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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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15/42

15話 消えない一言

言葉は、ときに音よりも重く響く。ある一言が心に刺さった日、人はいつもより慎重になる。けれど、歩くリズムはそんな気持ちを待ってはくれない。ズレた足音は、やがて本当の“理由”に近づいていく。

夕暮れが完全に落ち、東縁の街は夜の匂いに包まれていた。(ひびき)は帰宅すると、制服のまま自室の椅子に腰を下ろした。窓の外には遠くの街灯が瞬いている。


「……“音の彗星”、か。」


永井(ながい)が言ったその言葉が、耳の奥で何度も反響していた。


あの言葉を口にしたときの永井の表情――どこか怯えにも似た、遠い目。あれはただの称号でも、あだ名でもなかった。何か、もっと深い意味があるんだろう。


結局永井が発言してから僕らは何も言わず帰ってきた。今は深掘りしないほうがいい気がする。そんな気がして.......


「響、何してるの?もうご飯よ!」


「今いく〜」


時計を見ると、もう七時を過ぎている。響はゆっくりと椅子から立ち上がり、階段を降りた。


ダイニングの戸を開けると、すでに三人の姿があった。母は煮物を小皿に分け、父は新聞を片手にビールを飲んでいる。そして、向かい側の席には姉の愛美(みなみ)がスマホをいじりながら座っていた。


「全く、帰ったら風呂にぐらい入りなさいよ」


「練習、長引いて。疲労が....」


「本当、響は熱心だな」


父はそう言いながらも、新聞から目を離さなかった。愛美がふと、スマホを置いて響をちらりと見た。


「なんか顔、疲れてない? 寝不足?」


「……別に」


短く返すと、母が少し気まずそうに箸を置いた。テーブルには温かい湯気が立ちのぼり、家族の会話は当たり障りのない言葉ばかり。


けれど、響の耳には、どれも遠くの音のように聞こえた。味噌汁を口に運んでも、味はほとんど分からない。


永井の言葉、部室の沈黙、あの“彗星”という名。頭の奥で、何度も繰り返し鳴っていた。


「……響?」


母の声に、我に返る。


「え、あ……うん。なんでもない」


家族との会話のうちに響はそのことを忘れていった。歯磨きを済ませるとそのままベッドの上に横になった。



「よーし。今日もみっちり練習していくぞ!」


「はい!」


今日も董白(とうはく)先生のレッスンが始まる。基本平日は別の部活が体育館を使ってしまうのだが....


瞬崎(しゅんざき)先生、わざわざバスケ部の顧問と部長に直接交渉してきたらしいぜ」


「相変わらずすごいな」


「はいそこ、ぺちゃくちゃ喋んないの。早く定位置につけ!」


「あ、はい!」


そして今日もいつも通りの練習が始まった。しかし.....


「おい!そこの、えっと.....永井君!足ずれてるぞ」


「っておい響。縦合わせろ!」


響と永井だけはいつもの調子ではなかった。二人の足はズレたまま.......時間だけが過ぎていった。


「どうしたんだよふたりとも今日に限って。なんかあったのか?」


「あ、ごめん。ちょっと調子悪いみたい」


「ごめんなさい」


当然だ。なぜなら...........


「ふたりとも重要な役割なのに」


演出の華やかさを握るカラーガードの永井。そしてバックドラフトのステージドリルにおいて中心を担う響。どちらも重要な役割だ。どちらか片方でもずれるとすべてが崩れる。


「少し休憩を入れよう」


董白がそう言うと部員たちは散らばっていった。久瀬(くぜ)若田(わかだ)とともに動きの確認を、陽翔(はると)柊木(ひいらぎ)は他の一年と立ち位置の確認、東堂(とうどう)は一人体育館の隅でトロンボーンを吹いている。


「響と永井くん。少し話をしよう。ついてきなさい」


董白にそう言われ響と永井は体育館を後にした。



外の冷たい風が入り込んでいて、さっきまでの熱気が嘘のように引いていた。響は永井の横顔をちらりと見た。お互い一言も発さず、ただ足音だけが響く。

永井も、響と同じように、どこか焦点が合っていない。――あの“彗星”という名を口にしたあとから、ずっとだ。


「ここでいいだろう」


董白は足を止め、二人を振り返った。その表情は叱責というより、状況を探ろうとする静かな色を帯びていた。


「正直に言え。今日のズレ方は、単なる疲労では説明できない。何があった?」


問いは真っ直ぐだった。逃げ道を与えない。


永井が小さく息を呑むのが聞こえた。響は唇を噛んで、視線を落とした。


あの言葉を掘り下げたくない。でも、放っておくわけにもいかない。一瞬、永井がこちらを見た。その目には、怯えと、罪悪感と、言えない何かが混じっていた。


「あ、あの、えっと、その.....」


「なんだ?もしかしてただ疲れてるだけなのか?」


「.......え?」


響と永井は口を揃える。想像していた反応と全く違った。いつのまにか董白の顔は笑顔になっていた。


「もっと深刻なことかと思ったよ。全く、心配させんじゃねぇよ」


「あの、えっと」


「さぁ、そんなことでへたれてたら本番グダるぞ?分かったらさっさと戻る。ほらほら早く」


董白はそう言って僕たちを押し出した。響はそのまま体育館に戻って行く.....


永井はそっと息を整え、足を止めた。


「ん?何してるんだ永井君。早く体育館に戻って続きを始めるぞ」


しばらく迷ったあと、意を決したように口を開いた。


「……董白先生。ひとつ、聞いてもいいですか?」


「なんだい?」


永井は拳を握りしめ、視線を宙に固定したまま言った。


「“音の彗星”って……知ってますか?」


その場の空気が、少しだけ冷えた。董白はすぐには答えなかった。目を細め、思い出を探るようにゆっくりと呼吸をした。


「……なぜそれを?」


「ただ、ずっと気になってただけです....」


その言葉に、董白は小さくうなずくと、壁にもたれた。


「知ってるよ。“音の彗星”というのはな……昔、そう呼ばれていた奏者がいた。楽器を持てば人の想像を超えるほどの音を放つ、異才だった」


永井が息を呑む。董白は続けた。


「ただ上手いだけじゃない。音で空気が変わる。周囲の演奏までも引きずってしまう。本人が望まなくても、周りが勝手にざわつくタイプの才能だ。もはや人間じゃなかった」


「……そんな人が、本当に?」


「いたさ。全国、いや全世界でも噂になるほどのね。ただ……その後のことは、あまり表に出ていない」


永井は“誰の話なのか”を聞こうと口を開いたが、董白は先に言った。


「名前は言えない。言ったところで君たちが知っている人物でもない。それに……もう“彗星”は存在しないんだ」


存在しない――


その言葉は、説明のようでいて、逃げるようでもあった。永井が続きを促そうとしたそのとき、董白はふっと話を切り替えた。


「まあ、昔話さ。それより今は目の前の練習のほうが大事だろう。心を整えて戻りなさい。」


それ以上、掘り下げることは許さないというように。


永井は黙ってうなずいた。その背後で、董白がぽつりとつぶやいた。


「……彗星なんて、二度と落ちてこなくていい」


しかしその声は、永井には届かなかった。



体育館へ戻ると、すでに他の部員たちは動きを再開していた。白線の上に足音が軽やかに重なり、空気には張り詰めた集中が満ちている。


「よし、後半いくぞー! ポジション三番、頭から!」


董白の声が響き、全員が構えを取った。響もその列に入り、深く息を吸う。


一歩踏み出した瞬間――

身体が勝手に、いつもの“音のある歩き”を思い出した。足の角度、踏み込む深さ、腕の動き。

すべてが、無意識に最適な位置へと収まっていく。


(……大丈夫だ。行ける)


響は気づけば、周囲の動きと自然にかみ合っていた。むしろ、響の歩幅に合わせて列が揃っていく。久瀬が驚いたように目を瞬いた。


「……さっきまでとは別人じゃん。さすが響君、復活早いな!」


若田も横目で笑う。


「これだよな〜、響の合わせ方って」


しかし――


「永井!そこズレてる! あと半歩後ろ!」


「ご、ごめんっ!」


永井だけは、先ほどの乱れを取り戻すことができていなかった。足の入りが浅い。タイミングがわずかに遅れる。ターンの角度も、いつもの正確さが影をひそめていた。


董白が遠くから声を飛ばす。


「永井君、集中が散ってるぞ!今日は振り覚えの問題じゃない。メンタルがズレてる!」


永井の眉が苦しげに歪む。響は列を保ったまま、ちらりと永井の方を見た。その視線に気づいた永井は、焦ったように目をそらした。


“音の彗星”という言葉が、永井の心のどこかを引っかき続けていた。


(なんで……なんで僕だけ)


歩幅を合わせようとするたび、逆にズレていく。響の正確な動きが、余計にプレッシャーとしてのしかかる。


「永井、深呼吸しろー! 一度止まれ!」


董白の声で永井の動きが止まる。その背中は、わずかに震えていた。


対照的に、響の動きはもう完全に本調子へ戻っていた。



練習が終わり、部員たちが三々五々と帰路につく中、

永井は一人、人気のない校門へ向かって歩いていた。夜風が額の汗を冷やし、体温を奪っていく。足音は重く、肩は少し落ちていた。


(……全然、戻らなかった)


足並みが揃わないまま終わった練習。響が何事もなく本調子に戻ったことが、胸の奥をさらに締めつける。


「……はぁ」


ため息が白くなりかけたそのとき。


「おーい、永井君」


振り返ると、背の高いシルエットが街灯の下に立っていた。

片手にはカラーガード用の棒袋。三年の 今伊亮(いまいとおる)だった。


「先輩……帰るの、遅かったんですね」


「永井君こそ、ひとりで帰るタイプじゃないでしょ?他の一年とかと帰らないの?」


永井は苦笑いしながら首を振った。


「今日は……ちょっと」


「ちょっと?」


今伊は歩幅を合わせ、並んで歩き始める。永井は少し口をつぐんだが、結局、隠しきれずに漏らした。


「……練習、ダメダメでした」


「見てたよ。ずいぶん乱れてたね。永井君にしては珍しいな」


永井の足が一瞬だけ止まる。見られていたことが、恥ずかしいようで、でもどこか救われるようでもあった。


「ナーガフェス、いよいよだね」


今伊がぽつりと言った。永井はうなずきながら、少しだけ表情を曇らせる。


「……はい。正直、不安です。今日みたいなズレ方してたら、足引っ張っちゃいますし」


「完璧なひとなんていないよ。三年だってミスる。でもね、フェスってのは“揃ってるだけ”じゃだめなんだよ」


「え?」


今伊は少し笑った。


「ステージドリルは“気配”が出るんだよ。誰が迷ってて、誰が前を向いてて、誰が仲間を見てるか。音より先に、そういうのが観客に伝わる」


永井は小さく息をのんだ。


まるで、自分の不安を見透かされているみたいだった。


「……僕、今日、響君に合わせようとして……逆に全部ズレていきました」


名前を出した瞬間、胸の奥がちくりと痛む。今伊はその痛みを感じ取ったように、歩調をゆっくりにした。


「響君はさ……“合わせる側”じゃなくて“ズレたものを引き寄せる側”なんだよ。良くも悪くも、ね。」

永井は立ち止まった。


「やっぱり……響君って、特別なんですか」


今伊は空を見ながら答える。


「特別だよ。あんな演奏見てたら誰だってそう思う。でも、“特別”が“正しい”って意味じゃない」


永井は目を瞬く。


「どういう……?」


今伊は続ける。


「永井君は勘違いしてる。彼がどれだけ光ってようが……君がその光に近づく必要なんて、一つもない」


永井の胸が、わずかに揺れた。今伊は足を止めて永井の方を見た。街灯の光が横顔に落ちて、大人びた影をつくっていた。そして、少し低い声で言った。


「“誰かの軌道に乗る人生”なんて、生きづらいだけだよ」


永井は息を呑んだ。その言葉は、静かに胸へ届いた。

今伊は続ける。


「君は君のままでいい。カラーガードだろうが、ベースだろうが、“永井君が動くから形になる”ってラインが必ずある」


「……僕の、ライン……」


「そう。誰かに依存しなくていい。誰かの真似もしなくていい。自分の足で立って、自分の手で回して、自分の呼吸で揃えるんだよ」


永井の目に、じわりと熱が集まった。


「……そんな風に言われたの、初めてです」


「だろうね。でも、ナーガフェス本番でわかる。“永井君が永井君でいること”が、どれだけ価値あるか」


永井はゆっくりと息を吸い、吐いた。少しだけ、肩の重さが軽くなった気がした。


「……頑張ります、先輩」


今伊は軽く笑い、永井の肩をぽんと叩いた。


「それでいいんだ。自分の人生。誰かに邪魔されたら楽しくないでしょ?」


永井は初めて、胸を張ってうなずいた。



彼の胸に宿った新しい光を知らぬまま、ナーガフェスまでの時間は、刻一刻と迫っていた。

練習の乱れは、一瞬の迷いから始まる。けれど、その迷いが誰の心に生まれたものなのかは、まだ誰もはっきりとは気づいていなかった。

感想、評価、なんでもいいので何卒よろしくお願いします。次回もお楽しみに!


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