22話 目障りな才能
夏は、遊んでばかりじゃいられない。
楽しかった日々のすぐ隣には、勝負の季節が待っている。
仲間と笑った声も、キャンプの夜空に響いた音も、
全部ぜんぶ、ここへ繋がっていた。
さあ、いよいよ――
本気の夏が始まる。
──キャンプ最終日の朝。
吐く息はうっすら白く、焚き火の灰が風に揺れる。
「おはよー……さむっ」
陽翔が肩をすくめながらテントから出てくる。
すでに響は起きていて、持ってきたクッカーで湯を沸かしていた。
湯気が静かに立ち上り、空気に混ざっていく。
「響、早いな」
「目が覚めちゃって」
言葉は短いけれど、その声はどこか柔らかい。
「昨日あんだけ騒いでたのに、元気だな~」
香久山が苦笑すると、
「魚は逃さないのが、俺の信条なのさ」
来島の冗談めいた返しに、思わず小さな笑いが起きた。
最終日でも、空気は変わらずあたたかい。
片付けの指示は今伊がまとめて出している。焚き火跡、テント、ゴミの分別……
手を動かしながら、同時に心の整理も進んでいくようだった。
(──もうすぐ帰るんだ)
コンクールに向けての練習が待っている。それは不安で、でも少し楽しみで。
響は、片付け途中でふと空を見上げた。濃い青が、日の光に少しずつ薄まっていく。
キャンプ場で見た夜の星空は、跡形もなく飲み込まれた。
(音も、空と同じなのかな)
奏でた瞬間に消えていく。でも──消えたように見えても、
心のどこかで、ずっと響いてる。そんな気がして、響は小さく息を吐いた。
周りでは賑やかな声。鍋を洗う水の音、テントが畳まれる布の音。その全部が、音楽の一部のように感じられる。
「よし、帰るか!」
しばらくして掛け声がかかる。
鳴らせなかった音も、まだ伝えられていない想いも、それぞれの場所へ帰っていく。
たった数日。それでも、確かに未来へ繋がる時間だった。
電車の揺れが、一定のリズムで足元を叩く。窓の外では、郊外の景色が夏の色を濃くしていく。
奏多は、イヤホンのコードを軽く指で押さえた。
スマホから流れているのは──今年の課題曲。
金管の力強さと、木管の細やかなラインがまるでせめぎ合うように絡み合っていく。
(……やっぱり難しい)
テンポの細かな揺れ、一瞬で空気を変えるハーモニー。
合格ラインに立つだけでも、きっと苦戦する。
車内アナウンスが流れる。
祖父母の家からの帰り、部活再開までの一人時間。
(絶対に負けられない)
視線を落とし、膝に置いたファイルに触れる。
その感触は、期待と焦りを同時に握りしめてくる。
月本響。
奏多の中でずっとどこか引っかかっている存在。才能でも、努力でもなく──音そのものが。
「追いつくんじゃない。追い越すんだ」
小さく呟いた声は、電車の騒音に紛れて消えた。
窓に映る自分の目が、ほんの少し鋭さを帯びていることに気づく。
(帰ったらすぐ練習だ)
イヤホンの音量をひとつ上げた。曲のクライマックスが迫る。
金管が咆哮するように鳴り響き、
夏が、動き出す。
「ただいま」
玄関の扉を閉めると、日常の空気がすっと身体を包んだ。
「おかえり、響」
キッチンから母の声。テーブルには夕食の支度。
「キャンプ、楽しかった?」
「うん。いい時間になった」
父は新聞を畳みながら、
「明日から本番モードだな」ただそれだけ。だけど、それで十分。
響はバックを置き、ソファに腰を下ろす。テレビをつけると、画面いっぱいに合奏風景。
『頑張れ!ジャパンズブラス♫』
「全国を目指して!長野県豊川高校」
真剣な眼差しで楽器を構える部員たち。響は背筋を伸ばし、画面を静かに見据えた。
「夏は一度きり。音で勝ち取れ、夢の舞台を」
ナレーションが熱を添える。
しかし響の表情は揺れない。
(この学校も、コンクールへ向かっている)
そこには畏れも焦りもない。
ただ、同じ目標へ向かう者としての視線だけ。
顧問の声が響く。
「仲間を支える音を出せ。その一音が、未来を変える」
響はそっと視線を落とした。
(支える音。……自分なら出せる)
静かに、確信だけが胸に置かれていく。
(音で勝つ)
画面の中の強敵たちを、まっすぐに捉えながら。
揺るがない瞳で。
開校記念週間の休みが明け、音楽室には部員たちの声が戻ってきた。
譜面台の高さを調整する金属音、リードの湿る小さな音──
どれも久しぶりで、ちょっとだけ懐かしい。
「いよいよだね……」
若田の呟きに、空気がすっと張りつめる。
その静寂を破るように、扉が開いた。
瞬崎が、ゆっくりと前へ歩み出る。
眼鏡の奥の視線が、一人ひとりを確かめるように走った。
「この一週間、しっかり休めましたか?」
優しい言葉。だけど、それが嵐の前触れだと部員たちは知っている。
「今日から、コンクールに向けた練習を本格的に始めます」
部屋の空気は、瞬時に変わった。
瞬崎はホワイトボードにマーカーを走らせた。その音さえ、全員の鼓動に重なって聞こえる。
「まず、今年の──コンクール曲を発表します」
ざわつきかけた空気が、再び静まる。黒い文字が、順に並べられていく。
課題曲 I 勇者のマズルカ
自由曲 黎明〜到来の夜明け〜
音楽室がすっと静かになった。
「え、マズルカって……なんだっけ?」
小さな声が前方から漏れる。
「ダンスの種類? マーチじゃないのか……?」
みんな、少し首を傾げている。詳しい人なんてほとんどいない。
自由曲のタイトルを見ても──
「黎明……よみ……え? なんかカッコいいけど……」
「夜明け、って意味らしいよ」
「ふーん……全然イメージ湧かないな」
まだ曲の難しさも背景も、何も知らない。
瞬崎はみんなの顔を見渡し、穏やかに頷いた。
「詳しいことは、これから知っていけばいいです。大切なのは──この曲を“自分たちの音”にしていくこと」
「……はい!」
少しバラついた返事。だけど、確かに前を向いていた。
「そして……もう一つ」
譜面台を軽く叩く音が、やけに大きく響いた。
「今年は──オーディションを行います」
一瞬、誰かが息を呑む音。
「私、そして瀬戸川先生が一人ずつ演奏を聞いて、選抜します」
クラスターのようにざわめきが広がる。
「まじかよ……」
「初心者組、やば……」
「ソロどうなるの……?」
今伊は表情を変えず、桜咲はそっと唇を噛んだ。
瞬崎の視線が全員を横切る。
「コンクールは“選ばれた者”がステージに立つ場所です。どうか、その覚悟で臨んでください」
その言葉は、教師としての優しさを捨てた宣戦布告だった。
瞬崎の口元が、ゆっくりと笑みに歪む。けれどその笑顔は、誰も安心させない。
「もちろん──三年生が一番上手だとは思っています」
柔らかいはずの声に、薄氷のような冷たさが潜む。
「まさか大した努力もせずに、コンクールに出たいなんて思ってる……
そんな愚か者はいませんよね?」
音楽室の空気が、ぞくりと震えた。冗談のように聞こえる。だけど、笑える者は誰一人いない。
「三年生だろうと、一年生だろうと──音で証明してください」
その笑顔は、挑発にも宣告にも見えた。視線がぶつかるたびに、「逃げるな」と突きつけてくるようだった。
重く沈む空気。
でもどこか、燃え上がる音がまだ小さく灯っていた。
響だけが、ゆっくりと息を吐きながら思う。
(なら──勝てばいい。それだけだ)
その瞳は揺れず、迷わず、一点を見据えていた。
旧い机が並ぶ教室の中央に、バスパートのメンバーが集まっていた。
CDプレイヤーに差し込まれた一枚のディスク。スイッチが押されると、静寂がすっと音に溶けていく。
「これが……今年の自由曲、黎明だっけ?」
若田が呟いた声に、誰も応じず耳を澄ませていた。
最初は低く、地面を這うような音。やがて遠くで夜がほどけていくように、息を潜めた金管が重なっていく。
奏多は腕を組み、音の変化を追いながら語り始めた。
「1989年、能世林作曲の作品。幕末、坂本龍馬の一生をテーマにしています」
歴史の幕が開くみたいに、木管が一筋の光を描く。
「この序盤は“混迷”。幕末の不安定な時代ってとこですね重い低音は……きっと、この国の行き先の見えなさを表してるんだと思います」
来島が小さく頷いた。
「そこから、“黎明”。龍馬が立ち上がって、新しい国を夢見る……そんな光が差してくる」
打楽器が鋭く割り込み、音が一気に走り出す。
「ここ、多分『海援隊』の場面だな。荒波を越えて未来を掴もうとする、あの推進力だ」
「すご……めっちゃカッコよくない?」
桜咲が無邪気に息を漏らす。香久山は腕組みをしながら、眉間に皺を寄せた。
「でもさ……難しいな」
「はい、普通にヤバいです」
奏多の即答に、少し笑いが漏れる。
しかし響だけは、表情ひとつ動かさず音を浴びていた。
低音が鼓動のように響き続ける。その中でふっと訪れる静けさ——龍馬の静かなる決意の場面なのか?
やがて曲は後半へ。
高らかに夜明けが訪れるように、金管が舞い上がる。
「最後は“到来の夜明け”。
新時代の光……龍馬の願いが、みんなに受け継がれていく感じ」
曲が結びに差し掛かると、教室の空気がふっと緩む。
再生ボタンが止まり、静寂が戻った。
「——瞬崎先生容赦ないな」
来島のひと言が、現実を改めて突きつける。
誰も軽口を叩かなかった。
ただ、小さな興奮と重たい緊張が、確かに胸に残った。
響は、そっと呼吸を整える。
(この曲——まだ、鳴らせていない音がある)
遠く向こう側にあるはずの夜明けを、その瞳はすでに見据えていた。
香久山が紙を一枚取り出す。
「あと、これがパートごとのオーディション課題だ」
その紙にはバスパートオーディションの課題や小節番号が細かく記されている。
ユーフォニアム
・課題曲 I「勇者のマズルカ」:18〜42小節
・自由曲「黎明〜到来の夜明け〜」:中間部ソロ前〜ソロ終わり
チューバ
・課題曲 I:基礎支えパート 25〜60小節
・自由曲「黎明」:冒頭〜32小節
コントラバス
・課題曲 I:低音リズム部 12〜36小節
・自由曲「黎明」:後半転調部〜フィナーレ
「……両方かよ」
来島が、思わず小さくぼやく。
「簡単になんか勝ち上がらせてくれないってことだね」
若田が肩をすくめながらも、どこか引き締まった目。
香久山は、全員をゆっくり見渡した。
「今回の選抜は、本気だ。三年だから、経験があるから——なんて言い訳は通らない。実力だけがすべてだ」
茅野は唇を噛み、彩花は控えめに拳を握る。
一年たちも、緊張と闘志の入り交じった表情で譜面を見つめていた。
すると響は迷いなくユーフォケースに手を伸ばした。
「……今、吹くの?」
今伊が驚いたように目を丸くする。
「確認は大事なので」
響は淡々と答え、素早くマウスピースをセットする。
息を吸う。
それだけで、空気が変わった。
次の瞬間——
課題曲「勇者のマズルカ」の指定区間が、まるで音源のように正確に、しかも強弱のニュアンスまで添えられて鳴り響く。
テンポのわずかな揺れも、アクセントの芯の角度も、
全部“わかっている”音。
桜咲は固まる。
若田は、腕を組んだまま眉を上げる。
(譜面、今見ただけなのに……?)
「……反則だろ、マジで」
来島が呟くと、香久山が静かに言った。
「反則じゃない。実力だ」
吹き終えた響は、ほんの少し首を傾げる。
「ここ、アクセント強めのほうがいいですか?」
当たり前のように周囲へ問いかける。その自然体に、背筋が寒くなるほどの差を感じた。
バスパート練習室から少し離れた廊下。
東堂は、壁にもたれながら静かに耳を澄ませていた。
(……また完璧かよ)
響の演奏が終わると同時に、胸の奥に渦巻くざらついた感情が、ぐっと盛り上がる。
——焦り。
——悔しさ。
——嫉妬
そして、どうしようもない苛立ち。譜面台の脚が、かすかに音を立てて揺れる。東堂の靴が、ほんの少し触れただけ。
誰にも気づかれないような小さな仕草。でも、その目は笑っていなかった。
「……やめてくれよ」
掠れた声が漏れる。
「響。お前は——いるだけで不快だ」
唇が苦く歪む。
「それ以上、上に行こうとするな。……本当に、目障りなんだよ」
視線の奥底には、嫉妬と劣等感が絡み合った黒い炎のようなものが揺れていた。
次の瞬間、東堂は顔を伏せたまま静かに背を向ける。
響がまだ知らない“もう一つの夏”が、ゆっくりと幕を開けようとしていた。
キャンプで深まった絆。でも、その絆だけじゃ勝てない。オーディションが始まる。実力で、未来を掴まなくちゃいけない。少しずつ見えてくる、メンバーそれぞれの想いと温度差。
そして、響が立つ場所は……?
次回、コンクールへの道が加速していきます。
どうぞお楽しみに!
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