2話 響いて
新しい日常に、少しずつ馴染み始めた頃。だけど、それだけでは終わらなかった。
音が、人の心を揺らすことがある。
それが、意図せず放たれたものであっても──。
入学してから一週間はテスト三昧だった。それまでの学習内容なんてほとんど覚えていなかったから、点数は壊滅的……だと思っていた。
けれど、実際にはそこまで悪くなかった。
「はぁ〜半分も取れなかった。響はどうだった?」
「362点、まあ平均超えだしとりあえずいいかな」
「いや普通に高いやん!俺だけ置いてけぼりかよ〜」
「うるさい!高校生として恥ずかしくないのか。早く席につけ!」
声の方向に視線を向けると鬼のような形相でクラスを睨んでいる担任がいた。それまでうるさかった教室は一瞬にして静寂に包まれた。皆急いで自分の席に座った。
「ひえ〜。相変わらずおっかない奴やな〜」
陽翔がそう呟いているのが聞こえた。
「私がそんなにおっかないのか?西村」
「イイエオモッテマセン」
急に担任の視線が陽翔に向けられた。陽翔は少し怯えているような声でそう言った。
この先生は、クラス担任の瀬戸川鳴海。見た目や声は美人同然なのだがとにかく厳しく、たまに口が悪くなるときもあるそうだ。そして鳴海はおもむろに黒いノートを取り出した。
「今日も出席確認をする。呼ばれたらはっきりと返事をするように。秋川紫福」
「はい」
「飯田佼成」
「はい」
毎日先生が一人ひとりの生徒の名前を呼び、出席確認を行う。もちろん返事が小さかったり、遅かったりすると......
「おい、小さいぞ。もう一度!」「おいそこ、何寝ぼけているんだ!シャキッとしろ!」
こんな風にめちゃめちゃ怒られる。毎日大体2、3人はこうなる。そしてめちゃめちゃ耳が良い。ちょっとした小声も聞き取ることができてしまうらしい。そんな先生だが.........
「えっと、木戸拝師」
「あの、それ木戸拝師」です」
「鷺野王賀」
「いやだからそれ鷺野王賀ですって。何度も言ってるじゃないですか」
「......」
そう、漢字が読めない。というか普通に目が悪い。入学式の日も教室に入ってくるときにドアに激突していた。案の定僕の名前も正しく覚えてもらえていない。
「……つきもと、きょう?」
「それ、“ひびき”です」
もはや新手のいじめレベルだったが、授業が面白いのと一人ひとりの相談に真剣に向き合ってくれるらしく何だかんだで校内では人気の先生だ。
「改めてみんなおはよう。3日間の基礎学力テストお疲れ様だった。まぁ中学の復習みたいなものだ。そんなに重く受け止める必要はないが、なかなかひどいな。一度学んだところだからな。次の中間テストでは全員の満点を期待している」
それでもやはりスパルタなのには変わりない。
「でもまあ、テスト終わったし、また部活見に行ってみてもいいかもな」
陽翔がぼそっと呟いた。
「吹奏楽部?」
「俺、やっぱりサックス気になってるんだよな。小学校の時はバスクラだったんだけどホントはサックスやりたかったんだよね」
「へぇ〜できるといいね」
「あの、二人とも、吹奏楽部の見学行ってたよね?」
気がつくと陽翔の後ろから一人の男子が会話にふっと入ってきた。
眼鏡越しの視線は柔らかく、でもどこかまっすぐで芯がある。たしか──
「如月……だっけ?」
「うん。如月奏多。中学ではファゴットやってたの」
「ファゴット?なんか聞いたことあるような、ないような……」
「木管楽器。見た目めっちゃ複雑だけど、音はすごくあったかいんだよ。ちょっと変な楽器だけど、好きなんだ」
「え、じゃあ……経験者?」
「まあね。でも高校では別の楽器もありかなーって思って、いろいろ見てるとこ。で──」
奏多は少しだけ声を潜めるように、でもはっきりと言った。
「月本くん。君、楽器やったことないでしょ?……なんとなく、そんな感じがする」
「うん。……まあ、たぶん」
「いや、その“なんとなく”で断言するの、怖くね?」
「なんか言った?」
奏多は笑顔のまま、じっと陽翔を見つめた。目の奥に一瞬だけ鋭い光が走った。その目が若干怖い。
「いえ、何も……」
「でも、さっきの会話のとき、君の口調とか視線とか、なんていうか、“わかってる人”の感じがしたんだよね」
自分では全然覚えてない。
「とりあえず、今日から仮入部やってるし良かったら一緒に行こう」
「よし、行くか。俺、サックス見せてもらお」
──胸の奥で、また何かがざわめいた。
理由は、わからない。でも、もしかしたらあの音の中に、僕の失くした何かがあるのかもしれない。 ──そんな気がした。
「じゃあ、行こうか」
陽翔が鞄を肩にかけて言った。僕も深呼吸を一つしてから、音楽室の前に立った。
「ドア開けるよ」
奏多が軽くノックをして、すぐにドアを開ける。音楽室の中には既に多くの入部希望者が集まっていた。数えてみれば、ざっと三十人はいるだろう。みんな目を輝かせ、興味津々で楽器を見たり、話したりしている。
「おお、新入生か!ようこそ!」
トランペットパートの先輩が明るく迎えてくれる。
僕たちはそれぞれ希望の楽器の棚へ向かった。陽翔はすぐにサックスケースを見つけ、嬉しそうに中身を確かめていた。奏多はファゴットのケースの前で迷いながらも周囲の楽器を眺めている。
僕はなぜか、ユーフォニアムの棚の前で立ち止まった。輝く銀色の管体を見つめ、何かに吸い寄せられるように手を伸ばした。
「吹いてみる?」
先輩が優しく声をかける。
僕は軽く頷き、唇を吹き口に当て、息を吹き込んだ。
──その瞬間、音楽室の空気が一変した。
出た音は驚くほど澄んで美しく、鮮明な響きを持っていた。指先は迷いなくバルブを操作し、まるで長年使い込んだかのように滑らかに動く。
その一音一音が部屋中を満たし、瞬く間に音楽室全体を包み込んだ。音が止んだ瞬間、誰も息をしていなかった。
「……う、うそ……」
「何、今の……!?え、うちら、なんなの……?」
打楽器パートの女子が手にしていたバチを落としかけ、青ざめた表情で呟いた。
「あの子本当に初心者……?いや、待って、無理無理……」
別の先輩男子が譜面を持つ手を震わせながら、後ずさる。
「えっ、えっ、え、うちら……ここで何年やってると思ってるのに、あれが“初めて”?そんな、馬鹿な……!」
「演奏どころか、音の質が次元違う……」
「えぐいって……才能の暴力すぎる……」
後列の部員たちから次々と小さなざわめきと怯え、混乱、焦燥が漏れ始めた。
──その一方で、前列の何人かの目には涙が滲んでいた。
「すごい……」
「こんな音、聞いたことない……!あの音で、私……もっと、うまくなりたいって思った……」
「入ってよかった、この部に……!」
純粋に感動している部員もいる。
けれど、それはあくまで“少数”だった。
大半の既存部員の視線は、驚愕と、嫉妬と、恐怖の入り混じった濁った色をしていた。その空気を感じながらも、僕自身はどうしてこんな音が出たのか、正直わかっていなかった。
そんな中、陽翔が興奮を隠せず僕の肩を叩いた。
「響、ほんとにすげぇよ!一緒にこの部を変えていこう!」
その声に部内の空気がピクリと揺れる。僕はただ静かに頷いた。
「うん」
部長が一歩前に出て、無言で僕を見つめた。
その目には笑顔があった。けれど──その奥の奥で、揺らぐ何かがあるのが、なぜかわかった。
「……君、本当に初心者なの?これが……これが“たまたま”じゃないなら、ぜひ入ってほしい。君の音が、この部を救うかもしれない」
歓喜にも似たその言葉の裏側で、誰よりも強く心が軋んでいるのは、彼女自身なのかもしれない。
しかしその場にいた部員の一人が、誰にともなく吐き捨てるように呟いた。
「なんで……こんなやつが“今さら”入ってくるんだよ」
沈黙。
一瞬、音楽室全体が凍りついた。けれどその言葉に誰も反論しなかった。それぞれが胸の中に、小さな棘を飲み込んでいた。
その時、音楽室の端っこ、ホルンの棚の前にいる柊木の姿が目に入った。彼は肩を震わせながら涙を流していた。だが、その涙は悲しみだけでなく、どこか込み上げてくる感情に混ざった複雑なものだった。
やがて彼の口元がわずかに歪み、切なさと喜びが入り混じった、ほろ苦い笑みが浮かぶ。その表情は、長い間心の奥底に封じ込めてきた何かを、今まさに揺り動かされているようにも見えた。僕の視線に気づいたのか、真尋は静かにこちらを見返す。
その瞳はただの感動ではなく、何か深いものを映し出しているようだった。胸の奥で何かがざわめき、僕の心の中に静かに、でも確実に入り込んでくる。温かさと冷たさが混じる不思議な感覚に、僕はわずかに身を震わせた。
音楽室の空気と混ざって居心地が悪い。
夕陽が差し込む教室で、僕たちの影はゆっくりと長く伸びていった。
何かが、確かに動き出した。それは音か、それとも──記憶か、過去か。
誰かの心に触れたその瞬間が、また新たな波紋を広げていく。続く物語に、どうか耳を澄ませて。
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