13話 歩く音の先に
吹奏楽部の練習は、音だけではなく、身体全体で音楽を表現することが求められる。
特にマーチングでは、歩くことすら一つの演奏だ。
今日の練習では、部員たちが足並みを揃え、呼吸を合わせる。音を出さなくても、音楽は確かに存在する。
そして新たな指導者の登場が、部員たちの世界を大きく揺さぶる――。
春の陽射しが校舎の壁を照らし、グラウンドに柔らかい影を落とす。
そこに並ぶのは、楽器を持たずに立つ吹奏楽部の面々。
ジャージ姿の部員たちは汗を光らせながら、黙々と白線の上を歩いていた。
「いち、にっ、さん、しっ!」
久瀬の掛け声が響く。横一列に並んだ部員たちはテンポに合わせて一歩ずつ進み、同じ歩幅を保とうと必死だった。
「左足から! かかと着地、膝伸ばして!」
若田が前方から声を張る。笛の合図で方向転換――右へ九十度。ざっ、と砂の音が一斉に鳴った。
ユーフォを抱えることもなく、響は空いた手を軽く前に出して歩いていた。ただ歩くだけなのに、妙に呼吸が合わない。
隣の来島と目が合う。
「……地味にキツいな、足めっちゃ重い」
二人の小声を聞きつけた若田が、にやりと笑う。
「まだ始まったばっかだよー。マーチングは“歩く音楽”だからな!」
木管列の方では、フルートやクラリネットのメンバーが真剣な顔で歩幅を測っていた。
「これ、音出すときどうするんですかね?」
「たぶん、もっと大変になると思う……」
永井と桜咲が笑い合うが、その笑みはすぐに息切れに変わった。
グラウンドの隅では、打楽器隊が別メニュー。バスドラムの代わりに空のケースを肩にかけ、歩調を練習している。
「スティックなしでも、腕の振り忘れないでー!」
パートリーダーが声を飛ばすと、ベース担当が苦笑いしながら手を振った。
ガード隊の永井と陽翔も、旗を持たずにステップの確認を繰り返していた。
「え、これって走る練習より疲れるよね?」
「たぶん……筋肉痛、確定」
二人のやり取りに今伊が吹き出し、緊張した空気が少しだけ和らいだ。
少し離れた日陰の下、顧問の瞬崎と瀬戸川が椅子に腰掛け、静かにその光景を見つめていた。
「……音も出さずに、あれだけ真剣に歩けるとはな」
瀬戸川が腕を組みながら呟く。
「ええ。よくなってはきてます。あの動きの中に“呼吸のタイミング”を掴もうとしている」
瞬崎の目は、響たち低音列を追っていた。
「本番の振り付けは外部の先生が来てからでしたよね?」
「はい。明日の予定です。」
風が一度止まり、グラウンドの音が少しだけ静まった。
笛の音が響く。再び列が動き出す――砂を踏む音が、まるで一つの拍のように重なっていく。
グラウンドに残った白線が、夕陽に照らされてぼんやりと光っていた。
「休憩!」
久瀬の声が響いてから数分。部員たちは水筒を手にして日陰に散り、誰もが足を伸ばしている。
「脚、終わった……」
「もう二度と歩きたくねぇ……」
笑い交じりの声とともに、春の風が熱を攫っていく。その中で、奏多は一人、音のない中央を見つめていた。
正門の前に一人だけ立っている。腕を大きく振り上げ、見えない拍を刻む――狩川瑪瑙。
ドラムメジャー用の棒を握り、何度も同じ動きを繰り返していた。
(ほんと、あの先輩は変わんないな……)
奏多は水筒を片手に、ゆっくりと彼女の方へ歩いた。瑪瑙は気づいていたはずなのに、動きを止めず、最後の一拍まで指揮を続けた。
「……よし」
棒を下ろして息を吐くと、奏多が口を開いた。
「休憩中ですよ、先輩。そんなに無茶したら倒れますよ」
「あ、奏多君か。ごめん、ついクセでね」
瑪瑙が苦笑する。その頬を流れる汗は、もう乾きかけていた。
奏多は水筒を差し出す。
「中学のときも言いましたよね。“止まる勇気も練習のうち”って」
「あはは、覚えてたんだ」
「忘れませんよ。三年の夏、体育館でぶっ倒れた人がいましたし」
二人の間に、ふっと笑いがこぼれた。だが、そのあと瑪瑙は空を見上げ、少し真面目な声に戻る。
「ねぇ奏多君。今の練習、どう見えた?」
「……どうって?」
「私のドラムメジャー。テンポ、まだズレてた気がしてさ」
奏多は少し考えてから、真っ直ぐに言った。
「ズレてたというより、みんなの息と違ってた気がします。歩幅とかテンポとかじゃなくて……“気持ちの息”が合ってない感じ」
瑪瑙は驚いたように目を細め、そしてゆっくり頷いた。
「……やっぱり、奏多君はそういうとこ、鋭いよね。昔から“音より人を聴く”タイプだ」
「たぶん、先輩が“音しか見てない”から、釣り合うんですよ」
「はは、それは手厳しい」
瑪瑙は笑って、棒を軽く振った。
その軌跡の先に、春の陽が差し込み、白線がわずかに光った。
「ありがとう、奏多くん。君が見てる“呼吸の方の音”、もう少し聴いてみるよ」
「……じゃあ、次の練習は一緒にやりますか?僕も歩く方の音、まだ掴めてないんで」
「いいね、それ」
二人の間に風が通り抜け、遠くから部員たちの笑い声が聞こえた。
瑪瑙は再び棒を構える――今度は少し、柔らかい表情で。
夕陽が沈みかけ、グラウンドの白線が赤く染まっていた。片付けを終えた部員たちは、息を整えながら音楽室へと戻っていく。
汗で張り付いたジャージの背中には、それぞれの“今日のリズム”が刻まれていた。
「……はい、それじゃ全員そろったね」
久瀬が前に立ち、手元のメモを軽くめくる。練習後のミーティング。窓の外では、まだ風が砂を巻き上げていた。
「ここ一、二週間のマーチング練習、よく頑張ってると思う。最初の頃より、だいぶ“歩くテンポ”がそろってきた。音がなくても、“音楽として見える動き”になりつつあるね」
周りから安堵の声が聞こえたが久瀬はすぐに空気を締めた。
「でも――まだ“見られる演奏”にはなってない。歩幅も姿勢も、人によってバラバラ。自分の動きが合ってるかどうか、周りを感じる目をもっと使ってほしい」
部員たちは静かに頷く。若田が前列でメモを取り、永井がこっそり筋肉を伸ばしていた。
「それと、今日は誰も音を出してないのに、みんなすごく疲れたと思う。マーチングは“歩く音楽”って言うけど、ただ歩くだけじゃない。身体全体で“曲の呼吸”を作る練習なんだよ」
久瀬の言葉に、響が少しだけ顔を上げた。その目には、さっきまでのグラウンドの砂の色が映っていた。
「……それを、次の段階でさらに深めていく。――瞬崎先生、お願いします」
久瀬が視線を送ると、瞬崎がゆっくり立ち上がった。
「いよいよ明日から、“外部のマーチング指導者”が来ます」
ざわっ、と空気が揺れた。
打楽器列から声が小さく漏れる。
「まじか.....」
「どんな方かは――来てからのお楽しみです。ただし、一つだけ言えるのは、本格的な指導になるということ」
部員たちの表情が一斉に引き締まる。久瀬もその様子を見て、静かに頷いた。
「今までの“基礎”が、どれだけ身体に入ってるかを見られると思います。音と動き、どっちか片方じゃダメだと。……そういう方です」
瞬崎は言葉を区切り、全員を見渡した。
「さぁ、明日は、気持ちを新しくして臨みましょう。“歩ける演奏者”になるための、本当の第一歩です。分かりましたか?」
「はいっ!」
声がそろう。その響きは音楽室の天井を震わせ、夕暮れの光の中へと溶けていった。久瀬は少し微笑んでから、静かにまとめる。
「よし、今日の反省は以上。各パート、明日までに“自分のテンポの癖”をチェックしておいて。――今日もお疲れ!」
拍手と笑い声が広がる。誰もが足を引きずりながらも、どこか誇らしげな顔をしていた。
その中で、響はふと外を見た。グラウンドに残る白線が、まだほんのりと光っている。
“歩く音楽”――その意味を、少しだけ掴んだ気がした。
夕暮れの風が、街の角を静かに抜けていった。部活帰りの生徒たちが制服の袖を揺らしながら歩く中、響たちはいつものバス停前で並んでいた。
「今日も結構歩いたなぁ……」
来島がリュックをずり上げ、ぐっと背伸びをする。
隣の陽翔はスマホをいじりながら呟いた。
「でもなんか、形になってきた感じはするよね」
そのときだった。
「……っ」
舗道の向こうから、見覚えのある背中が歩いてくる。
黒いジャージにフード。どこか苛立ったような歩幅で、東堂が彼らの横を通り過ぎた。
響の顔を一瞬だけ見た。
そして、何も言わずに――舌打ちをした。
乾いた音が、夕暮れの空気を切り裂いた。
「……は?なんだよ、あいつ」
来島の眉が吊り上がる。
「マジで感じ悪ぃな」
陽翔も低く吐き捨てるように言った。
響は何も言わなかった。ただ、遠ざかっていく背中を静かに見送る。どこか、痛みとも怒りとも違う何かが、胸の奥で微かに疼いた。
「……あの時のこと、まだ根に持ってんのかね」
来島の声に、誰も答えなかった。
沈黙のまま、バスがゆっくりと停留所に入ってきた。
排気音が響き、夕日の中で三人の影が少し伸びる。その影の先で、東堂の姿はもう見えなかった。
翌日、音楽室には部員たちがいつもより少し早めに集まっていた。窓から差し込む朝の光が譜面台を照らし、空気は昨日より少し張り詰めている。
「じゃあ、今日も――」
久瀬が口を開こうとしたところで、瞬崎が前に立った。
「練習の前に、皆さんに報告があります。外部指導の先生が来る前に、聞いておいてほしいことです」
部員たちは一斉に顔を上げ、瞬崎の表情を見た。その真剣な目に、普段の朝よりも重みを感じる。
そのとき、音楽室のドアがゆっくり開いた。
ドアの前に立っていたのは東堂だった。彼は一歩ずつ音楽室の中に入る。
フードを外し、手は自然に下ろしているが、部屋の全員を射抜くような視線が鋭い。
「……えっ」
来島も陽翔も、椅子から腰が浮きかける。瞬崎は手を挙げ、静止させた。
「落ち着いてください。説明します」
部員たちは自然と座り直した。
「以前の東堂君の暴力事件は皆さんご存知ですよね。彼は一定期間、部活を出禁になっていました」
瞬崎の声は静かだが、重みがあった。
「本日から、条件付きで部活復帰を認めます」
部員たちのざわめきが広がる。驚きと困惑の空気が一瞬で音楽室を覆った。
「問題が再発した場合は即時、部活復帰の取り消し。以後の部員復帰は認めないものとします」
瞬崎は、東堂の顔をしっかりと見据えた。
東堂は軽く頭を下げ、低く声を出す。
「……皆さんにご迷惑をかけたこと、申し訳ありませんでした。今後もよろしくお願いします」
その言葉に、部員たちの表情は微妙に変わる。
瞬崎は静かに頷く。
来島と陽翔は顔を見合わせ、無言で頷く。桜咲も小さく息を吐き、部屋の空気はピリリと張りつめたまま。
それでも瞬崎は部員たちの反応を軽く確認すると、いつもの声のトーンに戻った。
「それでは報告はこの辺にして......どうぞお入りください」
そのとき――
「失礼しまーす!」
待ってましたと言わんばかりの元気な声と共に、音楽室の扉が大きく開く。背筋を伸ばして入ってきたのは、外部指導の先生だった。一歩、また一歩――彼は大股で瞬崎の立つ指揮台まで歩いてくる。
その姿だけで、部員たちは息を呑み、視線を釘付けにされた。サングラス、麦わら帽子、そして肩にかけた譜面袋。
歩き方や身のこなしから、ただ者ではない雰囲気が滲み出ている。
指揮台前に立つと、大股で軽くジャンプするようにステップを踏みながら部員たちを見渡す。
「皆さんこんにちは!そして待ってましたよ、マーチング戦士たち!」
部員たちは驚きと戸惑いで困惑の表情を浮かべる。響も眉をひそめつつ、思わず軽く笑いそうになる。
「僕の名前は音早董白!自分で言うのもあれだけど、マーチングと金管のスペシャリストで、名門音早家17代目当主!さらに元全日本マーチングバンド協会会長だっ!」
部屋中に響き渡るテンションの高さに、来島と陽翔は思わず目を合わせて小さく吹き出す。
「……ちょ、待って、サングラスに麦わら帽子って……めっちゃバカンス仕様じゃん!」
「でも、すごいんだよな……この人」
董白は腕を大きく広げ、得意げに言う。
「服装で判断するなよ! 見た目はバカンスでも、指導力は本物だな!ハハハハ!!」
部員たちは笑いとざわめきが入り混じる中で自然と背筋を伸ばした。
董白が勢いよく自己紹介を終え、部員たちのざわめきが少し落ち着きかけたそのとき――瞬崎は前に出て、にっこりと微笑む。その笑みはお得意の狂気めいた雰囲気を帯びていた。
「本当に、あなたは相変わらずですね」
瞬崎の声は柔らかいのに、奥底で圧がじんわりと伝わる。
「遊びではないんですよ。部活なんですから」
董白は一瞬立ち止まり、目を大きく見開く。
「ひえ〜、瞬崎先生……君も相変わらずおっかないね〜」
手を少し挙げて笑いながら、部員たちの方を向く。部員たちは一斉に笑い声をあげ、緊張していた空気が一気に和む。
董白は再び指揮台前で軽くジャンプしながら、
「でも大丈夫! オレは怖がらず、楽しんでやるタイプだから!つーわけで今日からガンガンやっていくぞーっ!」
瞬崎は軽く首をかしげ、苦笑いしながら言った。
「……本当に、油断なりませんね」
部員たちは笑いながらも、二人のやり取りに引き込まれ、自然と姿勢を正した。しかし董白はすぐに真顔になり低いトーンで言った。
「と、言いたいところだが君たちはまだ僕の指導は受けられない。.......というか受けさせない」
突然の発言に部員たちは口を開けた。一瞬のうちに音楽室の雰囲気はまた重くなった。
「どういうことですか?」
久瀬が口を開くと董白は響に指を差し叫んだ。
「月本……いや、音の彗星よ!一人で立て、そしてここにいる全員に“音楽の真価”を示すのだ!」
歩くだけでも、仲間と呼吸を合わせるのは決して簡単ではない。
けれど、その一歩一歩の中に、少しずつ自分たちなりのリズムが生まれていく。
この物語を読んでいる君にも、そんな“歩く音楽”の手触りを、そっと感じてもらえたらと思う。
感想、評価ぜひお願いします。次回もお楽しみに!
※ストーリー展開の関係で1話ごとの長さが変動するかもしれません。ご了承ください。




