11話 静かな旋律
春の朝、少し冷たい空気の中で、今日も音を重ねていく。砂を踏む足音、息づかい、仲間たちの声――
小さな一歩ひとつが、確かな手応えとなる。
夕暮れが近づく頃には、部活の汗も、光に溶けていく。
そして夜、静かな時間に向き合うとき、また違った景色が見えてくる――
音楽は、ただの音以上のものを伝えてくれるのだ。
少し肌寒い春の朝。グラウンドの上に、吹奏楽部の列が並ぶ。
「いち、に! いち、に!」
久瀬の声が響く。
始めたばかりのマーチング練習――まだ二日目。部員たちの足取りはどこかぎこちなく、列も微妙に波打っている。
「右足から!はい、そこ遅れてる!」
若田の低く通る声が続く。
「ストップ!そのまま姿勢キープ!」
部員たちは息を弾ませながら、両手を胸の前で合わせたまま静止した。土の上に立つ音だけが、グラウンドに残る。
少し離れたところで、その様子を瞬崎と瀬戸川が見つめていた。穏やかな春の光が、二人の影を長く伸ばす。
「……まだ動きが硬いですね」
瀬戸川が帽子のつばを軽く押さえながら言う。彼女の声は落ち着いているが、視線は鋭い。
「始めてまだ二日ですからね。まぁまぁだと思います」
瞬崎が静かに笑う。風になびく髪と爽やかな表情。それでもその目は、練習中の列をひとりひとり追っていた。
「久瀬、よく声出してますね」
「そうですね。前よりよく通る。若田君も“見て指導する”ってことを覚えてきたと思います」
「……ほんと、に少しずつですけど変わってきてますね」
瀬戸川が少し口元を緩める。
「それまでの練習が嘘みたいですよ。まさかあなたが来て数週間でここまで変わるとは」
瞬崎は短くうなずいた。
「今はまだ“形”を覚える段階。でも、もう少しで“音楽”に変わる」
その言葉には穏やかさと、どこか厳しい響きが同居していた。
「焦らせず、でも妥協しない――難しいですね」
「はい、難しいです。でも、それが一番大事ですから」
瞬崎の声は柔らかいが、目の奥には揺るがない芯がある。
グラウンドの中央で、再び笛が鳴る。
「もう一回いくよー!テンポ、キープ!」
久瀬の声に、部員たちが動き出す。砂を蹴る音、息の音、ステップの音――
まだ音楽には遠いけれど、その中に“前に進む意志”が確かにあった。
グラウンドから校舎脇の通路へ向かう三人。足取りはまだ重いが、休憩と同時に少しずつ会話が増える。
「はぁ……もう、足パンパンだよ」
陽翔がため息混じりにバスクラを抱える。
「でも、俺バスクラだし、マーチングできないよな、日光直撃したら割れるし……」
奏多は少し笑いながら、肩の力を抜くように言った。
「多分、ガードじゃないですかね」
「ガードねぇ.....」
陽翔はまだ心配そうだが、少し安心したように頷く。
三人が歩きながら談笑していると、学校の正面玄関の前で、一人の部員がバトンを持ち、ドラムメジャーの練習をしているのを見つけた。
「……あれ、誰だっけ?」
響がが軽く首を傾げて言う。
「ふーん、誰だろ」
奏多は少し笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「あぁ、あの人は副部長で、トロンボーンパートリーダーの狩川瑪瑙先輩ですよ」
陽翔はまだ目を見開いたまま。
「マジで上手い……あんなにバトンを自在に振れるのか」
奏多は一瞬目を細め、懐かしそうに息を吐いた。
「……さすが中学時代からの先輩。マーチングのこと、何でも知ってるんですよ。あの動きは本当に上手いですよ」
ふと、狩川が奏多の存在に気づいたらしい。バトンを軽く止め、にっこり笑いながら手を振る。
陽翔は目を丸くし、思わず心臓が跳ねる。
「え、今手振られた……てかめっちゃ可愛い……」
内心で少しドキドキし、顔が熱くなるのを感じた。響は横でそれを見て、目を細める。
「……陽翔、落ち着けって」
軽く肩を小突くようにして、陽翔を冷静に止める。
奏多は微笑みながら、少しからかうように言った。
「中学の先輩ですしね。あの手の振り方も自然です」
陽翔はまだ目を輝かせながらも、響に促されて少し落ち着きを取り戻した。
三人はゆっくり歩きながら、狩川の背中を目で追い続ける。
その姿は、まだまだ憧れでいっぱいだった。
水分を補給し、少し息を整えた部員たちは、再び列を整えてグラウンドに戻った。土の匂いと、砂を踏む感覚が、休憩前とは少し違って感じられる。
「よし、後半戦始めるよ! テンポはそのまま、足の位置確認!」
久瀬の声が響き、部員たちは両手を胸の前に合わせて動き出す。前半よりぎこちなさは減ったが、足取りはまだ安定していない。
「右足、もっとしっかり伸ばして!」
若田の低い声が列を通る。部員たちは汗を拭きながら、指示に従って動く。
自分のステップに集中しつつ、横目で列の状態を確認する程度。
「……まだ揃ってないか……」
陽翔が小さくつぶやく。
その時、中心部の間隔が少しずれ、前の部員が足をひっかけて転倒。
「わっ!」
声が上がり、後ろの部員もよけきれずに倒れ、まるで小さなドミノ倒しが起きた。
「ひぇ、焦った.....」
陽翔が顔を赤くしながら小声でつぶやいた。
すぐに久瀬が駆け寄り、転んだ部員を助け起こす。
「大丈夫か! 痛くない?」
若田も近くで声をかけ、列の修正を促す。
「はい、みんな落ち着いて。列を戻してもう一度!」
部員たちは深呼吸をして、再び列を整える。
「まだ慣れてないな……」
誰かが苦笑する。
奏多は軽く肩をすくめ、少しほっとした表情を見せる。
久瀬は息を整えながら、列全体を見渡す。
「二日目にしてはかなり良くなってる。後半は集中力勝負、最後まで頑張ろう」
部員達は汗をぬぐいながらも、黙って頷く。
まだ完璧ではないけれど、確かに“前に進む意志”は強くなっている。
そうして時間は過ぎていった。
夕暮れの光がグラウンドをオレンジ色に染める頃、休日練習がようやく終わった。
部員たちは汗だくで、砂のついた足でゆっくりと列を離れる。
「みんな、お疲れ様」
久瀬が手を叩きながら声を上げる。
「今日は一日中みっちりだったけど、みんなよく頑張ったね」
部員たちは肩で息をしながら、笑顔や疲れ顔で応える。
「ふぅ……やっと終わった……」
「でも、少しは形になってきたかな」
久瀬は一人一人の顔を見渡し、短く頷く。
「二日目にしては十分だよ。まだまだだけど、今日の積み重ねが必ず成果になる」
久瀬は少し口調を変え、軽く声を落とす。
「ちなみに、土日の休日は今日みたいに全体練習をして、平日は基本的に個人パートで曲の練習をお願いします」
部員たちはうなずき、理解したように頷く。
「なるほど……平日は個人か」
「でも今日みたいな休日練習はやっぱ楽しいな」
その時、瞬崎が少し微笑みながら前に出た。
「私からも連絡があります。来週の朝部活で、4、5月分の部費、一人一万円を徴収します」
部員たちは一瞬目を丸くした後、同時に笑いが漏れる。
「いきなりかよ……!」
「でも、決めたのは皆さんですよね」
瞬崎はいつもの笑顔で返す。瀬戸川も、その様子を穏やかに微笑みながら見守っていた。
夕陽に照らされた砂埃が、今日の努力と、明日への期待をそっと包み込むようだった。
その時、家のインターホンが鳴った。
「ピンポーン」
母が立ち上がり玄関に向かう。僕はその後を追った。
「ただいまー」
「あ!おかえり愛美」
母が返事をする。誰かが帰ってきた、という認識だけで特別な感情は湧かない。
「お!響じゃん。久しぶり。2年ぶりかな」
愛美は明るくからかうように言う。
「あ、うん」
会話は淡々としている。母親が声をかける。
「愛美、早く手を洗ってご飯食べなさい」
「はいはい、わかってるって!」
愛美は軽やかに手を洗いに行き、元気な声だけが響く。響は再び食卓に戻り、ゆっくりと箸を動かした。
しばらくすると愛美が手を洗って戻り、食卓に座る。
「遅くなっちゃった、ごめんね」
「いいよ、今ちょうど食べ始めたところだし」
響は箸を置かずに軽く返事をする。母親がにこやかに愛美に話しかける。
「最近、学校忙しいんでしょ? ゼミとかどう?」
「うん、やることは多いけど、楽しいよ。バイトもあるし、結構充実してるかな」
愛美は元気に箸を動かしながら答える。父親も口を挟む。
「勉強もバイトも忙しいのに、ちゃんと夕食に間に合うんだな」
「そうそう。だから今日もちゃんとご飯食べなきゃね」
愛美はにこやかに言い、時々箸をつつきながら会話を続ける。響は淡々と聞き役に徹し、箸を動かしながら軽く相槌を打つ。
「ふーん」
「へー」
会話の中心は愛美で、家の中には穏やかで少し賑やかな雰囲気が流れる。響は自分から話すことは少ないが、姉の明るい声と笑顔を静かに見守った。
家に少し賑やかさが加わったことは感じるが、特別な意識はなく、自然に夕食の続きを楽しんでいた。
夜の自室。机の上にはバックドラフトの楽譜が広げられている。響は静かにページをめくり、指で譜面を追いながら、息を整えている。部屋の明かりが譜面を優しく照らす。
「……このフレーズ、どうやって吹こうかな」
その時、ドアが開く音がした。
「こんばんはー、響!」
響は驚いて顔を上げる。
「え、愛美……入ってきていいの?」
愛美は笑顔で手を振り、何事もなかったかのように部屋に入ってくる。
「別にいいでしょ、いつもここでなにやってるか気になってたんだし」
響は少し戸惑いながらも、楽譜に目を戻す。
「……バックドラフトの楽譜見てたんだ」
愛美は机の横に腰かけ、興味津々で譜面を覗き込む。
「ふーん、結構難しそうじゃん。響、毎日ちゃんと練習してるんだね」
響は淡々と頷く。
「うん、休日練習の後とか、少しずつ自分で確認してる」
愛美はにやりと笑う。
「相変わらず真面目だねー。ちょっとくらい休んでもいいのに」
響は軽く肩をすくめ、視線を譜面に戻す。
「まあ、休むのはそれからでもいいかなって」
愛美は譜面を覗き込みながら、ふと遠い記憶に目を細める。
「そういえば……小学生のとき、オーボエやってたな」
唇の端がわずかに緩む。
「当時の先生……あの人、アドバイスがすごく的確で……今思えば、あのときの練習があったから、多少のことは大丈夫なんだよな」
目の前の響の楽譜に目を戻すと、愛美の表情は少し柔らかくなった。
「……あんたのそういう姿見ると、自分も頑張ってた頃を思い出すよ」
声には軽い微笑みが混ざるが、過去の記憶を思い返す瞬間は、誰にも邪魔されない静かな時間だった。
しばらく静かに譜面を眺めた後、愛美は突然思い出したようにスマホを手に取り、ゲームのクエスト攻略をチェックし始める。
「よし、今日のクエストも片付けなきゃ」
そのまま軽やかに立ち上がり、部屋を出ようとした瞬間――ふと響に向かって、小さく、しかし声のトーンをぐっと低くして囁くように言う。
「あ、響、気をつけなよ……3年間なんてあっという間だし……思い出なんて、簡単に消えちゃうんだから」
響はその言葉に一瞬目を止め、胸の奥がぞくりとする。愛美は振り返らず、足早に廊下を進んでいった。
部屋には静寂が戻り、窓の外に夜の風がかすかに揺れる。
響の胸には、姉の低く響いた声が静かに、しかし深く刻まれていた。
「.....へぇ。あの子が東縁にいるんだ」
「えぇ。やはりあなたも知っていましたか」
「そりゃ音楽界隈で彼を知らない人なんていないよ だろ?」
「そうですか......」
「にしても驚いたよ。音の彗星の異名を持つ彼が、こんな弱小吹奏楽部にいるなんて……」
休日の練習に汗を流し、夕暮れの光に包まれた一日。
部員たちは少しずつ、自分たちの音や動きに手応えを感じ始めている。夜、静かな自室で楽譜を見つめる響と、ふと現れた姉。その短い会話の中にも、時間の速さや、思い出の儚さを感じさせる瞬間があった。
小さな出来事の積み重ねが、やがて大きな音楽となる――
そんな予感を残しつつ、次の一歩はまた明日から始まる。
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