19話 言えないこと
――みんなと過ごす時間は、にぎやかで、あたたかくて。それでもふと、胸の奥が静かになる瞬間がある。その理由は、自分でもまだよく分からない。
言葉に表せない音だってこの世には存在するんだと.........
あなたには伝わるだろうか?
夕暮れの家。
窓から差し込む光が、部屋の中に柔らかく広がる。テーブルの上には、まだ見慣れない金色の楽器が置かれていた。
小さな手がそっと触れる。
指先に伝わる冷たさに、思わず肩がすくむ。
「……これ、私の……?」
後ろから柔らかな声がした。
「そうだよ。小学校入学のお祝いだ。無理に吹かなくてもいい。まずは触れてみたかっただけだろ?」
声は優しく、肩の力をふっと抜かせるような響きだった。
手を添えて支えてくれる感覚に、少しだけ安心する。口にマウスピースをあてて、深く息を吸う。力を入れすぎて、腕が小さく震えた。
「……い、いくよ」
――ぷすっ。
かすかな雑音が、部屋の静寂をかすかに揺らす。思ったような音は出ず、ぎこちなく息が止まる。
「……で、出ない……」
小さな声に、背後から静かに声が近づく。
「うん、最初はそうなるよ。焦らなくていい。音は、逃げたりしないから」
声に少し励まされる。しかし、それでも胸の奥はもどかしく、指先に力が入る。
「……でも……ちゃんと、鳴らしたい……」
そっと膝をつき、温かい手で肩を軽く押さえた。
「そうだね。鳴らしたいって思えるなら、それだけで十分だよ。ゆっくりでいい。音は、ちゃんと応えてくれる」
その言葉に、息を整えながらもう一度息を吹き込む。またぷすっと音が出て、少しだけ揺れる。それでも、その小さな振動が胸の奥まで伝わり、思わず顔がほころぶ。
「……鳴った……?」
「うん、鳴ったね。ちゃんと鳴った」
微笑みながら手を握る。安心と、まだ言葉にはできない高揚感が入り混じる。唇の軽い痛みも、指先の震えも、なぜか嬉しい。
「……うまくなるかな……」
「うまくなるさ。大丈夫。焦らず、一歩ずつだ」
柔らかな声に包まれ、手に力を込めて楽器を握る。
部屋に差し込む夕日と、笑顔の温かさが、胸の奥に静かに染み込む。
――この日の“最初の音”は、まだ小さくてぎこちないけれど、
やがてすべてを変えていく、運命の始まりだった。
──でも、その後の出来事は、誰も予想できなかった。
白い光の中、楽器を抱えたまま動かなくなったのを目の前に、声をかけた自分。
しかし、その声も、手を握ったぬくもりも、何の力にもならなかった。
今、目を閉じれば、あの日の部屋の光も、冷たく硬い金属の感触も、はっきりと蘇る。
心の奥がひりつくように痛む。
あの笑顔、あの小さな決意……すべて、自分のせいで奪われたのではないかという思いが、胸に重くのしかかる。
それでも、日々を生きなければならない。楽器から遠ざかり、音楽の道からも身を引こうとしていた。なのに、あの光景が頭から離れない。
「……ごめん、本当に……ごめん」
独り、深く息をつく。言葉に出さずとも、胸の奥でずっと繰り返される謝罪。
そして、あの時抱いた“音を鳴らしたい”という純粋な気持ちが、今も胸を揺さぶる。
──あの小さな決意を、誰にも壊させてはいけない。
それだけが、自分に残された、せめてもの責任のように思えた。
窓の外、夕日の光が淡く揺れる。部屋の静けさの中で、過去の痛みと未来への決意が、ゆっくりと混ざり合う。
響は少し離れた場所から、柊木が森の奥へ歩いていく背中をじっと見つめていた。
「おい、響、何見てんの?」
来島が肩越しに声をかける。響ははっとして振り返る。
「……あ、いや、別に」
来島は肩をすくめる。
「そういや柊木はどこいったんだ?」
「あぁ、あっちの森の方に」
「ふーん。ま、どうせあいつの事だし昆虫観察でもしてるじゃないかな」
響は森の方に目を戻す。木々の間に消えていく柊木の背中は、まるで何かに集中しているようだった。
(――なんであんなに真剣なんだろう……)
遠くで葉擦れの音が小さく響く。柔らかな光が森の緑を照らしていた。
「おーい、月本君!ちょっと手伝って欲しいんだけど」
遠くから今伊の声が聞こえた。響はすぐに声の方へ振り返り口を開く。
「すみません!今行きます」
響はそう言ってテントの方に戻って行った。来島も深く考えずに川の方へ向かっていった。
川の音がさらさらと響く中、テント前の炊事場では、今伊と響が鍋の前に立っていた。大きな鍋から立ち上る湯気が、ふわっと鼻をくすぐる。
「よし、じゃあ玉ねぎ炒めるところからね。響君、これ切ってもらっていい?」
「はい」
響は包丁を手に取り、まな板の上で玉ねぎを押さえる。
トン、トン、トン、トン――
小気味よいリズムで、均一に並ぶ薄切りができていく。
「……え、すっご……」
今伊が目を丸くする。
響は「?」と首をかしげる。
「あの、響君。料理してる人の手つきなんだけど……」
「え、そうですか……?」
本人に自覚はまったくない。ただ「こうかな」と思った通りに手を動かしているだけなのだが、動きに迷いがない。
続いて、鍋に玉ねぎを入れると、響は無言で木べらを持ち、強火を避けながら丁寧に炒め始める。
火の通り方を自然に見極め、水分が飛ぶタイミングも感覚で掴んでいる。
「響君……。それ、初めての人じゃ絶対できないよ……?」
「すみません、なんか……この方がいい気がして」
「いや謝らなくていいけどね!? ありがたいから!」
今伊は思わず笑ってしまい、響の横に並んで鍋を支える。
その後も響は、野菜の大きさをそろえ、アクを丁寧に取り、ルウを入れるタイミングも完璧に合わせた。
「……あのさ響君。本当に料理したことないの?」
「……ないと思いますけど……」
「“思いますけど”って何!?」
今伊はツッコミながらも、ふわっと鼻をくすぐるいい香りに思わず息を漏らす。
大鍋の中で、とろりとしたカレーが湯気を立てている。木製のヘラを持つ響の横で、今伊が湯呑み片手に感心した声を漏らした。
「ちゃんと“カレーの匂い”になってる」
響は鍋の中をじっと見つめたまま、小さく首を傾げる。
「……なんとなく、こう……入れたらよさそうだなって思って」
「勘でここまで作れたら天才だよ。いや、君の場合はもう“らしい”けどさ」
今伊が苦笑しながら味見をひとさじ。舌に乗せた瞬間、目がわずかに開いた。
「……あれ、普通にうまいぞこれ」
「そうですか?」
響が素直に首を傾けたその時、今伊はふと川の方へ視線を向けた。
「てかさ……ほら見てみてよ」
川辺ではしゃぎ散らす来島と陽翔。水しぶきが太陽を反射し、まるで子どもに戻ったみたいに遊んでいる。
そして、その少し離れた場所で腕組みしながら“完全に保護者モード”の香久山が立っていた。
今伊が小声で笑う。響もそちらを見て、ぽつりとつぶやいた。
「……香久山先輩、ずっとあの二人の動きを目で追ってますね」
「でしょ?あれ絶対“また何かやらかす前に止めるマン”だよな。なんか……苦労人って感じで好きだわ香久山君」
二人してくすっと笑い合う。その香久山も、こちらに気づいたのか軽く手を上げてきた。響と今伊も手を振り返すと、再び鍋に視線を戻す。
「よし。そろそろみんな呼んで食べよっか」
「そうですね」
山の空気の中で、カレーの香りがほのかに広がっていった。
カレーの香りに誘われるように、部員たちがテント付近へ集まってきた。
「うお〜!めっちゃいい匂いする!!」
来島が皿を持ったまま半分小走りで駆け寄る。
「走るな走るな!こぼしたら先輩が倒れるぞ!」
陽翔が慌てて止めるが、当の香久山は腕を組んで即答した。
「……倒れはしないけど、怒る」
「そっちの方が怖いですよ!!」
わいわい騒ぐ中、響は鍋の前に立ち、みんなの分をよそいながら小さく会釈する。
「どうぞ」
「ありがとう! あ〜いい匂い……これ絶対うまいやつ!」
今伊がいち早くスプーンを手に取る。
そのとき、誰が気づくでもなく――
「いただきます」
しれっと柊木が皿を持って席に座っていた。
「え、いたの!?」
来島が二度見する。
「え?いたけど」
「いや絶対今出てきただろ!森からの気配ゼロだったって!」
「別に隠れてたつもりはないよ。ほら、昆虫の……」
「やっぱ昆虫観察じゃん!!」
周りがツッコんで笑う中、響は一歩引いた場所でカレーをすくい、口に運んだ。
(……みんな元気だなぁ)
自分が作ったカレーを皆が嬉しそうに食べている。ただ、それを誇るでもなく、照れるでもなく、静かに周りを見渡す響。
来島が一口食べて目を丸くする。
「……え、うま!!なんで!?どうした!?お前前世シェフ!?」
「いや、普通に作っただけだけど……」
響が困ったように首をかしげると、西村も噛みしめるようにうなずく。
「いやこれ普通じゃ出ない味だよ……味のバランス良すぎる……」
「響くん、もし音楽やめても飯食っていけるわよこれ」
女子の先輩が笑いながら言う。
「…………そうですかね?」
響はスプーンを持ったまま少し黙り、自分が“普通にやっただけで褒められる”ことへの不思議な感覚だけが残る。
そんな空気もおかまいなしに、来島が満面の笑みで叫んだ。
「おかわり!!」
「早くない!?」
「ちょっとは味わえ!」
「胃袋ブラックホールかよ!」
ツッコミが飛び交う中、
響はまた静かに鍋へ向かい、おかわりをよそった。
(……楽しそうだな)
ほんの少しだけ、口元が緩む。山の風が吹き抜け、笑い声とカレーの香りが、その場いっぱいに広がっていた。
東堂成昭は手すりにもたれ、冷たい表情でスマホを耳に当てていた。
「……ああ。今、休暇中だよ。――で?またその話か」
相手の声は聞こえない。だが、成昭の眉間に深い皺が寄る。
「……いや、だから言っただろ。もう関わる気はないって」
吐き捨てるように言うと、電話の向こうが何かを言い返したらしい。
その瞬間、
「……はぁ?まだ言うのかよ」
声のトーンが一段低くなった。
「――もううんざりなんだよ。二度とかけてくるなって言ってんだろ!」
怒鳴り声が廊下に響く。成昭は通話を切り、スマホを壁に向かって投げる。
ガンッ!
乾いた音を立てて床に落ちたスマホは、
ケースが外れ、画面に薄いひびが入った。
成昭は乱れた息をひとつ吐き、額に手を当てながら小さくつぶやく。
「……しつこいんだよ、ほんとに……」
そのまましばらく沈黙。
階段の隙間から差し込む薄い光が、彼の表情を冷たく照らす。
やがて、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「……全部、終わらせたいだけなのに」
指先がわずかに震えていた。
誰にも届かない独白。しかし、その声には焦りと恐怖と……わずかな諦めが混じっていた。階段に沈むように腰を下ろし、スマホを胸元で握りしめる。
「……海斗」
その名を口にした瞬間、成昭の表情がわずかに歪む。まるで、胸のどこかに刺さった棘が疼いたように。
「……お前だけには……絶対、知られたくないんだ」
その声はかすれ、震えていた。
「海斗だけは……巻き込めない」
指先がぎゅっとスマホを握り込む。
「……約束したんだ。もう“あんな思い”はさせないって……」
夕暮れの光が階段の隙間から差し込み、成昭の横顔に淡く影を落とす。
そして最後に、ぽつりと。
「……ごめん、海斗」
静寂の中で、その名だけが重く響いた。
すっかり日が暮れ、キャンプ場には静かな夜の空気が漂う。星が瞬き始め、天の川が淡く横たわっていた。
川の方では、来島と西村が声をあげながら星空を見上げている。手を叩き、笑いながら指差す二人の姿は、まるで子どものようだった。
その少し離れた場所で、香久山は腕を組み、眠そうな目をこすりながら二人を見守っている。
「……そろそろ寝落ちしそうだな、俺」
香久山は小さく呟き、深いため息をつく。
テント近くの炊事場では、響と今伊が夕食の片付けをしていた。大きな鍋を洗い、使った食器を順に片付ける。
「手際いいね」
今伊が感心して声をかける。響は淡々と水を流し、泡をすすぎながら小さく頷く。
「……そうですか?」
「うん。あ、でね、ナーガフェスの永井君の事だけどさ」
今伊が真剣な顔で響を見つめる。
「永井君すごい上手くなったよね。あれ響君のおかげでしょ?一応永井君の先輩ポジだし、コンバスとして、感謝しておきたくてさ」
響は手を止めず、ただ静かに頷く。口には出さないけれど、心の中でその言葉を受け止めていた。
「……そうですか……」
その声はかすかだが、確かに響の胸に届いた。今伊は少し笑みを浮かべ、再び食器をすすぐ。
「永井君、あの後すごい変わったんだ。技術だけじゃなくて、心の持ち方まで。きっと君の演奏が、永井君を動かしたんだと思う」
響は泡を流す手を止めずに、ただ静かに聞いている。
洗い物を終えた二人の背後では、来島と西村の笑い声が夜空に溶けていく。香久山の小さな溜め息も、どこか温かく聞こえた。
「はい、音早です」
「こんばんわ、瞬崎です」
「おぉ〜瞬崎君、久々だねぇ」
「ほんの一週間くらいですけどね」
「で、どうしたんだい?また指導してほしいのかい?」
「まぁそれについてはおいおいということで、コンクール曲、決まりました」
「....ついにか」
どんなににぎやかな日でも、心のどこかに残る“言葉にならない気持ち”ってある。それがなんなのか、少しずつ見えてくると..............
感想、評価お待ちしてます。
次回もお楽しみに!




