21話 音の向かう先
音を奏でる理由は、いつも同じ場所にあると思っていた。だけど、仲間と過ごす時間が増えるたびに、
たった一つの答えが、少しずつ形を変えていく。
自然がくれる静けさは、心を映す鏡のようだ。
見たくなかった気持ちまで――そっと浮かび上がらせる。
「ちょっと、トイレ行ってくる。」
焚き火はまだ小さく赤い息を残していて、テントのあたりには仲間たちの寝息が静かに漂っていた。
来島は毛布にくるまったまま軽く手を振る。
「気をつけろよ」
でも僕の足は、トイレとは違う方向へ向いていた。
(――聞こえたんだ。あれは、ホルンの音)
森の奥から、朝の冷たい空気を震わせるように。優しく、そして迷いのない音色。
枯れ枝を踏まないよう、そっと足を運ぶ。薄く差し込む朝日が木々の隙間で揺れ、鳥の声と水音が交じりあっている。
やがて視界が開けた。
そこには、切り立った崖が天へ向かってそびえ、その中央から滝が白く流れ落ちていた。水しぶきが細かな霧になって頬に触れ、肌がひんやりする。
足元の草むらでは、虫たちが忙しなく動き回り、自然そのものが目を覚まし始めていた。
その真ん中で――
柊木真尋は、一人ホルンを吹いていた。
背中越しに見える肩の揺れ。滝の音に負けない存在感を放つ、美しい音。
(……どうしてここに?)
思わず息を呑む。
僕は足を止め、ただ、彼の紡ぐ音に耳を傾けた。朝の空気は清らかで、少しだけ切なくて。
それでも確かな何かを呼び起こそうとする音だった。
「......やっぱり来ると思ってたよ、響」
振り返った柊木は、さっきまで演奏していた真剣な顔が嘘みたいに、子どもっぽく笑った。
「……気づいてたの?」
「そりゃそう。響って足音軽くないんだよね〜」
からかうように言われて、思わずむっとする。
「朝からこんなところで吹いてたの?」
「うん。キャンプってさ、なんか特別な音が吹けそうな気がして」
柊木はホルンのベルを軽く叩く。
「あの音……すごかった」
気づくと素直な言葉が口からこぼれていた。
「すごかった? 何が?」
「迷ってなくて。まっすぐに届く感じ」
柊木は少し驚いた顔をして、それから照れ隠しのように視線をそらした。
「……ありがとう。響に言われると、なんか嬉しい」
滝と風の音が、そっと会話を包む。
「響は、コンクールどう思ってる?」
「どう……って?」
「だってさ、響は今年からユーフォ始めたわけじゃん。それなのに全国とか、想像つかないでしょ」
「……確かに」
まだ分からないことばかりだ。
だけど。
「でも僕、もっと上手くなりたい。みんなと一緒に音を出して、もっと先へ行きたい」
柊木は一瞬だけ目を大きくして、
すぐにいつもの笑顔に戻った。
「じゃあ決まりだね」
そう言って、人差し指を響の眉間につんと当てた。
「かっこつけるのは、ちゃんと吹けるようになってから!」
響は困惑したように口を開く。
「でも、響なら絶対いける。だって、音がさ――」
柊木は少しだけ、嫉妬にも似た熱を瞳に宿した。
「ときどき……ずるいくらい綺麗だから」
静かに、胸が跳ねた。
「ねぇ、もう一度聞かせて」
柊木はニヤリと笑う。
「知ってた」
柊木はホルンを唇にあて、静かに音を紡ぎ始める。
――ロンドンデリーの歌
森に溶け込むような第一音。滝の水音や鳥のさえずりと重なり、空気が微かに震える。
息遣い、指の動き、音色の細やかな変化がすべて完璧に調和し、森全体がその演奏に呼吸を合わせるかのようだった。
高音は木漏れ日のように輝き、低音は大地の振動と重なる。音の強弱は自然の起伏のように滑らかで、微細なニュアンスまで計算されている。音の波が滝の霧や風に混ざり、森の隅々まで浸透していく。
遠く、テントの中にいる来島や陽翔、香久山にも、音は確かに届いていた。彼らは息を呑み、ただ耳を澄ます。
響もまた、音に身を任せ、無言で聴き入る。胸の奥で波紋のように感じる震え。口には出さず、思いも言葉にはしない。ただ、音のひとつひとつを心に刻むだけ。
旋律は滝の轟音と絡み合い、空間全体を包み込む。柊木の指先や息の微細な操作が、森のあらゆる音を取り込み、完全にひとつの世界を作り上げている。
やがて最高潮。柊木は息を微かに止め、空気の密度を震わせる一音を放つ。森全体に余韻が残り、風も鳥も葉も、音の波の中で静かに揺れる。
響は静かに呼吸を整え、音の余韻に身を任せる。胸の奥に、揺るがぬ何かが残った。
しばらく静かに余韻に耳を澄ませた後、響のスマートフォンが震えた。今伊先輩からのLINEだ。
『朝食作ったから戻ってきて』
響は小さく頷き、視線を柊木に向ける。
「そろそろ戻ろうか」
柊木はくすりと笑い、ホルンを肩にかけながら立ち上がった。
森を抜け、踏みしめる足音と葉擦れの音が朝の光に混ざる。滝の音も少しずつ遠ざかり、焚き火の香りが漂い始める。
テントに戻ると、来島や陽翔、香久山の姿が見えた。今伊は手際よく朝食の準備をしており、静かに声をかける。
「おかえり」
朝の光が柔らかく河川敷を照らしている。水面に反射する光が、波紋となって穏やかに揺れる。風が草を揺らし、鳥の声が静かに混ざる。
トロンボーンを抱えた東堂は、川沿いの土手に一人座り、唇をマウスピースにあてて静かに音を紡いでいた。
音は川面に反射し、岸辺の小石や草木を微かに震わせる。曲はゆったりとしているのに、どこか耳を引きつける力がある。空気の密度を操るような深みのある響きだ。
偶然、久瀬が通りかかる。三年同士で互いに顔は知っているが、普段はあまり話さない関係。久瀬は軽く足を止め、土手の陰からその演奏に耳を傾ける。
「……ほんと相変わらずだね、あんたは」
久瀬の声に、東堂は唇を離す。
「久瀬か。こんな朝早くにどうした?」
久瀬は少し笑みを浮かべ、川風に揺れる草の間から演奏を聞く。
「たまたま通りかかっただけ。でも、あんたの音、やっぱりすごいな……」
「うっせぇよ、どうせお前も響の音が一番なんだろ?」
東堂は苛立ちにも似た音でトロンボーンを吹く。荒々しく、汚い音。
久瀬は無言でその音を受け止め、息を整える。
「確かに響君の音はすごい。私だってわかってる。みんな響君の音を羨ましがってる。...でも」
久瀬は少し頬を赤くしながら口を開いた。
「……その音、すっごく好き!」
「......は?」
久瀬は我に返り顔を覆い隠しながら走り去る。
「べ、別に変な意味じゃないけど!その音が、一番好きなの!」
東堂は少し困惑しながらもすぐに視線を戻し吹き始めた。
久瀬はしばらく走ると、息を切らしながら心のなかで呟く。
(あんたの音が、一番人間味があるの)
川面がまぶしく光り、冷たい水が足首をくすぐる。4人は裸足になって並び、釣竿を握っていた。
「いや〜キャンプって最高だよなぁ!」
来島は竿を豪快に振り上げ、青空を仰ぐ。
「釣る前に騒いだら逃げるでしょ、魚」
柊木は冷静にツッコミを入れながら糸を垂らす。陽翔は水しぶきが上がらないよう慎重に場所を定め、響は慣れない手つきで竿を握っていた。
「響、それ逆。そうじゃなくてほら」
来島が後ろから手を添えて角度を直す。
「……ありがとう」
「どういたしまして。初心者は僕が守るから」
「守るってなんだよ」
陽翔が笑いながら言う。
「どうせマウント取りたいだけっしょ」
柊木が呆れ顔。
しばらくすると、風が草を揺らし、水音だけが響く静かな時間が流れた。
「こうしてるとさ、全部忘れられるな」
来島がぽつりと呟く。
「え?」
響が聞き返す。
「部活とか、パートのこととか…難しいことばっか考えてたから」
陽翔も竿を握ったまま小さくうなずく。
「でも行きたいよね。全国」
「もちろん」
柊木が強い声で言った。
「全国に行った景色、見たい。東縁って名前を、全部の会場に響かせたい」
来島が響の背中を軽く叩く。
「響の音もさ、もっと遠くまで届かせようぜ!」
ほんの少し胸が熱くなる。響も強くうなずいた。
「うん。僕――みんなで一緒に行きたい」
自然と4人に笑顔が広がる。
その時。
「……ん? お、おい響」
陽翔が響の竿を指差す。
「え? あっ――!」
竿先が強く引かれ、水しぶきが跳ね上がった。
「ちょっ……これ、どうすれば!?」
「巻け巻け巻けッ!!」
来島の叫びが川に響く。
響は慌ててリールを巻き始め――水面を割って、ぴちぴち跳ねる影が飛び出した。
「で、でかっ!!」
歓声が上がる。
「料理も釣りもってお前本当に何でもできるな!」
風が吹き抜け、笑い声が広がった。
焚き火のそばに戻ると、今伊が腕まくりをして待っていた。香久山は焚き火の準備をしている。
「お、ずいぶん釣ったなぁ!」
バケツの中には、響が釣り上げた魚が何匹も跳ねている。
来島が悔しそうにバケツを覗き込む。
「なんで響ばっか釣れるんだよぉ…!」
「運じゃない?」
陽翔が肩をすくめる。
「いや、実力だよ。ね?」
柊木はにやにやと響の肩をポンと叩く。
「え、えっと……たまたまです」
響は照れながら、バケツを今伊に渡した。
「じゃあ捌くの手伝える人、募集」
今伊の声に、来島が勢いよく手を挙げる。
「はいっ!料理なら任せろ!」
「来島は包丁持っちゃだめだ。危ないから」
香久山が即座に止める。
「なんでですか!?信用してくださいよ俺を!」
「前回の調理実習の事件、忘れたの?」
柊木がぼそっと言う。
来島は固まった。
「……あれは、まぐれだっ!」
今伊は笑いながらも容赦なく指示を出す。
「じゃあ来島君は焼き係。火の番してて」
「うっ……了解っす…!」
響は少し戸惑いながらも、今伊の隣に立つ。
「響君、これ持ってて」
手渡されたのは銀色のボウル。魚が一匹ずつ処理されていくたび、響はその後ろで水で洗う役を任された。
「響君の手、器用だな」
柊木がちらりと褒める。
「そう、なんでもできるんだよこいつは」
来島がちゃっかり割り込んでくる。
「いや、自分ほんと初心者で……」
「その初心者が一番釣ってたけど?」
陽翔がさらりと突っ込む。響は何も言えず、ただ苦笑した。
川の風が心地よく吹き抜ける中、魚の焼ける香ばしい匂いが広がり始める。
来島が声を張り上げた。
「よしっ!焼けたぞー!!」
「いい匂い!」
陽翔が目を輝かせる。みんなが紙皿を手に集まる。焼きたての魚が次々と盛られていく。
「これ全部、響が釣ったんだよな」
来島が感心したように呟く。
「じゃあ、響に感謝して――」
柊木が袋からレモンを取り出し、焼き魚にそっと搾る。
「いただきます!」
焚き火の炎が小さく踊る。
仲間と食べる魚は、普段よりずっと美味しかった。響は、胸の奥が少しだけ誇らしくなるのを感じた。
(みんなで食べるって、いいな…)
目の前の景色が、少し眩しく見えた。
地区大会の説明会と抽選会が行われる市民会館のロビーは、すでに独特の緊張感に包まれていた。
各校顧問たちが、それぞれの思いを胸に静かに席に着く。
壁には、今年出場する学校の名前がずらりと貼られていた。
「東縁高校さん、こちらへ」
係員に促され、瞬崎は無言で一礼し、指定された席に腰を下ろした。
周囲からかすかに聞こえてくるのは、
「都幾川高校の自由曲ってあの難しいやつだよな」
「今年の東縁は一年生多いって聞いたけど…」
そんなひそひそ声。
瞬崎は眉一つ動かさない。スマートウォッチで時刻を確認する。
(ここから先は、どれだけ準備してきたかで決まる)
ステージ裏の景色、ホールの残響、客席のざわめき――
すべてが頭の中に鮮明に浮かぶ。係員が壇上に立ち、マイクを手にする。
「それでは――抽選を開始します!」
箱の中には、無表情な数字の札。どの番号が良いかなんて、時の運だ。
自校の名前が呼ばれる。
「東縁高校吹奏楽部、お願いします」
瞬崎は立ち上がり、一歩一歩、ステージへ向かう。視線が集まる。
東縁への期待か、あるいは警戒か。
(どの番号でも構わない。――必ず音で証明する)
瞬崎は静かに札を引き抜いた。その数字を見つめ、一度だけ瞬きをする。
歓声でも、落胆でもない。
ただ冷静に頷いた。
「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
それだけ告げて席へ戻る。
ポケットの中で、その小さな札が微かに揺れる。ホールの天井には、未来を予感させるような光。
コンクールへのカウントダウンは刻一刻と近づいていた。
自然の中だからこそ気づいた音と気持ち。
その揺れは、強さになるのか、それとも不安になるのか。抽選で決まった演奏順は、逃げられない現実の一歩。
音が試すのは――技術だけじゃない。
活動の励みになるので感想、評価なども是非!
次回もお楽しみに!




