16話 舞台の前に
部員たちは今日も、音と歩幅を重ね、互いの呼吸を確かめながら練習に励む。
その先に待つのは、大きな舞台――ナーガフェス。
一歩ずつ、確かな自信を胸に、本番への準備が進む。
あれから一週間。日ごとに陽光は強くなり、夏の匂いが少しずつ混じり始めていた。
ナーガフェス本番は――もう、明日だ。
グラウンドに引かれた白線が、いくつも交差していた。その上を、東縁吹奏楽部の部員たちが軽やかに歩いていく。
「……よし、ストップ!」
董白が手を上げると、全員がぴたりと動きを止めた。汗を拭いながら、彼は小さく息を吐く。
「いい。ほんとにいいよ。――この一週間で、全員の完成度が見違えたな」
少し笑いながら、周囲を見回した。その視線の先には、永井の姿があった。
ガード棒を構えるその立ち姿は、もはや“おどおどした一年生”ではない。芯があり、リズムの中に呼吸を感じる。回すたびに布が空を切り、軌道が正確に白線の延長線上を描いた。
「永井君。……すごく良くなったな」
「えっ……あ、ありがとうございます!」
声に少し照れが混じる。けれどその笑顔には、確かな自信が宿っていた。今伊の言葉が、永井の中でしっかりと形になっていた。
(“誰かの軌道に乗る人生なんて、生きづらいだけ”――か)
彼は自分の足で立ち、自分の呼吸で動く。そのことが、こんなにも心地いいとは思わなかった。董白は頷きながら、隣に立つ響を見た。
「響もだ。全体の流れをよく見てる。リードしてるって自覚あるか?」
「……少し、は。」
「なら十分だ。お前の“感覚”は本物だ。あとは明日、信じるだけだな。」
どの部員も、それぞれの位置で深く呼吸をしていた。戸惑いも、苛立ちも、少しずつ音の中に溶けていった。
緊張と期待――それは、音よりも確かにそこにあった。
「よし、本番通り演奏ありでやるぞ!最初の位置につけ!」
董白の声が響き、部員たちはそれぞれの定位置についていく。
「……先生、もう……ムリ……」
低音の列で来島がスーザフォンを下ろし、汗を拭った。
その隣ではユーフォの桜咲が、日差しを避けるように日傘の影を探している。
「ちょっとだけ休憩……ダメですかぁ……」
「だーめ。フェスは明日なんだから、今が踏ん張りどきでしょ」
久瀬が笑いながら返し、若田がユーフォを担いで頷いた。
「あと一回、あと一回だけやろう。今の“形”を体に刻むんだ」
「うぅ……部長とか若田先輩のそういうとこ、嫌い……」
「ありがと、最高の褒め言葉。」
笑いがこぼれ、再び笛の音が鳴る。
テンポ110。スネアのリズムがグラウンドに響き渡る。トランペットの明るい旋律、それに重なるハーモニー。
歩調と息づかいが重なり、まるで地面そのものが鳴っているようだった。その様子を、少し離れたテントの下から見つめる二つの影があった。
顧問の瞬崎と、副顧問の瀬戸川。
「……変わったな、ほんとに。」
瀬戸川が腕を組みながら呟く。
「董白先生が来てから、あいつら、顔つきがまるで違う」
「そうですね」
瞬崎はグラウンドを見つめたまま頷く。
「一人ひとりが“音を鳴らす理由”を探している感じです。厳しいですが、確実に強くなっています」
風が吹き抜け、砂埃の向こうで永井がカラーガードを掲げる。
その横顔には、数週間前にはなかった自信が宿っていた。
瀬戸川は目を細める。
「特に永井。何かに導かれるように動いてるな」
「ええ。」
瞬崎が小さく笑った。
「たぶん、“月本君”ですよ。」
瀬戸川は静かに頷いた。
「なるほどな。あの子がいるだけで、空気が変わる。……ほんと、不思議なやつだ」
「ええ、その通りです」
「……私も、学生の頃、似たようなことがあったんだ」
瞬崎が、顔を向ける。
瀬戸川は遠くの部員達を見つめたまま、淡々と続けた。
「仲間の一言がきっかけで、バンドが割れた。誰も悪気はなかったのにな。……音楽ってやつは、不思議だな。うまくなればなるほど、仲間との心のズレが目立つ」
瀬戸川はその音に微笑みを浮かべ、静かに呟いた。
「でも、あの頃の音が、今でも私の中に残ってる。だからこそ、あいつらには最後まで音で向き合ってほしいんだ」
風が鳴り、再び笛の音が響いた。それは、明日という舞台へ向けた最後のリハーサルの始まりだった。
夕暮れに染まる帰り道、響たちは手にした紙を囲みながら歩いていた。陽翔、奏多、来島、永井、いつもは一緒に帰らない柊木も、なぜか今日は加わっている。
「先生からもらった、明日のナーガフェスの出場順か」
奏多が紙を開くと、順番と演奏内容が一覧になっていた。
「うちらは、5番目か……」
来島が小さな声でつぶやく。
「俺たち、そんなに後ろじゃなくてよかったな」
陽翔が肩をすくめる。奏多は真剣な顔で紙を見つめる。
「うわ、僕らの前、豊川高校じゃん」
みんな口を揃えて言った。
「豊川高校⁈」
「いやまてよ、豊川の次とか終わってんだろ」
「僕たち比べられちゃうって」
来島や陽翔は愚痴もこぼす。
柊木は紙をじっと見つめてから、小さく頷いた。
「……出場順、意外と詰まってるんだね」
「ほんとだな。前の学校の演奏聞く間もなく、すぐ俺たちだ」
陽翔が笑うと、みんなもつられて少し和んだ。響はふと紙に書かれた曲名や学校名を順に見ながら考える。
(明日、この順番で……全部うまくいくのか)
胸の奥で少し緊張が走る。しかし、同時に、これまでの練習を思い出す。皆で重ねた音、歩幅を合わせた足音、互いの呼吸――それが確かに自信となって胸を満たしていた。
「よし、出場順は把握したね。豊川の次ってのは怖いけど......とにかく明日、全力でいくしかない」
奏多が声をかけると、皆が頷き、紙を軽く握り直した。夕暮れの空の下、歩幅をそろえながら....
自室の椅子に深く腰を下ろし、響はテレビ画面をぼんやりと眺めていた。
久々に流れる吹奏楽特集――「がんばれ!ジャパンズブラス♫」だ。
画面の向こうでナレーターの声が明るく響く。
「いよいよ明日、待望のナーガフェスが幕を開けます!」
響は思わず画面に視線を集中させる。画面には、県内から集まる出場校の名前や練習風景、ステージの一部が次々と映し出されていた。指揮者の動き、息の合った奏者たちの動き、木管・金管のハーモニー。映像だけでもその迫力が伝わってくる。
ナレーターが続ける。
「各校の技術はもちろん、日々の努力やチームワークも見どころのひとつです。明日はどんなドラマが生まれるのでしょうか――」
画面が切り替わり、今回は長野市立西野中学校の取材風景が映った。
体育館の奥で、中学生たちが一列に並び、息を合わせて吹く姿。指揮者の先生が熱心に指導し、手を高く振り上げてリズムを刻む。汗をぬぐいながら、一音一音を丁寧に確かめる生徒たちの真剣な表情。
「私たち、西野中学校は今年も全力で演奏します!」
インタビューに答える生徒たちの笑顔にはまだあどけなさが残るものの、目は真剣そのものだ。響は画面を通しても、彼らの熱意が伝わってくるのを感じた。
ふと、響は手元で指先を軽く動かす。無意識にリズムを刻んでいた。
(ああ、やっぱり明日か……)
胸の奥が小さく高鳴る。これまで重ねてきた練習、合わせた歩幅、全員で作った音の流れ――それが明日、大きな舞台で一つの形になるのだ。
ナレーターの声とともに、画面は再び会場に戻っていた。
「出場校それぞれに、独自の個性と物語があります。明日はただの演奏会ではありません――一人ひとりの努力と成長がぶつかり合う、特別な日なのです」
響は視線をテレビから逸らし、少し天井を見上げる。
(……僕たちも、明日、あそこに立つんだ)
その胸に、わずかな緊張と、確かな期待が入り混じる。
画面の中の中学生たちの真剣な瞳を見ていると、自分たちもまた、同じように輝かなければ――という思いが自然と湧き上がってきた。
響は軽く息を吸い、ゆっくりと吐いた。明日、ここで鳴る自分たちの音――それを想像しただけで、心はすでに高鳴り始めていた。
朝の光は、まだ優しくて柔らかかった。だけど僕の胸の中は、すでに熱を帯びている。今日は――待ちに待ったナーガフェスの日だ。
制服に身を通しながらも、頭の中はすでに今日の演奏でいっぱいだ。僕ら東縁高校吹奏楽部は、この日のために何週間も歩幅をそろえ、音を重ね、呼吸を合わせてきたんだ。
朝の廊下では、部員たちが次々と集まってくる。陽翔や奏多、永井に来島――いつもの顔ぶれが揃うと、なんだか少しほっとする。挨拶を交わしながらも、誰も口にしないだけで、心臓は皆同じくらい早く打っているはずだ。
「みんな楽器は全部準備できた?あと本番用の衣装も」
久瀬が確認する。
「うん、大丈夫」
「サックス、全員揃ってます」
「パーカスもOK」
「フルートも」
各パートの人員確認と楽器確認が終わると運搬用の台車にスーザフォンやユーフォニアムを乗せ、バスの前まで列を作って運ぶ。歩きながらも、ふと僕は考える。ここから会場まで、あの演奏の瞬間まで、全てがつながっているんだって。
校門を出ると、朝の空気が少しひんやりとしていて、胸の緊張をほんの少しだけ和らげてくれる。バスに乗り込むと、僕らはそれぞれの座席で最後の確認をする時間になる。紙に書かれた出場順や、今日の演奏の流れ、細かい注意点――指先で軽くたどりながら、心を落ち着ける。
窓の外には、通学路の景色が流れていく。風景はいつもと変わらないはずなのに、今日はすべてが特別に見える。今日という日は“いつも”じゃない。これまでの練習の全てが、この一日につながっている。
バスのエンジンが静かに唸ると、胸の奥の期待も少しずつ大きくなる。深呼吸をひとつ。手にした楽譜をもう一度確認する。
全て準備は整った――あとは、会場で鳴らす音だけだ。
(さあ、行こう。僕らの音を、今日、この場所で、誰よりも響かせるんだ)
会場に到着すると、色とりどりの校旗や、響き渡るリハーサルの音が視界に入った。普段の学校のグラウンドとは違う、緊張感に満ちた空気。
まず楽器のセッティングから始めた。ユーフォやスーザフォン、サックス、トランペット――それぞれの楽器を運び、自分の位置に整える。久瀬や若田の指示で、並び順や足幅、音の出し方の最終確認も入念に行った。
「よし、息は揃ってるか? 足音も確認!」
董白の声が響く。部員たちは深呼吸し、楽器を肩にかけて姿勢を整える。心臓は高鳴るが、それは悪いものではなかった。むしろ、音を鳴らすための準備の一部だ。
その最中、来島や陽翔の姿が少し離れた場所で動いているのに気づいた。かつて別の学校に行った仲間たちと再会しているようだった。久しぶりの顔ぶれに、自然と笑みがこぼれる。
「おお、久しぶり! 元気そうだな」
来島がスーザフォンを抱えながら声をかけると、相手も笑顔で応えた。
「来島か。久しぶりだな」
陽翔も少し照れたように笑う。昔一緒に演奏したリズムや掛け合いを思い出す時間だ。互いの成長や挑戦について、短い会話の中で話し合う。もちろん競技者としての意識もあるが、同時に昔の友情が自然に蘇る瞬間だった。
「今日はお互いベストを出そうぜ」
来島が少し真面目な表情で言うと、相手も頷く。短い言葉だが、背中を押してくれる力があった。
その間も他の部員たちは準備を続ける。会場のざわめき、再会の笑顔、そして各校のリハーサルの音――全てが、本番へ向けた静かな高揚感を生み出していた。
控えの広場で、部員たちは待機していた。日差しがやわらかく差し込む中、すでにプログラムは進行しており、前に出た豊川高校の演奏が会場に響いている。
その演奏は圧倒的で、緻密な音の重なりと揃った動きに、控えの部員たちは思わず息をのんだ。来島や陽翔、桜咲たちも、楽器を抱えたまま背筋を伸ばす。胸の奥に、知らず知らずのうちにプレッシャーと緊張が押し寄せてくる。
「……すごいな……」
小さく呟く来島に、奏多も無言で頷く。息を整えようと深呼吸をするが、鼓動は早まるばかりだった。他の部員もそれぞれ口を開く。
「うますぎじゃね?」
「うちら、完全に埋もれちゃう」
その中で、響だけは少し違った。肩の力を抜き、目を閉じて深く呼吸を整える。耳に届く豊川の音を体の中で受け止め、心の中でリズムを反芻する。緊張はあるものの、恐怖や焦りではなく、ただ「自分たちの音を出す準備ができている」という確かな感覚があった。
(追いついてる。僕らは、ここまで来たんだ――)
響は静かに頷き、目を開けた。その瞳には、少し落ち着いた光が宿っていた。
「長野県東縁高等学校の皆さんは準備を始めてください」
アナウンスの声が響いた。
「瞬崎先生、いよいよ出番です」
瞬崎は待っていたかのように口を開く。
「.....音を楽しむと書いて"音楽"。決して相手に力を見せつける物ではありません。しかしここにきている多くの人たちは東縁高校の力を軽く見ている」
瞬崎は満面の笑みで部員達の方へ顔を向けた。
「さぁ、行くのです。そして我が東縁の真の実力を見せつけてきなさい!」
部員達は笑顔で口を揃えた。
「はい!!!」
部員たちの胸には緊張と期待が入り混じり、歩幅と音が心を満たす。ここまで積み重ねてきた努力は、果たしてどんな形となって響くのか――。
次回、いよいよステージが始まる。
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