俺だけの気持ち
あれから数日が経った。運動会の余韻はもうほとんど消えかけていて、教室にはいつもと変わらない日常が戻っていた。
けれど、悠にとっては少し違っていた。
「悠、ほら、また本読んでんの?昼休みなんやから、ちょっとくらい喋ろうや〜。」
そう言って隣の席にドカッと座る雅哉。少し汗のにおいがするジャージの袖が、机の上で悠の教科書にかぶさる。
「あ、ご、ごめん……読んでただけ……」
悠は慌てて本を閉じる。雅哉が近くにいると、心臓が落ち着かない。前までならこんなこと、なかったのに。
『なあ、あの時、抱きついたん…はどういう意味?』
聞けなかった。その言葉は、ずっと喉の奥でひっかかっている。雅哉はあれから、何事もなかったように普通で、それが余計に悠を不安にさせていた。
ーー多分友達として普通のことだろう。辛くなるし考えるのはやめよう。
何度も何度もそう唱えた
「なあ、放課後さ、ちょっと寄り道せん? なんか今日……お前と帰りたい。」
急にそんなこと言われて、悠は一瞬、思考が止まった。
「……え?」
「え、いや、たまにはいいやん?」
雅哉の笑顔はいつも通りで、それがまた、胸を苦しくする。
⸻
帰り道。日が傾いて、夕焼けがアスファルトを赤く染めている。
コンビニで買った缶コーヒーを飲みながら、雅哉がふいに呟いた。
「なあ……悠って、誰か好きなやつとか、おるん?」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「……え?」
「いや、なんかさ。最近、お前、ちょっとぼーっとしてるし。もしかして……って。」
(気づいてるの?)
(いや、違う。雅哉はきっと、そんなわけ――)
「……いないよ。」
嘘だった。本当は目の前にいるのに、好きな人。
「そっか。まあ、悠はそういうの、あんまり興味なさそうやもんな。」
雅哉は笑ってそう言った。無邪気で、残酷な笑顔だった。
悠は、黙ってうなずくしかできなかった。
(興味ないわけじゃないよ……)
好きって、こういうことなんだろうなって思う。毎日一緒にいて、笑って、ふざけて。近くにいるだけで嬉しくて、でも、言葉にすればきっと全部壊れてしまう。
「……雅哉は? 好きな人、いるの?」
ふと、聞いてみた。聞きたくなかったのに、勝手に口が動いた。
「え、俺?んー……さあ。なんかよく分かんねーや。」
肩をすくめて笑うその顔が、あの運動会の時と同じくらい無防備で、胸が痛くなる。
「たぶん……今は誰かを好きとか、そんな気分じゃねーな。お前と飯食ってんのが楽しいし。」
「……そっか。」
またその“お前”だ。“お前”が特別って意味じゃない。“親友”としての距離を保ったままの優しさ。わかってるのに、言葉のひとつひとつに心が反応してしまう。
「なあ。」
不意に、雅哉が立ち止まる。
「……ん?」
「聞くか迷っててんけど、この前のさ、運動会のあと……抱きついたやつ。」
悠の心臓が、跳ねた。
「なんか……変やったってか、、嫌やったか??」
「……ううん。嬉しかった。」
小さく、でもはっきりと言った。嘘じゃない。本当の気持ち。
ーまさか雅哉から言われると思わなかった
気にしてたの俺だけじゃなかったんだ。
雅哉は一瞬だけ目を見開いて、それからふっと笑った。
「そっか。……じゃあ、よかった。」
それだけ言って、また歩き出す。悠は、ほんの数秒、その背中を見つめていた。
(このままでいいのかな……)
好き。でも言えない。伝えたら終わってしまう気がして。
でも、今みたいに、すこしだけ踏み込める瞬間があるなら――
このまま、もう少しだけ、近くにいたい。
それでいつか、俺と同じぐらい、ここまで来て。




