の音を信じ、演奏を続けた。
校内の廊下を、響はゆっくりと歩いていた。休憩の合間、頭の中は練習のこと、オーディションのこと、そして――いろんな音の余韻でいっぱいだった。
足音が響く木の床。遠くから部活の声や笑い声がかすかに聞こえる。響は深く息を吸い、肩の力を抜いた。
「――ふぅ……少し歩かないと、頭が疲れるな」
そんなとき、後ろから声がした。
「おい響!話がある」
振り返った先にいたのは、
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廊下に響く足音、頭の中を巡る練習の音。胸の奥には、まだ落ち着かない焦りと、不安が小さくうずまいている。
それでも、次に吹く音が未来を少しずつ形作る――そう信じながら、彼らは歩みを止めない。




