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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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21/42

21話 音の向かう先

音を奏でる理由は、いつも同じ場所にあると思っていた。だけど、仲間と過ごす時間が増えるたびに、

たった一つの答えが、少しずつ形を変えていく。

自然がくれる静けさは、心を映す鏡のようだ。

見たくなかった気持ちまで――そっと浮かび上がらせる。

「ちょっと、トイレ行ってくる。」


焚き火はまだ小さく赤い息を残していて、テントのあたりには仲間たちの寝息が静かに漂っていた。


来島(らいとう)は毛布にくるまったまま軽く手を振る。


「気をつけろよ」


でも僕の足は、トイレとは違う方向へ向いていた。


(――聞こえたんだ。あれは、ホルンの音)


森の奥から、朝の冷たい空気を震わせるように。優しく、そして迷いのない音色。


枯れ枝を踏まないよう、そっと足を運ぶ。薄く差し込む朝日が木々の隙間で揺れ、鳥の声と水音が交じりあっている。


やがて視界が開けた。


そこには、切り立った崖が天へ向かってそびえ、その中央から滝が白く流れ落ちていた。水しぶきが細かな霧になって頬に触れ、肌がひんやりする。


足元の草むらでは、虫たちが忙しなく動き回り、自然そのものが目を覚まし始めていた。


その真ん中で――


柊木真尋(ひいらぎまひろ)は、一人ホルンを吹いていた。


背中越しに見える肩の揺れ。滝の音に負けない存在感を放つ、美しい音。


(……どうしてここに?)


思わず息を呑む。


僕は足を止め、ただ、彼の紡ぐ音に耳を傾けた。朝の空気は清らかで、少しだけ切なくて。


それでも確かな何かを呼び起こそうとする音だった。


「......やっぱり来ると思ってたよ、(ひびき)


振り返った柊木は、さっきまで演奏していた真剣な顔が嘘みたいに、子どもっぽく笑った。


「……気づいてたの?」


「そりゃそう。響って足音軽くないんだよね〜」


からかうように言われて、思わずむっとする。


「朝からこんなところで吹いてたの?」


「うん。キャンプってさ、なんか特別な音が吹けそうな気がして」


柊木はホルンのベルを軽く叩く。


「あの音……すごかった」


気づくと素直な言葉が口からこぼれていた。


「すごかった? 何が?」


「迷ってなくて。まっすぐに届く感じ」


柊木は少し驚いた顔をして、それから照れ隠しのように視線をそらした。


「……ありがとう。響に言われると、なんか嬉しい」

  

滝と風の音が、そっと会話を包む。


「響は、コンクールどう思ってる?」


「どう……って?」


「だってさ、響は今年からユーフォ始めたわけじゃん。それなのに全国とか、想像つかないでしょ」


「……確かに」


まだ分からないことばかりだ。


だけど。


「でも僕、もっと上手くなりたい。みんなと一緒に音を出して、もっと先へ行きたい」


柊木は一瞬だけ目を大きくして、

 

すぐにいつもの笑顔に戻った。


「じゃあ決まりだね」


そう言って、人差し指を響の眉間につんと当てた。


「かっこつけるのは、ちゃんと吹けるようになってから!」


響は困惑したように口を開く。


「でも、響なら絶対いける。だって、音がさ――」


柊木は少しだけ、嫉妬にも似た熱を瞳に宿した。


「ときどき……ずるいくらい綺麗だから」


静かに、胸が跳ねた。


「ねぇ、もう一度聞かせて」


柊木はニヤリと笑う。


「知ってた」


柊木はホルンを唇にあて、静かに音を紡ぎ始める。


――ロンドンデリーの歌


森に溶け込むような第一音。滝の水音や鳥のさえずりと重なり、空気が微かに震える。


息遣い、指の動き、音色の細やかな変化がすべて完璧に調和し、森全体がその演奏に呼吸を合わせるかのようだった。


高音は木漏れ日のように輝き、低音は大地の振動と重なる。音の強弱は自然の起伏のように滑らかで、微細なニュアンスまで計算されている。音の波が滝の霧や風に混ざり、森の隅々まで浸透していく。


遠く、テントの中にいる来島や陽翔(はると)香久山(かぐやま)にも、音は確かに届いていた。彼らは息を呑み、ただ耳を澄ます。


響もまた、音に身を任せ、無言で聴き入る。胸の奥で波紋のように感じる震え。口には出さず、思いも言葉にはしない。ただ、音のひとつひとつを心に刻むだけ。


旋律は滝の轟音と絡み合い、空間全体を包み込む。柊木の指先や息の微細な操作が、森のあらゆる音を取り込み、完全にひとつの世界を作り上げている。


やがて最高潮。柊木は息を微かに止め、空気の密度を震わせる一音を放つ。森全体に余韻が残り、風も鳥も葉も、音の波の中で静かに揺れる。


響は静かに呼吸を整え、音の余韻に身を任せる。胸の奥に、揺るがぬ何かが残った。


しばらく静かに余韻に耳を澄ませた後、響のスマートフォンが震えた。今伊(いまい)先輩からのLINEだ。


『朝食作ったから戻ってきて』


響は小さく頷き、視線を柊木に向ける。


「そろそろ戻ろうか」


柊木はくすりと笑い、ホルンを肩にかけながら立ち上がった。


森を抜け、踏みしめる足音と葉擦れの音が朝の光に混ざる。滝の音も少しずつ遠ざかり、焚き火の香りが漂い始める。


テントに戻ると、来島や陽翔、香久山の姿が見えた。今伊は手際よく朝食の準備をしており、静かに声をかける。


「おかえり」



朝の光が柔らかく河川敷を照らしている。水面に反射する光が、波紋となって穏やかに揺れる。風が草を揺らし、鳥の声が静かに混ざる。


トロンボーンを抱えた東堂(とうどう)は、川沿いの土手に一人座り、唇をマウスピースにあてて静かに音を紡いでいた。


音は川面に反射し、岸辺の小石や草木を微かに震わせる。曲はゆったりとしているのに、どこか耳を引きつける力がある。空気の密度を操るような深みのある響きだ。


偶然、久瀬(くぜ)が通りかかる。三年同士で互いに顔は知っているが、普段はあまり話さない関係。久瀬は軽く足を止め、土手の陰からその演奏に耳を傾ける。


「……ほんと相変わらずだね、あんたは」


久瀬の声に、東堂は唇を離す。


「久瀬か。こんな朝早くにどうした?」


久瀬は少し笑みを浮かべ、川風に揺れる草の間から演奏を聞く。


「たまたま通りかかっただけ。でも、あんたの音、やっぱりすごいな……」


「うっせぇよ、どうせお前も響の音が一番なんだろ?」


東堂は苛立ちにも似た音でトロンボーンを吹く。荒々しく、汚い音。


久瀬は無言でその音を受け止め、息を整える。


「確かに響君の音はすごい。私だってわかってる。みんな響君の音を羨ましがってる。...でも」


久瀬は少し頬を赤くしながら口を開いた。


「……その音、すっごく好き!」


「......は?」


久瀬は我に返り顔を覆い隠しながら走り去る。


「べ、別に変な意味じゃないけど!その音が、一番好きなの!」


東堂は少し困惑しながらもすぐに視線を戻し吹き始めた。


久瀬はしばらく走ると、息を切らしながら心のなかで呟く。


(あんたの音が、一番人間味があるの)



川面がまぶしく光り、冷たい水が足首をくすぐる。4人は裸足になって並び、釣竿を握っていた。


「いや〜キャンプって最高だよなぁ!」


来島は竿を豪快に振り上げ、青空を仰ぐ。


「釣る前に騒いだら逃げるでしょ、魚」


柊木は冷静にツッコミを入れながら糸を垂らす。陽翔は水しぶきが上がらないよう慎重に場所を定め、響は慣れない手つきで竿を握っていた。


「響、それ逆。そうじゃなくてほら」


来島が後ろから手を添えて角度を直す。


「……ありがとう」


「どういたしまして。初心者は僕が守るから」


「守るってなんだよ」


陽翔が笑いながら言う。


「どうせマウント取りたいだけっしょ」


柊木が呆れ顔。


しばらくすると、風が草を揺らし、水音だけが響く静かな時間が流れた。


「こうしてるとさ、全部忘れられるな」


来島がぽつりと呟く。


「え?」


響が聞き返す。


「部活とか、パートのこととか…難しいことばっか考えてたから」


陽翔も竿を握ったまま小さくうなずく。


「でも行きたいよね。全国」


「もちろん」


柊木が強い声で言った。


「全国に行った景色、見たい。東縁って名前を、全部の会場に響かせたい」


来島が響の背中を軽く叩く。


「響の音もさ、もっと遠くまで届かせようぜ!」


ほんの少し胸が熱くなる。響も強くうなずいた。


「うん。僕――みんなで一緒に行きたい」


自然と4人に笑顔が広がる。


その時。


「……ん? お、おい響」


陽翔が響の竿を指差す。


「え? あっ――!」


竿先が強く引かれ、水しぶきが跳ね上がった。


「ちょっ……これ、どうすれば!?」


「巻け巻け巻けッ!!」


来島の叫びが川に響く。


響は慌ててリールを巻き始め――水面を割って、ぴちぴち跳ねる影が飛び出した。


「で、でかっ!!」


歓声が上がる。


「料理も釣りもってお前本当に何でもできるな!」


風が吹き抜け、笑い声が広がった。



焚き火のそばに戻ると、今伊が腕まくりをして待っていた。香久山は焚き火の準備をしている。


「お、ずいぶん釣ったなぁ!」


バケツの中には、響が釣り上げた魚が何匹も跳ねている。


来島が悔しそうにバケツを覗き込む。


「なんで響ばっか釣れるんだよぉ…!」


「運じゃない?」


陽翔が肩をすくめる。


「いや、実力だよ。ね?」


柊木はにやにやと響の肩をポンと叩く。


「え、えっと……たまたまです」


響は照れながら、バケツを今伊に渡した。


「じゃあ捌くの手伝える人、募集」


今伊の声に、来島が勢いよく手を挙げる。


「はいっ!料理なら任せろ!」


「来島は包丁持っちゃだめだ。危ないから」


香久山が即座に止める。


「なんでですか!?信用してくださいよ俺を!」


「前回の調理実習の事件、忘れたの?」


柊木がぼそっと言う。


来島は固まった。


「……あれは、まぐれだっ!」


今伊は笑いながらも容赦なく指示を出す。


「じゃあ来島君は焼き係。火の番してて」


「うっ……了解っす…!」


響は少し戸惑いながらも、今伊の隣に立つ。


「響君、これ持ってて」


手渡されたのは銀色のボウル。魚が一匹ずつ処理されていくたび、響はその後ろで水で洗う役を任された。


「響君の手、器用だな」


柊木がちらりと褒める。


「そう、なんでもできるんだよこいつは」


来島がちゃっかり割り込んでくる。


「いや、自分ほんと初心者で……」


「その初心者が一番釣ってたけど?」


陽翔がさらりと突っ込む。響は何も言えず、ただ苦笑した。


川の風が心地よく吹き抜ける中、魚の焼ける香ばしい匂いが広がり始める。


来島が声を張り上げた。


「よしっ!焼けたぞー!!」


「いい匂い!」


陽翔が目を輝かせる。みんなが紙皿を手に集まる。焼きたての魚が次々と盛られていく。


「これ全部、響が釣ったんだよな」


来島が感心したように呟く。


「じゃあ、響に感謝して――」


柊木が袋からレモンを取り出し、焼き魚にそっと搾る。


「いただきます!」


焚き火の炎が小さく踊る。


仲間と食べる魚は、普段よりずっと美味しかった。響は、胸の奥が少しだけ誇らしくなるのを感じた。


(みんなで食べるって、いいな…)


目の前の景色が、少し眩しく見えた。



地区大会の説明会と抽選会が行われる市民会館のロビーは、すでに独特の緊張感に包まれていた。


各校顧問たちが、それぞれの思いを胸に静かに席に着く。


壁には、今年出場する学校の名前がずらりと貼られていた。


「東縁高校さん、こちらへ」


係員に促され、瞬崎(しゅんざき)は無言で一礼し、指定された席に腰を下ろした。


周囲からかすかに聞こえてくるのは、


都幾川(ときかわ)高校の自由曲ってあの難しいやつだよな」


「今年の東縁は一年生多いって聞いたけど…」


そんなひそひそ声。


瞬崎は眉一つ動かさない。スマートウォッチで時刻を確認する。


(ここから先は、どれだけ準備してきたかで決まる)


ステージ裏の景色、ホールの残響、客席のざわめき――


すべてが頭の中に鮮明に浮かぶ。係員が壇上に立ち、マイクを手にする。


「それでは――抽選を開始します!」


箱の中には、無表情な数字の札。どの番号が良いかなんて、時の運だ。


自校の名前が呼ばれる。


「東縁高校吹奏楽部、お願いします」


瞬崎は立ち上がり、一歩一歩、ステージへ向かう。視線が集まる。


東縁への期待か、あるいは警戒か。


(どの番号でも構わない。――必ず音で証明する)


瞬崎は静かに札を引き抜いた。その数字を見つめ、一度だけ瞬きをする。


歓声でも、落胆でもない。


ただ冷静に頷いた。


「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


それだけ告げて席へ戻る。


ポケットの中で、その小さな札が微かに揺れる。ホールの天井には、未来を予感させるような光。


コンクールへのカウントダウンは刻一刻と近づいていた。

自然の中だからこそ気づいた音と気持ち。

その揺れは、強さになるのか、それとも不安になるのか。抽選で決まった演奏順は、逃げられない現実の一歩。

音が試すのは――技術だけじゃない。

活動の励みになるので感想、評価なども是非!

次回もお楽しみに!

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