14話 音の残光
夕暮れの光が、練習場の床に長く伸びていた。
汗の音、息の音、そして誰かの心が鳴る音。
言葉では届かない想いが、確かにそこに響いていた。
今日もまた、それぞれの音が少しずつ形を変えていく。
「……え、今の……?」
部室内にぽつりと漏れた声に、他の部員たちも次々と視線を交わす。
久瀬は眉をひそめ、手元のメモを握り直した。
「ちょ、ちょっと待ってください……今、音早先生、響君にだけ……?」
「……いや、無理でしょ……一人で?」
来島が小さく息を漏らす。隣の陽翔も思わず腕を組む。
「さすがに、冗談だよな……?」
パートリーダーたちも目を丸くし、軽く首をかしげる。音楽室の端では東堂が唇をかみ、下を向いたまま黙っている。
空気は一瞬で張り詰め、笑い声やざわめきはすべて消えた。
ただ、響の方を見る瞳だけが、不安と疑問を隠せない。一人、また一人と肩をすくめる。誰も言葉を発せず、ただ音早の鋭い視線だけが、静かに響たちを射抜いていた。
部員たちのざわめきと戸惑いを見渡し、董白はゆっくりと腕を組んだまま言った。
「フフン、君たち、勘違いするなよ」
その声は軽く笑っているように聞こえるが、どこか冷たい緊張感を帯びていた。
「今の指示は、冗談でもなんでもない。本気だ」
部員たちは思わず顔を見合わせる。
「……え、本気……?」
「うそ……だよな?」
久瀬は机に手をつき、呼吸を整える。董白は視線を響に向け、軽く手を上げて示した。
「まぁ、分かりやすく言えば......君に一人で"合奏"してほしいということだ」
その声に、部屋の空気は一瞬で凍りついた。誰もが口を開け、次の言葉を探す。だが、答えは見つからない。
「あ、あの一人で合奏ってどいうことですか?」
永井がそう質問すると。董白は顔を顰めて言った。
「これだけ言ってもわからないのかい?ただの演奏じゃない。"合奏"をしてほしいと言っているんだよ。響君一人にね.....」
何度説明されてもわからない部員。しかし響はその言葉を理解したように頷いた。
「......わかりました。曲はなんですか?」
すると董白は安心したように口を開いた。
「そうだねぇ。ヤマトでもやってみてくれたまえ」
ヤマト......ほんの数週間前なのに少し懐かしく感じた。響はヤマトのフルスコアを出す。
静かに息を吸い込み、音を放つ。低く、太い音が地面を震わせる。それは確かにユーフォの音だった——最初は.....
だが次の瞬間、その上から別の旋律が重なる。高く突き抜ける主旋律、トランペットのように飛び抜けた高音。そして見えないパーカッションのリズムが空気を震わせた。
「おい、裏で誰か吹いてるだろ!」
「どこ?トランペット隊!?」
部員たちが慌てて辺りを見回す。だが、どこにも誰もいない。吹いているのは——響ひとり。音が重なり、広がっていく。低音、中音、高音が絡み合い、まるで五十人の部員が一斉に演奏しているような厚みがあった。
——ほんの一瞬の“違和感”を除いて。和音の隙間で、わずかに崩れた音程。ブレスが遅れた小節。
しかしそれは、嵐の中の一滴の雨にも似ていた。
誰も気づかない。誰も気づけない。音の奔流に、すべてが呑み込まれていった。
「本当になんなの……これ……」
久瀬が呟く。音が風を引き裂き、空を焦がす。ユーフォのベルから放たれる音の波が、まるで目に見えるように地を揺らした。
彼の周りの空気が、まるで別の空間のように歪んでいる。
音が頂点に達した瞬間、すべてが止まる。
沈黙。
余韻だけが、長く、長く空気を震わせた。誰も動けない。誰も息をすることすらできない。やがて、風が戻る。
彼はユーフォを下ろし、静かに目を閉じる。その姿に、誰も声をかけられない。今の演奏が何だったのか、理解が追いつかなかった。
最初に動いたのは——董白だった。彼はゆっくりと拍手をした。一度、二度。乾いた音が、音楽室に響く。その瞳には、感情の波が宿っていた。
「……本物だ。」
その一言に、全員が息を呑む。久瀬が思わず顔を上げた。
「本物……?」
董白は小さく頷いた。目は響の方を見たまま、静かに呟く。
「まさか、あの噂が本当だったとはな……」
誰も意味を掴めないまま、彼の言葉だけが風に流れる。それは独り言のようであり、祈りのようでもあった。
彼は腕を組み、微かに笑った。
——完璧ではない。
ところどころに小さなミスがあった。それでも、その音は“彗星”を思わせる輝きを持っていた。
(それでいい。あれくらいの誤差なら、誰も彼に追いつけないなんて思わないだろう)
董白の心の中に、静かな確信が生まれていた。圧倒的な孤高ではない。今の月本響は、まだ「部員の一人」として、地上に立っている。
「……見事だったよ。」
董白がそう言うと、ようやく風が吹いた。沈黙していた部員たちが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、畏怖と、憧れと、ほんの少しの希望が混ざっていた。
——音の彗星、月本響。
その名を、まだ誰も知らない。けれど、彼の音は確かに、この場所で輝き始めていた。
「さぁ。ウォーミングアップも済んだことだし、早速マーチング練習、ビシバシやってくぞ!みんなついて来れるか?!」
董白はそう言って部員を見渡した。部員は慌てて返事する。
「は、はい!!」
「......なるほど。やはり彼狙いでしたか」
誰かが放ったその言葉は誰の耳にも届くことはなかった........
体育館の扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。照明の光が反射して、床のワックスがかすかに光っている。テープが幾重にも交差するその空間に、吹奏楽部の部員たちが整列していた。
金管、木管、打楽器。それぞれのパートが指定された位置に立ち、譜面を手にしたまま、まだ動かない。
響の視線の先では、董白がホワイトボードを運び入れ、マーチングフォーメーションの図を描き始めていた。
「いいか、今日やるのは《バックドラフト》のフォーメーション確認だ」
太いマーカーがホワイトボードを走る。
「まず低音楽器達が半円に並んでいる。そこにクラ、ボーンと端から入場し同じく半円状に並んでいく。その後8小節目から左回り、テンポが変わったら後ろからベルアップだ。16小節目で中央の列が崩れ、クロスして左右に展開する。この動きが全体の“炎”の広がりを表現している」
「炎……ですか?」
香久山が呟くと、董白は軽く頷いた。
「そう。《バックドラフト》というのは、炎が空気を求めて暴発する現象だ。だからフォーメーションも、整ったままではいけない。規律の中に“暴れ”が必要だ」
彼の言葉に、空気がピンと張る。動きを止めたままの部員たちが、息を潜めてその説明を聞いていた。
「トランペット隊はここ。……そう、そこから斜めに二歩。フルートとクラリネットは後方。前に出すぎるな、音の重心が崩れる」
久瀬はソプラノサックスを持ったまま図面を覗き込み、真剣な表情で位置を確認していた。
「バスパートは、こっちの三角形の底辺を形成する。響君、君が中心だ」
董白がそう言って赤いマーカーで中央に×印をつける。
「ここが“爆心”だ。全体の流れは、ここから外へと広がる。だから君の動きがずれれば、全部が崩れる」
響は軽く頷き、立ち位置を確認する。視線の先、フロアの真ん中。そのわずか一メートル四方の範囲に、五十人分の視線が集まっていた。
「……ここが、僕の場所か」
小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。董白は一通り説明を終えると、ホワイトボードを置いて腕を組んだ。
「さて今日は演奏はしない。というかいきなりできるわけないしな。——今日の目的は自分の位置を“感じる”ことだ。どこに立ち、誰と並んで、何を見ているのか。それを間違えたまま動いても、音楽にはならない」
一拍の沈黙。
「位置につけ。……始めるぞ」
体育館の床が、再び静まり返った。全員の視線が董白と、そして中央の響へと集まる。その瞬間、空気がひときわ重くなった。
その空気を裂くように、狩川の号令が響いた。
「頭から。テンポ72。ワン、ツー、スリー、フォー!」
靴底が床を叩き、テープの上を一斉に踏み出す。その瞬間、張りつめていた空気が一気に動いた。
——しかし、すぐに乱れが起こる。
「わ、前詰まってる!」
「ちょっと右ずれた! ごめん!」
「おい、クラリネット! こっちクロスだって!」
フォーメーション図を頭に入れていたはずなのに、実際に動くとまるで違う。列はゆがみ、歩幅はばらばら。後方では誰かの足音がリズムを外し、別の列がぶつかりそうになっている。
「止まるな!乱れても止まるな!!」
董白の声が鋭く響く。
「歩きながら考えろ! 炎は止まらない!」
久瀬はソプラノサックスを持ったまま前列を引っ張るように動き、何とか形を整えようとする。
「左、もっと寄れ!……いや、詰まるな!」
「歩幅、ちゃんと考えろ!62.5cm!」
口調は荒いが、目は真剣そのものだった。列の少し後ろ、桜咲は譜面を胸に抱えながら、息を切らしていた。
(こんなに動きながらって……無理だよ……)
慣れない歩幅、頭の中で飛び交うカウント。
けれど——隣を見れば、陽翔がしっかり前を向いている。彼は乱れず、呼吸を整え、淡々とラインをなぞっていた。
「陽翔、すご……落ち着いてるね」
「いや、怖いですよ正直。でも立ち止まったらもっと怖いです」
短い会話の後、ふたりは同時に次のステップを踏んだ。
狩川は中央の少し後ろで全体を見ていた。ドラムメジャーとしての責任。ただ号令を出すだけじゃない。
誰が遅れ、どこで流れが止まっているのかを、目で追わなければならない。
(まだ噛み合ってない……テンポもずれてる……)
焦りが滲む。けれど、その奥でひとつだけ、奇妙な安心があった。
——中心にいるあの男。月本響は、揺るがない。ただ静かに、全体を見つめている。その存在だけで、空気が不思議と落ち着く気がした。
「いいぞ、そのまま進め!」
董白の声が再び響く。
「頭で考えるな、体で感じろ!“音楽”はまだ始まってもいないんだぞ!」
全員の靴音が、少しずつ揃っていく。最初の混乱の中に、確かなリズムが芽生え始めていた。
久瀬が前を向き、狩川が号令を重ねる。桜咲、陽翔が呼吸を合わせ、後方ではチューバの香久山、茅野、来島が重心を支える。
まだ形にはなっていない。でも——誰も止まらない。
やがて、董白の手が上がる。
「——ストップ!」
全員が同時に静止した。床を伝って、かすかな熱が残る。
少し間をおいて董白は小さく笑った。
「……まぁ、最初はこんなもんだな。だが悪くない。“動き”の中に、少しずつ音が見えてきた」
部員たちは汗を拭いながら息を整える。その中で、ただひとり。響だけが、何も言わず、黙って全体を見つめ続けていた。
「——よし、いったん休憩だ!」
一斉に肩の力が抜け、部員たちは水筒を手に散っていった。床に転がる汗の跡、湿った靴音。体育館の空気には、熱と安堵が入り混じっていた。
響は少し離れた壁際に腰を下ろした。手にしているのは『バックドラフト』のスコア。目で音を追いながら、ゆっくりと息を吐く。指先が紙をなぞるたび、頭の中で金管がうねり、木管が絡み合う。
——音が見える。
まだ未完成の、火のような響きが。
ふと顔を上げるとそこには瞬崎先生が立っていた。
「前半お疲れ様です。どうですか?音早先生は」
「少し口が荒い方ですが指導力は確かだと思います」
「そうですか。ならよかったです」
瞬崎は遠くを見つめながら問いかけた。
「先程のヤマトの演奏、あれは一体.......」
響はゆっくり口を開いた。
「....なぜか、出来るという自信があった。僕はただ、その思いで吹いただけです」
「それで、あの演奏ですか.....やはり君は天才だ」
「努力に勝る天才なし」
瞬崎が言い切る前に響が口を挟んだ。
「天才で埋められないものは努力で埋められる。だからこそ.....」
響は笑顔で口を開いた。
「努力って限界がないんです」
瞬崎は何も言い返さなかった。むしろ言い返せなかった。
「——休憩、終わりだ!」
董白の一声が体育館に響く。水筒を置く音、シューズの擦れる音が次々と重なり、部員たちは再び整列を始めた。午後の日差しが窓から差し込み、床のテープの上に長い影を落とす。
「後半は実際に“動きの中で音を出す”練習に入る。軽くでいい、音を“響かせる”感覚を掴め」
ざわめきが止まる。それは、つい先ほど響が見せた“ひとり合奏”の余韻が、まだ部員たちの胸に残っていたからだ。誰もがあの音を忘れられないでいる。
「テンポが変わった所.....アメリカのAからフォーメーションを崩さず吹けるか試してみよう!」
狩川がドラムメジャー棒を構え、カウントを取る。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
――金管が一斉に鳴った。音が空気を突き抜け、動きとともに広がる。だがすぐに乱れが生じた。
「クラリネット、走ってる!足とテンポがズレてるぞ!」
「トロンボーン、前出すぎだ!列が歪む!」
董白の声が飛ぶ。部員たちは汗を光らせながら、懸命に足を運ぶ。さっきまで静かだった体育館が、いまや音と叫びと息遣いで満ちていた。
隣で来島が苦しげに息を吐く。
「っは……これ……体力いるな……!」
「はいそこ、ペース落とさない!」
後ろから董白の声。数分、いや、ほんの数十秒のはずなのに、全員の呼吸は荒れ、額には汗が滲む。
「——ストップ!」
董白の腕が上がり、音が止む。全員がその場で動きを止め、肩で息をした。床には靴跡と汗の飛沫。空気が熱を帯びている。
「悪くない。だが“形”を作るのが目的じゃない。“音を生かす動き”を作れ」
董白はホワイトボードを叩く。
「炎は暴れるが、意思を持つ。お前たちは“暴れるだけの火”になってはいけない」
誰も声を出さない。ただ香久山が静かに呟いた。
「——燃やすんじゃなく、灯す……ですね」
董白の目がわずかに細まった。
「……そういうことだ。よしもう一度いくぞ。次は頭から——全体で“炎”を描け!」
狩川のカウントが再び響く。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
音と動きが重なる。今度は先ほどよりも滑らかだ。列が流れ、ラインが生きている。体育館の空気が変わった。
音が、まるで光のように走る。誰も言葉にできなかったが、確かに“火”が生まれたのを感じた。
董白が小さく笑う。
「……そうだ。それでいい。お前たちはまだ“燃え始め”だ」
音が止まり、静寂が訪れる。部員たちは息を切らせながらも、どこか誇らしげな顔をしていた。
体育館の天井の照明が、まるで炎のように揺れて見えた。
「――よし、今日の練習はここまで!」
董白の声が体育館に響く。部員たちは次々に姿勢を崩し、楽器を下ろした。張り詰めていた空気が一気に緩む。
「全体の動き、前よりずっと良くなってる。ただ――音にまだ“歩き”が足りない。動きと音がひとつになったとき、ステージは初めて“音楽”になる。忘れるな」
短くも力強い言葉だった。部員たちはそれぞれ頷く。
疲れと同時に、少しの手応えもあった。
「じゃあ、今日は解散。気をつけて帰れ!」
掛け声とともに、部員たちは荷物をまとめて体育館を出ていく。
夕暮れの風が、練習終わりの熱をそっと冷ましていった。
――そして、帰りのバス停。
響一行がバスを待っていると永井が響の方を見て、少し迷ったあと、声をかけた。
「あの……“音の彗星”って、何、ですか?」
終わったはずの音が、胸の奥でまだ鳴り続けている。
あの日よりも、ほんの少しだけ強く、優しく。
それはきっと、誰かの歩みが残した“音の残光”。
静かな夜の中で、その余韻がそっと息づいていた。
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