12話 重なる鼓動
遅れてしまって本当に申し訳ありません。まだまだ定期更新はきついかもしれませんが暖かく見守っていただけると幸いです。
音を重ねることは、心を重ねること。
それは簡単なようでいて、誰かと向き合う覚悟を問われる行為だ。
今日も、それぞれの音が、同じ空の下で鳴り始める。
放課後の練習棟二階。いつものバスパートの教室に、低くうねる音が響いていた。
「っぐ、はぁっ……マジで……無理……!」
チューバの来島が額に汗を浮かべながら、息を吐いた。
『バックドラフト』――重低音が途切れず続く、体力勝負の曲だ。
「ぶおおっ……ぶっ……ごぉ……!」
音が荒れ、管が共鳴して空気が震える。ピッチは崩れ、タンギングも追いつかない。
「……はぁ……肺、終わった……」
来島はチューバを抱えたまま、ぐったりと椅子にもたれた。響は隣でユーフォを膝に置き、静かにその様子を見ていた。
「……頑張ってるね」
「うるせぇ、見てんなよ……恥ずかしいだろ」
「別に。音、悪くないと思うけど」
「いや、悪いだろ!爆発音だぞこれ!」
来島が苦笑混じりに吠える。響は小さく息を漏らして、ほんの少しだけ笑った。
「でも、“やめない音”って、いいと思うよ」
「……は?」
「どんなに崩れてても、途中で止まらない音。――それって、強いと思うから」
来島はしばし黙って響を見た。その真っ直ぐな目が、冗談じゃないことを告げていた。
「……お前、たまに変なこと言うよな」
「そう?」
響は立ち上がり、譜面を指で押さえた。
「まぁいいか。もう一回、Aからいこ」
「おいおい、まだやんのかよ……!」
「吹けるようになるまでやる。僕も一緒にやるから」
来島はため息をつきながらも、再びチューバを構えた。響もユーフォを持ち上げ、深く息を吸う。再び、重く分厚い低音が教室を満たす。
汚くても、どこか真っ直ぐな音だった。
しばらくすると、教室のドアが静かに開いた。
「……お、まだやってるのか」
顔を出したのは、三年チューバの香久山。その後ろから、ユーフォの若田、さらに二年チューバの茅野と二年ユーフォの桜咲が続く。
みんな委員会の仕事を終え、戻ってきたところだった。
「二人とも、ずっと吹いてたんだね」
若田が優しい笑みを浮かべ、息を整えながら声をかける。来島はチューバを抱えたまま肩で息をし、汗で額が光っている。
「っす……肺、死ぬかと思いました……」
「そりゃ無理もない。低音地獄の曲だからね」
香久山は譜面を軽く覗き込みながら落ち着いて言う。茅野と桜咲も教室に入り、譜面台を置いた。
「一年生、頑張ってるねぇ」
桜咲は笑顔で息を整えつつ、軽く手を振った。若田は響に視線を向ける。
「響君、来島君の音、今どう感じる?」
「……うーん、苦しそうだけど、意志はある感じです」
「そう。それでいいんだよ」
若田は優しく頷き、続ける。
「無理にきれいな音を出そうとしなくてもいい。今は“止まらずに鳴らす”ことが大事だから」
香久山が補足する。
「Aの入り、少し腰据えて吹けば崩れにくくなる。焦ると音も乱れるから」
桜咲が響に向けて小声でつぶやく。
「同期で頑張ってるのって、いいよね」
響は軽くうなずき、ベルを構え直す。教室の空気は少し柔らかくなり、低音の練習が再び始まった。上級生たちの“温かい視線”が、二人の音をそっと支えていた。
来島がチューバを抱え直し、ふと顔を上げた。
「……あれ、そういえば永井と今伊先輩は? 今日は教室にいないっすよね」
若田がユーフォを抱えたまま首を傾げる。
「確かに、見当たらないね」
香久山も譜面を片手に机の上に置きながら頷いた。
「うん、2人ともここにはいない」
茅野がすっと手を上げ、即答する。
「2人はマーチングのガード練習してます」
来島は少し安心したように息をつき、チューバを軽く揺らす。
「なるほど……そっか、ガードか」
桜咲が小さく笑って付け加える。
「一緒に吹けるのはもう少し後だね」
響は横で静かにベルを押さえながら、軽くうなずく。
教室の低音練習はそのまま、先輩たちに見守られながら再開された。
グラウンドの隅。春の午後の日差しが、練習着の袖を少し暖かく照らしていた。
「はい、構えて! 足はしっかり開いて!」
声を張るのは、三年コンバスの今伊。その横で、一年の永井とバスクラの陽翔。それぞれ必死に旗を振っている。
マーチングの旗、通称カラーガードで“動きの正確さ”を意識した練習だ。
「もう一回、テンポに合わせて!」
永井が小さく息を吐きながら旗を振る。陽翔もリズムを確認しつつ、何度も同じ動きを繰り返す。
「腕が重い……!」
陽翔が顔をしかめる。だが今伊は優しく声をかける。
「焦らないで。正確にやれば、スピードは後からついてくるから」
永井も肩で息を整えつつ頷いた。
「なるほど……まず形を作ることからですか」
少しずつ動きが揃ってくる。風に揺れる旗の軌道が、リズムに乗って滑らかになっていく。
「よし、もう一回通すよ!」
今伊の号令で、グラウンドの隅に小さな“チーム”の集中が生まれる。
息が合うたびに、体の動きと旗の動きがぴたりと重なり、まるで小さな音楽のように揃った。
「……少しは形になってきたか」
陽翔が小さくつぶやき、苦笑しながらも少し自信が出た表情を見せる。
春の風が、砂を軽く舞い上げる。グラウンドの片隅で繰り返される“ガード練習”は、見た目以上に力のいる、そして確実に成長を刻む時間だった。
教室の低音パートの練習がひと段落した頃、桜咲がふと口を開いた。
「そういえば、瞬崎先生、今それぞれのパート回って練習見てるんだって」
来島がチューバを抱えたまま顔を上げる。
「え、マジっすか? じゃあもしかしてこの後教室来るんですか……」
響も横でユーフォを押さえながら、軽くうなずく。
「なるほど……だからさっきから校舎内が少し慌ただしかったのか」
若田がにっこり笑いながら、肩をすくめる。
「焦らなくていいよ。先生は厳しいけど、的確に見てくれるから」
香久山も穏やかにうなずく。
「各パートの課題も把握してるし、今日みたいに苦戦してる一年生にも、ちゃんとアドバイスくれるはずだ」
響はベルを構え直し、次のフレーズに意識を集中させた。
教室には、先輩たちの優しい視線と、先生が見てくるという少しの緊張感が漂っていた。
放課後の練習棟、クラリネットパートの教室。低音の教室とは違い、ここは少し薄暗く、空気が重い。
「……ストップ。もう一度、最初から」
瞬崎の声は低く、冷静だが鋭く響く。
クラリネットの三年女子パートリーダーは両手で譜面を押さえ、肩で息をする。
「す、すみません……」
音は途切れ途切れ、テンポはバラバラ。パート全体の音量も揃わず、厚みがない。
瞬崎は譜面を見下ろし、静かに指摘する。
「このフレーズのスタッカート、全く揃っていない。拍感がバラバラじゃ、メロディは成立しない」
三年は目に涙を浮かべるが、下を向き、言い訳はしない。
「あなたたちの練習の積み重ねが見えない。努力はしているんでしょうけど、成果として出せていない」
パート全体が息を詰め、誰も声を出せない。瞬崎の視線が一人一人を通過するたび、教室の空気はさらに重く沈む。
「もう一度確認します。全ての音符、全ての休符、頭で理解してから指を動かすんです。理解していないまま吹いても、ただの音の羅列なだけですよ」
三年は小さく頷き、肩を震わせながらも譜面に視線を戻す。涙はすでに頬を伝い、手元のクラリネットに落ちる。
「……はい……」
瞬崎は言葉を続けるが、その口調は決して怒鳴るのではなく、冷静な絶望感を帯びた指摘だった。
その時、二年のクラリネットの女子が眉をひそめて口を開いた。
「……そういえば、陽翔の奴はどこ行ったの? まさかサボってるんじゃないの!」
瞬崎はすぐに静かに答える。
「彼はマーチングのガード練習に行かせました」
三年は一瞬言葉に詰まった。
「え……でも、後輩の技術が心配じゃないんですか?」
瞬崎の視線は冷たく、静かに教室全体を見渡す。そして、まるで当たり前のことのように言った。
「後輩の技術を心配するなら、まず自分の技術を心配したらどうです?」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気はさらに重く、暗く沈んだ。
クラリネットの音も、泣きながら譜面を見つめる三年の肩の震えも、全てがその冷たさに押しつぶされそうだった。
二年は目を見開き、しばし黙り込む。言葉を返せず、ただ瞬崎の指摘の重さを胸に刻むしかなかった。
瞬崎は冷静に譜面を見下ろし、パート全員の呼吸を確認する。
「音楽は、感情だけで支えられるものではありませんよ」
教室の薄暗い空気が、静かに、しかし確実にパート全体の重圧となってのしかかる。
低音パートの教室。譜面台の並ぶ静かな空間に、ユーフォとチューバの低い響きがゆっくりと重なっていた。
「……ふぅ、さすがに息切れた……」
来島がチューバを抱えたまま息を吐くと、桜咲が笑いながらタオルを投げてよこした。
「おつかれ。ちゃんと音は繋がってきてるよ」
「マジっすか、ありがとうございます……」
和やかな空気が流れたそのとき、廊下の向こうから足音が近づく。
靴底が床を踏む音――静かで、けれど確かなリズムを刻む音だった。
香久山が最初に気づき、そっとドアの方に目をやる。
「……来たな」
音を立てずに入ってきたのは、瞬崎だった。
「失礼します」
低く落ち着いた声が響く。教室の空気が一瞬で張り詰めた。
来島が反射的に背筋を伸ばし、響もベルを押さえたまま視線を正面に向ける。桜咲も若田も、自然と姿勢を正した。
瞬崎は部屋を一望したあと、静かに口を開いた。
「お待たせしました。少し前のパートで時間がかかってしまいまして」
瞬崎は続ける。
「Aから、全員で合わせます――と言いたいところですが」
瞬崎はゆっくりと腕を下ろした。
「まず、基礎から確認しましょう。チューニングから」
低音パート全員が頷き、姿勢を正す。若田が短く合図を出し、ユーフォの低いB♭の音が静かに教室に満ちた。
それに合わせて他の部員が音を重ねていく。空気の震えが均一に広がった。
瞬崎は耳を傾けながら、譜面台の前に歩み寄る。
「……悪くない。ピッチも安定している」
彼の声は冷静だが、どこか柔らかさを帯びていた。
「もう一度。今度は、音を“響かせる方向”を意識して。壁にぶつけるんじゃなく、床から立ち上がるように」
響が深く息を吸い、ユーフォを構える。息を入れた瞬間、重くも透明な音が鳴った。それに呼応して、来島たちの音も自然と重なっていく。
瞬崎は軽く顎に手を当て、わずかに頷いた。
「……今日見て回った中で、一番いいです」
その言葉に、教室の空気が一瞬止まった。桜咲が小さく目を丸くし、来島が思わず隣を見やる。来島も驚いたように息を止めた。
「クラリネットは拍感が崩れていた。トランペットは息の方向が定まらなかった」
瞬崎は淡々と比較を挙げながら続ける。
「だが、君たちは“音の支え”を理解している。形になっている」
若田が少し照れたように笑い、香久山も静かに頷いた。
「ありがとうございます。でもまだ安定しきっていません」
「それでいいんです」
瞬崎は即答する。
「安定していないことを自覚しているうちは、まだ伸びる」
来島が小声で呟いた。
「うわ……マジか、褒められた……」
桜咲が笑いを堪えるように口元を押さえた。だが瞬崎の目は、依然として真剣だった。
「ロングトーンを十拍ずつ。音を“支える筋肉”を意識して。――始め」
再び、低音が鳴る。
今度は先ほどよりも深く、確かな重みを持って広がっていった。音の重心がぶれず、全員の息が一つに揃っていく。瞬崎は静かに腕を組み、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情には、わずかな安堵――そして、確かな期待が宿っていた。
やがて練習も終わり、音の余韻がゆっくりと消えていく。
静まり返った教室に、瞬崎の声が落ちた。
「――では、今日はここまでにしましょう」
部員たちがほっと息をつく。緊張の糸が緩み、あちこちで軽い笑い声が漏れる。
だが、瞬崎の言葉はすぐに続いた。
「今週末――正式に、マーチングの外部指導が来ます」
教室の空気が再び引き締まった。
香久山が尋ねる。
「来週....ですか?」
「そうです。ナーガバンドフェスタに向けて、全体の動きと立ち位置を本格的に作っていく。音だけでなく“見せる音楽”として完成させるための期間になります」
若田が小さくうなずきながら、周りを見回す。
「つまり――本番モード、ですね」
「その通り」
瞬崎はわずかに口元を緩めた。
「この低音のまとまりなら、十分に支えになれる。引き続き基礎を怠らないように」
そう言って、指揮棒をそっとしまった。
「お疲れさまです」
その一言で教室の緊張がほどけ、部員たちは自然と拍手を送った。
響も静かにユーフォを抱えながら、胸の奥で何かが温かく広がるのを感じていた。
――いよいよ、始まる。
誰もがその実感を胸に抱きながら、放課後の光の中を歩き出した。
夜の河川敷。街の灯りが川面に滲み、風がゆるやかに流れていた。トロンボーンの音が、静かな夜にひとつだけ響く。
東堂は、いつもの位置に立ち、独りで吹いていた。
「……久しぶりだな、この感じ」
短く息を吐き、マウスピースから口を外す。彼の足元には譜面もなく、ただ音だけが残っている。
しばらく沈黙が続いた後、ぽつりと呟いた。
「――そろそろ....戻る...のか」
風が吹き、制服の裾を揺らす。東堂は夜空を見上げ、少し笑った。
「みんな、音……変わってきたんだな」
その声には、寂しさと、どこか懐かしい響きが混ざっていた。そして小さく、誰にも聞こえないように続ける。
「……あの日の続きを、今度こそ鳴らせるかもしれないな」
トロンボーンを構え直し、再び音を放つ。夜風に乗った旋律が、川の流れに溶けていった。その音は――まるで、再開の合図のように......
「でも.....あいつは......あいつだけは、ステージに立たせるわけにはいかない。何がなんでも.....」
部の音が少しずつ形を取り戻していく中で、それぞれの想いもまた動き出す。
響と来島が見せた“止まらない音”、そして東堂が抱える“止めたい音”。
同じ音楽の中にあっても、彼らの鼓動は決して一つではない。
次回、外部指導のもとで始まる本格的なマーチング練習――
部全体が新たな局面を迎える。
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