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落ちこぼれハーフは悪い先生に出会う

 まるで、古い御伽噺に登場する人物のようだった。


 そこは月光に照らされた淡い緑の草花の上であり、大きなご神木の下であり、少女の目の前にいるモノが自分が主役だといわんばかりに妖しく輝いていた。

 白を基調とした和装に身を包み、少しばかり袖を振れば蛍火の如き光が舞い上がる。堂々たるその姿は「我、ここにあらん」と世界を平伏させかねない力強さがあった。


 この世ならざるそのモノから、少女は目が離せない。彼の美しい金色の瞳に魅了でもされたのか、身体が固まってしまっている。


 彼が少女に凛とした声で話しかけてくる。「お前らしくて良い」と認めてくれている。ピンチに駆けつけた正義の味方のように。


 ただ、この例えだと誤解が生まれるかもしれない。

 目の前にいるモノは“正義の味方”なんてものではなく。


「さて、ついでだ。特別授業をしてやるから……大人しくしろよ?」


 少女よりもずっと綺麗でずっと強い、ずっと危険な化物で、

 いきなり服を脱がしにかかる正真正銘のくそやろうなのだから。



 ◇◇◇



 有真ナルは、山奥の坂道を登りながら荒い息を吐いていた。


「ハァ…ハァ…」


 周りを木々に囲まれた坂道は、人間が歩けるように多少整備はされている。しかし、都会で暮らしている者からすれば「ないわ~」と愚痴るレベルで、一歩道から外れた瞬間にサル・シカ・イノシシ等の野生動物のテリトリーたる森だ、山だ。


 そんなところをよろよろフラつきながら歩くナルの姿は、周囲の緑と半ば同化している。着ているのが芋っぽい緑色のジャージで、持っている学生鞄も古びた茶色だからだ。


 本当なら初登校日までには新しい制服が届くはずだったのだが、運が悪いのか未だに届いていない。仕方なく手元にあった体操着か私服に着替えるハメになったが、どちらも他の生徒達から奇異の視線を向けられる可能性が高い。ゆえに、なるべく目立ちたくなかったナルは違う学年の生徒に見てもらえそうな地味なジャージ姿をセレクトした。


 さらに、あえてボサッとさせた金髪は飾り気のない二つの三つ編みに。赤い瞳は分厚いレンズのメガネでカバー。

 本来なら自然と目立ちそうな要素を全力で排除にかかったその姿は、地味度MAXの田舎娘に少なからず近づいた自信ありありのコーデ。


(……結局、あんまり意味はなかったけど)



 マイナスな努力が徒労に終わった原因。

 それは結局はジャージ姿が目立ったからではない。そもそも周囲にそれを気にする者が誰もいないからだ。


 不思議なことにナルが歩いている道には誰の姿もいない。友達同士で談笑していたり、「よっ、おはようさん!」なんて気さくな挨拶も交わされていない。たまに吹く風でさわさわと山の息吹を感じるだけだ。

 

(だ、大丈夫かなぁ。わたし、遭難なんてしてないよね?)


 ナルは段々不安になってきた。

 だが、それもしばしの辛抱。きっと校舎が見えてくれば、そこには明るい雰囲気のちょっと変わった学校が――――。


「……ないじゃない!」


 青春を謳歌している学生達のにぎわう姿を妄想しながら、ふらつきそうな足をふんばって坂を上りきった。ナルの第一声は大きな愚痴だった。


 これまで心の中だけで声をあげていたナルだったが、今回はさすがに文句をつけたい気持ちが外に漏れ出た。


「これはどこまでが校庭なの!」


 手作り感あふれる木製の看板に“校庭”と書かれている。だが、そこから先には少しだけ手を入れた原生林しか見えない。


「アレが校舎!?」


 石垣という名の校門から真っ直ぐのびる道の先にある建物は、肝試しにはもってこいな感じの木造建て。ちょっとした拍子にくしゃ♪ と潰れそうな程にボロい。更にざっと教室1つ分程度の小ささ。



「なにより……なんで人っ子ひとりいないのーーーーー?!」


 ナルの大きな叫び声があがっても、何の反応も返ってこない。

 まさかまさかと思いながら、ナルは急いで校舎(?)へと猛ダッシュした。

 昇降口(玄関)→廊下(短い)→教室(とおぼしき部屋)へと走っていき、ガラガラと立てつけの悪い扉を開ける。


 外観に比べれば幾分整っている内部には、いくつもの机と椅子が並んでいる。前の方には教壇と黒板がある。


 一度教室を出たナルは廊下の窓を開けた。大変広大そうな庭――林が広がっている。右に進めば昇降口なので、逆に左へと進む。即座に突き当たった場所にあるドアをオープンしたら、トイレだった。


 他に誰かいそうな場所も見当たらないため、再度教室へと戻る。

 だが、誰もいない。

 しーんと静まり返って、寂しさが半端なかった。


「な、なんでぇ……?」


 へなへなと膝から崩れ落ちていくナル。

 いくらココが《変わった学校》だからといって、初日に誰もいないなんて有り得るのか。次々に浮かぶ疑問の果てに彼女が辿りついた答えは、


「……学校単位で転校生ドッキリを仕掛けている?」


 そんなわけない。

 しかし、そんな頭が残念な子のように考えてしまう程度には、今のナルは意気消沈していた――のだが。 


「ジャージ姿でへたりこむなんて……あなたはそんなに体育の時間が待ちきれなかったんですか?」

「はうっ!?」


 気配もなくいきなり背後から声をかけられ、ナルの心臓がドキーンと跳ねた。ついでに跳び上がりながら勢いそのまま声の主へと振り返る。


 そこにいたのは、Yシャツ&スラックス姿のメガネ男だった。

 若く見えるが、ナルよりは年上で、成人はしているように見える。全体的にパッとしない――地味な雰囲気だ。ただ、じっとナルを見つめる眼鏡の隙間から覗く黒い瞳は印象的だった。


 まるで心の奥底まで見透かすような、不思議な瞳だ。


「無反応……ああ、もしかして生徒を装ったドロボーでしょうか? それなら警察に通報しないといけませんね」


 ひどい勘違いにナルは反射的に答えた。


「ち、違います! わたしはちゃんとした生徒です!!」

「冗談ですよ。本気にしないでください」


 スマホを片手に持ちながら言われても信じられるはずもないが、とりあえず男がスマホを耳から遠ざけたのでナルは一安心する。


「それで、どうして有真ナルさんはココにいるのでしょうか?」

「え、なんでわたしの名前を……?」


「その意外とゆた――胸のトコに名前が書いてありますから」

「……いま、“豊かな”って言いました?」

「イタズラ狐か狸の戯言ですよ。きっと僕にあらぬ罪を着せようとしてるんです」


 口元だけで微笑む男の態度に「なにそれ……」とナルが極小ボイスで呟く。


「それより、えっと、先生……ですよね?」

「ええ、そうですよ」


 おそるおそるとしたナルの質問に対して、彼はあっさりと応じた。



「初めまして、夢中狐狸ゆめなか・こりです。よろしくお願いしますね、転校生の有真ナルちゃん」



 いきなりのちゃん付けに対して好意的になれるほど、ナルはフレンドリーでも陽の者でもない。

 とはいえ差し出された手を無視できる程スルースキルも高くないため、おずおずとその手をとる。


 狐狸の手は思ったよりも温かかった。


/


「……今日が、登校日じゃない?」

「はい、今日はまだお休みです。あなたが登校するべきは明日以降になりますね」


 教室の机に横並びに座っている狐狸が「残念でしたね」と、机に突っ伏すナルに慰めの言葉をかける。

 ギィと木の床が軋んだ音を出した。


「で、でも、登校初日は今日だって伝えられたんです。だからわたし、制服が届かなくても、こんな恰好で……」

「ふむ、それはおかしいですね。その連絡はどなたから聞いたんですか?」

「……遠い親せ――いえ……家族からです」


 若干どもりながら話すナルの言葉に、狐狸は再度「ふむ」と声を発しながら頭の横を掻いた。


「ここに転校生向けに書かれた連絡プリントがありますが、ご覧になりますか?」

 どこから取り出したのか。

 多少折れてクシャクシャになったプリントを差し出されて、ナルが文面に目を落とす。そこには確かに明日の日付が載っていた。


「はぅぅ……」


 可愛らしくも恥ずかしそうに、ナルの顔が増々ずーんと沈んでいく。なんとも憐れなご様子だ。


「そんなに気を落とさないで大丈夫ですよ。ちょっとした不幸な入れ違いじゃないですか」

「……違うんです。わたし、いつもこんな感じで……」


「というと?」

「生まれつきの不幸体質と言いますか……運が悪いんです。だから、色々と失敗ばかりで……周りから呆れられて……少しでも迷惑にならないように目立たなくしようと……でもまさか初日から登校日を間違えるなんて大ポカを……」


「ナルちゃん。どんよりした負のオーラが割増しで漂ってきてますよ」

「ふふふっ、いいんです。わたしなんか芋ジャージネガティブ娘で十分なんですよ。こんなんだから、家族からも意地悪されるんです」


「おや、家族とは険悪なんですか?」

「険悪というか……一方的に嫌われてます。その、わたしが一族の出来損ないなので……」


 今考えれば、ナルに登校日を教えてくれたのも変だったのだ。

 絶対に間違えないようにと、叔母は何度も念押しして日付を伝えてくれた。それでも、まさか渡してくれたプリントまで偽造するとは思ってもみなかった。

 鞄に入れてきたそのプリントは、ナルがどれだけ嫌われているかの証明になってしまっている。


「あー、なるほど。これはまた手の込んだ悪戯ですね」

「ちょっ!?」


 横の席に座っていた狐狸の手元には、何故かナルの学生鞄があった。さらにはそこに入れていたはずの連絡プリントまでしげしげと眺めているのだから、ナルが「いつのまに?!」と焦るのも無理はない。


「人の鞄を勝手に漁るなんてッ」

「すいません、見せてもらえますか」

「事後承諾!?」


「うーん、どうしてそこまでしますかね? たとえあなたがぶっちぎりで無能の地味ダサドジッ子に見えたとしても」


 さすがにそこまでは言ってない。

 ナルはそう反応したかったが、出来なかった。

 それよりも早く、目の前の男がじっと彼女の瞳を覗きこんできたからだ。


「そんなのは勘違いだと、気づきそうなものですが」


 眼鏡越しに、綺麗な目が自分を見つめてくる事に対してナルの肌がゾクリと粟立った。

 何故か目を離せない。不思議な力のようなものに目を背けるなと命じられているかのようだ。


「ナルちゃん」


 そう呼ばれた少女は最初から感じていたが、何故この人はわたしをちゃん付けするのだろうと改めて想った。ちょっとムッともしていたが、そんな心情を毛ほども気にしないで狐狸は言葉を続けてくる。

 まるで、孫をあやす祖父のように優しく、彼の文言がすんなりと心に入り込んでくる。


「あなたは自分がダメな子だと思い込んでるだけですよ。言うなれば自分自身への嘘つきです」

「……嘘つき」

「はい、本当のキミはそんな姿ではないんですよ。閉じこもってないで解放すればいい。ココはそれが許される場所です」


 いつの間にか手を握られていた。手に触れたのはもう二度目になる。

 女子とは違う、大きくて力強い男の手だ。

 初対面の男にこうして触れられてるはずなのに、ナルに不快感はない。むしろ安心感に近いものすら感じている。


「先生は……人間ですか?」

「どうしてそんな事を?」

「その……どこにも特徴が見られないので。わたしが不勉強なだけかもしれないですけど」

 

 もし、その質問を普通の人間に訊かれたら、さぞ不思議に思われただろう。けれどこの学校では不思議でもない。

 有真ナルが転校してきたこの学校は、普通とは異なる学び舎で――人ならざる者達が集まる場所なのだから。


「私はヒトですよ。キミ達に人間について教えるための特別教師です」

「そうなんですね……」

「あ、嘘ですから信じないでくださいね?」

「嘘!? 信じられない、どうしてこのタイミングでそんな事いうんですか?!」


 怒りながら手をふり払って立ち上がる。

 その拍子に座っていた椅子どころか、勢い余って背後に並んでいたいくつかの机達が吹っ飛んでいった。 


「なに、ちょっとした耐久テストみたいなものですよ」

「耐久テストぉ……?」

「どうやらあなたは、現代でよく聞くコミュ症の類いではないようですね。それから感情が高ぶると隠しきれなくなるようだ」

「何を……」


「気づいてないんですか。そんなに可愛らしい翼なのに」


 そこまで言われて、ナルはようやくハッと気付いた。

 背中から蝙蝠のソレに似た一対の大きな翼が飛び出している事に。後ろで転がっている机は、その翼にぶつかってそうなっているのだ。


 それが有真ナルが人間ではない証明だった。

 つまり有真ナルはこの世界で生きる人外の一人であり、その種族は糧となる血を求め、夜闇を愛する者。


 吸血鬼ヴァンパイアである。


「事前に校長から話しは聞いていましたが、この東方で吸血鬼とは珍しい。不慣れな事も多いでしょうが、色々とよろしくお願いしますね」

「な、なんでデリカシーのないあなたとよろしくしないと……」


「それはですねぇ」


 ニコニコ笑いながら、狐狸が返答をもったいぶる。

 だがその目はまったくニコニコしていない。むしろ、愉しい玩具を見つけた時の猫のようなソレに近かった。


「僕があなたの担任、狐狸先生だからですよ」

「え…………?」


 いきなりの新事実発覚に、ナルは翼を出したまま固まった。

 ゆえに気づいていない。

 

 教室の窓から入りこんだ日光によって生まれた狐狸の影が、口元だけ意地悪そうな笑みを浮かべていたことに。


(うぅ……最悪だぁ)


 今度こそちゃんとした登校日を迎えたナルは、昨日のことを思い出しながら幻ではないボロイ木造校舎?に足を踏み入れた。

 向かう先は教室だが、靴を脱ぐまでの足取りと表情は重い


(まさか、あんな人が先生で……ううん、先生なのはいいとしても担任なんて……)


 思い返せば昨日の自分は、どうして初対面の男性にあんなにもペラペラと話をしてしまったのか。それはナルにもよくわかっていない。

 ただ、狐狸の言葉は妙にすんなり心に入ってきた。合わせてあの瞳に見つめられると、なんとも抵抗感が薄れていったような気がしてならない。


(もしかして……何かされてた?)


 人ならざる者――妖あやかし・妖怪と呼ばれる者は、それぞれ特殊な力を使える事が多い。かくゆうナルもそういう力は備わっており、机を薙ぎ倒してしまった翼がそれだ。

 しかし狐狸からはそういった力の行使を感じさせる変化は何もなかた。少なくともナルから見てはだ。

 翼や耳が生えたわけでも、炎や氷が生まれたわけでも、幻を見せられたわけでもない。


(うう~ん……わからない)


 いつぞや『強力な妖怪は誰にも気取られずに術が使えたりする』と聞いたことはある。しかし、まったく圧を感じさせない平々凡々のふつーの人っぽい印象な狐狸が、強力な妖怪とはどーにも結びつかないのだ。


「……ちょっと強引で意地悪で、いきなり手を握ってくる辺り手が早そうではあるけど」

「おや、そんな人物に心当たりがおいでで?」

「はうぁ!?」


 背後からその“心当たり”に声をかけられて、ナルは飛び上がった。ついでに背中の翼も少しだけ外にはみ出てしまう。机を倒した時よりもずっと小さい、マスコットキャラのようなちんまい翼だ。


「おはようございます、有真ナルちゃん」

「ひゃッ! ど、どこに触りながら挨拶してるんですか?」

「おっと失敬。背中の翼があまりにも興味ぶか――可愛らしかったもので」


 ちょんちょんと突っつかれているだけだが、慣れない刺激にナルの背中がゾワゾワと震える。他人に翼を触られる機会なんて早々ないからだ。

 見られるのすら躊躇われる、翼だからだ。

 


「……可愛くなんてないです。とても人様に見せられるものでもないんです」

「僕は可愛いと思いますけどね」

「……飛べなくてもですか?」


 ナルの口からネガティブな事情が明かされると、狐狸は「ふむ?」と相槌を打ちながら昇降口という名の玄関口から廊下に上がる。


「何かおかしいですか? 僕は飛べませんよ」

「先生は吸血鬼じゃないですし」

「ええ、そうですね。得手不得手は誰にでもあるものですから」

「……私は家族よりも不得意なことばっかりですよ」


「ハッハッハッハ、あなたは朝っぱらからネガティブダメ子ちゃんですね~。それも吸血鬼だからですか? 朝は苦手で?」


 ゆーっくり移動しながら立て続けに繰り出される質問によって狐狸との距離感がまったく掴めず、ナルは動揺した。

 特にネガティブダメ子ちゃんなんてあだ名は御免こうむりたい。


「朝は苦手じゃないです。多分ふつーです」

「なるほど。それでは顔色が優れないのは女の子の事情でしょうか。無理はしなくて大丈夫ですよ」

「はぅっ、転校初日で緊張してるだけです!!」

「元気そうでなにより」

「狐狸先生。いつもそんな調子ですか? 朝から無駄に元気そうですね」


 ちょっと刺々しい言い方もなんのその。

 狐狸は至って平然と返した。


「新しい生徒が加わるのに、陰気な先生は嫌でしょう?」

「距離が近すぎる陽キャな先生も微妙です。今度から“無駄にセクハラ太陽先生”って呼びますね」

「ハッハッハッハッ! これはまたしっくりきそうなあだ名ですね」


 ナルとしては物凄い悪口を言ったはずなのだが、狐狸は全く気にしてないどころか陰気さを笑い飛ばしてしまう。


(なんだか……ムッとするだけ無駄な気がしてきたかも)


 しゅるしゅるとナルのムッとする度が萎んでいく。

 余計な毒気はすっかり抜かれ、バカバカしくなっていた。


「ただ、あだ名にしてはソレは長いし不便でしょう。呼びづらい上に授業中に使ってしまえば教室が笑いの渦に包まれそうです。。そして、僕は校長室へドナドナされてしまうでしょう。これはよろしくない」

「……ふふっ。それじゃあ先生を追い出したい時に使うのが良さそうですね」


「出来ればご遠慮願いたいですが……まあ、ナルちゃんの気分が少しでも晴れるならどうぞお好きに」

「え?」


 それは本当に使ってもいいのか? の意が、その「え?」に集約されていた。


「ささっ、緊張もほぐれたようですから、後は自己紹介用の小粋なジョークでも考えましょう。場を整えたら呼びますので、ちょっとだけ教室入口の横で待っててください」

「は、はい……」


 確かに、既にナルの緊張は消えていた。

 心なしか表情の暗さも和らいでいる。


「そうそう、ナルちゃん」

「まだ何か……?」

「ふつーの吸血鬼は翼で飛べるかもしれませんが、基本的に陽の光に弱く、何の対策も無しに日中を行動できません。それが可能なあなたは既にふつーの吸血鬼なんかよりも優れた点を1つお持ちですよ」


 一瞬だけ眼鏡の向こうから妖しい瞳を覗かせながら、狐狸は今度こそ教室へと入っていった。


「…………変な先生」


 残されたナルが、指示されたとおりに引き戸の横で待ち始める。

 その間、彼女の胸には不思議な嬉しさが生まれていた。

 ソレがなんなのか。ナルにはまだわからなかった。


 有真ナルは絶句する。


『では、中へお入りください』


 彼女は心の臓がバクバクうるさいのを堪えて、転校生を待つ教室への一歩を踏み出した。ガッチガチな動きで同じ手足を前に出しながら黒板の前へと立ち、大して前も見ずに教壇へ頭をぶつける勢いでお辞儀をする。


「あ、有真ナルです! ……その、よろしくお願いしマシュ!」


 そして、頭を上げた直後に絶句したのだ。

 何故ならちょっと噛んではしまったけれど、ナルにとって大分成功している挨拶に反応が返ってこなかったから。

 何より、教室に並んでいる机には誰も座っていなかったからだ。


「いやー、いい挨拶でしたよナルちゃん。頑張ったあなたには花丸をあげましょう」


 パチパチと、狐狸の小さな拍手が虚しく響く。


「……先生」

「はい、無駄にセクハラ太陽先生です」


 ひどいあだ名はナルが付けたものだが、自分から言い出すなんて考えもしなかった。口では気にしてない風を装っていたが、どうやら根に持たれているらしいと判断するには十分すぎる。


「なんで……他に誰もいないんですか?」


 だがそんな事よりも、現状に説明を求める方がナルの優先事項だ。

 至極当たり前のツッコミに対して狐狸は大分愉快そうである。


「集団ボイコットですかね?」

「なんで疑問形!?」

「冗談ですよ。単に今日がナルちゃんのオリエンテーションだからです。まずはこの学園についてもっと知ってもらわないといけませんからね」

「他の人は?!」

「今回の転校生はあなただけ。他の皆はオリエンテーションを終えてますので」


 予想外すぎる回答に、ナルの心が挫けはじめる。

 陰キャと自覚している彼女にとって初日の挨拶は、かなりの心労を伴うものだ。割と上手く行ったさっきの挨拶と同じことは出来る気がしない。

 それどころか、


(……失敗して無反応なら仕方ないって納得できる。でも、誰もいない無人の空間に勝手に名乗ってお辞儀したなんてダメージが大きすぎてッッ)


 正確には狐狸がいたのだが、既に会っているので挨拶相手にカウントされていなかった。

 それになにより。


「なんで誰もいないって教えてくれなかったんですかぁ!? わたし、すごいイタイ子みたいですよ!」

「訊かれなかったので」


「はうぅ……もうダメです。次に登校した時には、クラスの皆に笑われること請け合いですぅッ」

「大丈夫ですよ、ナルちゃん」

「え? もしかして黙っててくれるんですか?」


 この先生なら喜んで今の恥を広めそうだ。そう思っていたナルが嬉しげに表情をゆるめ――。


「広まっても大丈夫なように、先に僕が大笑いします。くっ、くっくっく、ワーッハッハッハッハッハ!!」

「最低!? 最低の人でなしがココに!!」

「人じゃないですからねー。さっ、おふざけはこの辺にして席に座りましょう」

「ふ、ふざけてないのに……わたし、全然ふざけてないのにぃ……」


 不憫なナルだったが、反抗する気力もなさそうに大人しく教壇前の席に座った。


「では、ナルちゃんのイタ芸で場が温まったところでオリエンテーションを始めましょう!」

「引っ張らないでくださいッッ!」


 ナルがぶん投げた学生鞄が、狐狸の顔面に炸裂した。




///



「さて、有真ナルちゃん」

「ちゃん付けは止めてください」

「ではネガティブダメ子さん」

「……すいません、贅沢は言わないので元に戻して」


 登校して間もないというのに、ナルは既に疲れ切ってしまいそうだった。片や狐狸といえば、楽しくて仕方がないといったご様子である。


「改めて。ナルちゃんはこの学園がどういう場所かご存じですか」

「……妖怪のための学園、ですよね?」


「そのとおり。より詳しくするなら、妖怪が人間について学ぶ場所です」


 カツカツカツと小気味よい音を鳴らしながら、狐狸の持ったチョークが簡単な学校の絵を描いていく。一緒に人間と翼を生やしたナルらしいデフォルメ絵があっという間に追加された。どれも妙に愛嬌があって可愛らしい。

 

「人とは異なる者――総じて妖怪と呼ばれる者達が人間との共存を諦めて随分長い時間が経ちました。もはやその存在は忘れられ、伝承や御伽噺に出てくるだけの架空の存在扱い。日陰者です」

「日陰者……」


 ナルのリアクションを確認しつつ、狐狸のちょっと卑屈っぽい説明は続く。


「自分達からそうなるような行動をしたので当然といえば当然ですがね。うかつな事をすれば退治されるだけ……では、現代となっては済まないでしょう。おそらく宇宙人と同じように扱われます、実験材料です。よくわからないアームや装置であっちこっち探られて、あられもない姿に――」

「あの……なんでわたしの身体を見ながらいうんです?」

「興奮するかなと」

「しません!!」


「さて、とにかく我々人外が気軽に人間の世界を出歩くには問題が多い。文化レベルも大きく後れをとっており、人間が科学の力で効率的に楽をしながら娯楽でいっぱいのひゃっほい人生を送る中、妖怪はテレビも漫画もなければ墓場で運動会もしません。かまどと囲炉裏で飯を食ってるようなレベルです」


「えっと……日本の妖怪ってそんな感じなんですか? 私の家族は人間と同じような生活をしてましたけど」

「吸血鬼は見た目も身体も人間に酷似してるので、人間の道具はそのまま使えてラッキーって感じです」

「ラッキー……ですか?」

「規格が違い過ぎて人間用の道具を使いたくても使えない妖怪も多い。猫又さんはスワイプしようとして画面に爪痕が残りますし、一つ目小僧さんは顔認証に失敗します」


 その説明でナルが想像したのは、スマホにじゃれてる猫と嘆いてる子供だった。後者はまだ可哀相に思えるが、前者に至っては可愛さしかない。

 尚、目の前でスマホをタプタプ操作してる狐狸は可愛げの欠片もなかったが。


「先生が授業中にスマホいじっていいんですか?」

「ハッハッハッ、ナルちゃんは人間の学生のような事をおっしゃいますな。ここは妖怪学園ですよ? そんな普通のルールがあると思います?」

「じゃあわたしもスマホを使っていいと」

「もちろんダメに決まってるじゃないですか」


 ナルのムカッとゲージが1ポイント溜まった。


「まあ、そもそもスマホを使いこなせる生徒なんて少数です。それ以前に学ばないといけない事は山ほどあります」


 どさどさどさっと、ナルの机にたくさんの教科書が積み上がる。

 人間の学校で使われている教科書もあるが、その多くは妖怪学園でしか使わないオリジナルだがしっかり製本されており、人間が学校で使う物と大差はない。

 

「『現代の言葉の使い方』、『人間らしい所作』、『能力の使い方』……」


 ナルは勉強があまり得意ではない。そもそも好き好んで誰がやるのかと思っており、その辺りは若者らしいといえばらしかった。


「うぅ、これは大変そう……」

「ま、必要になったら利用すればいいんですよ。なにせ最も大事な勉強では教科書なんてあっても使い辛くて仕方ない」

「最も大事な……?」

「ソレは、なんだと思いますか?」


 急に問題を出されてナルは「はぅ」と小さく呻いた。

 そんな事を問われても良さげな回答が出てこない。しかし、目の前の狐狸は楽しげにナルの答えを待っている。


 しばし悩ましい時間が過ぎていき、ようやくナルはぽつりと口を開いた。


「妖怪だとバレた時の対処法……とか?」


 熟考の末にこわごわ答えると、狐狸がとても満足気に頷いた。


「お見事!」

「……あっ」


「素晴らしい、ビビリ癖のありそうなナルちゃんらしい答えですね」

「褒めてるのか貶してるのかどっちかにしません!?」


 クソ教師ここに在り、である。


「いえいえ、大事なのは“自分なりに考える事”なんですよ。コレを出来ない人に教えるのはとても難しい。ですが、キミは既にそれが出来ているわけです。スゴイですよ」


 まただ。ナルは不思議な感覚を味わっていた。

 目の前にいる先生の言葉は、こんなにもあっさりと、不思議と胸に沁みてくる。

 だが、ナルの心のもやは深く、まだ晴れない。

 秘密を公開してもいいとは思えない。


 ただ――この先生であれば……と傾き始めてはいた。



「……狐狸先生はそう言うけど、わたしは凄くなんてないです。だから……あんまり褒めないでください」

「褒められるのはお嫌いで?」

「…………」


「ノーコメントですか。ならばどちらでもないと判断して、僕はあなたを褒められる時はもっと褒めることにしましょう」

「嫌がらせですか」

「滅相もない。僕がそんなものを好むように見えますか?」


 明らかに嘘をついている雰囲気しかない、胡散臭い声色と表情。

 それは会って間もないナルでもわかる程だ。


「どうして、そんなにかまうんです……」


 いつぞや、ナルが家族に似たような事を訊いたら。


 『気に入らないから』


 と返ってきた。では、狐狸の場合はどうかというと。


「先生ですからね」


 それと、と狐狸が付け加える。


「僕がそうしたいからです。単純でしょう? さあ、オリエンテーションは始まったばかりですよ。もう少し話したら、今度は学園内の施設をご案内しましょう」

「それも先生が?」

「はい。この学園に詳しいこの僕が案内するからには、知っててお得な情報もオマケしますよ」


「たとえば……?」

「誰にも見つからずに敷地外へ脱出できる、秘密の抜け穴なんてどうです?」


 それのどこがお得なのかナルにはわからない。

 授業をサボるという発想が、根が真面目な彼女にはないためだ。

 

 だから狐狸のお得情報は冗談だと判断されたが、ナルの表情にはほんのりとした笑みが無自覚に浮かんでいた。


(……ほんとに変な先生)


 それからのオリエンテーションの間、ナルのテンションはダメダメにはならなかった。



 その代わりに。

 休憩時間中にとても深刻そうな顔でうんうん唸る彼女がいたが、その時に狐狸が声をかける事はなかった。


夜。

 ナルと狐狸は学園の正門前に集まっていた。


 下校する直前。

 ナルが「聞きたい事があるので直接お話する時間はありますか?」と尋ねたら「仕事が終わった後でよければ大丈夫ですよ。校門前で待ち合わせでもしますか」と話しがついたからだ。


 夜更けに先生と生徒が逢瀬。あるいは逢引き。

 普通ならそうとられかねない状況だが、吸血鬼にとって夜は本来活動時間。

 狐狸はそれを知っていたからこそ、夜に会おうとしてくれたのだ。



「ご、ごめんなさい先生。少し待たせちゃったみたいで……」

「気にしなくていいですよ。むしろちょうどいいぐらいですから」


 気温は高くも低くもなく、長袖を着ていればちょうどいい程度。

 とはいえ一応学園前に集まるのであればと、ナルは律儀にようやく届いた制服を着て、その上には吸血鬼用の黒マントを羽織っていた。


「やあ、かくれんぼに強そうなマントですね」

「そんな発想するのは先生だけです。……コレは吸血鬼なら誰でも持ってる正装みたいなものなんですから」

「なるほど、吸血鬼を象徴する物であると同時に隠密行動向けなのですね。よくお似合いですよ」


 狐狸の遠慮のない褒め言葉に、ナルの顔が耳まで赤くなった。


「あ、ありがとうございます。このマントはお婆ちゃんが作ってくれたもので、わたしも気に入ってます」

「ナルちゃんさえ良ければそのマントを着て学園に来るといい。服装に関する校則はとても緩いので問題なしです」

「あ、はい……考えておきます」


「是非。そのマントを羽織りながら“この学園は今日から有真ナル様の物だ。逆らうヤツは血ぃ吸ったるどー!”と闊歩するのが楽しみですね」

「しませんからね!? 先生の吸血鬼像おかしすぎですよ!」


 狐狸の意味ワカラン高速パスに、ナルが吠える。

 彼女は転校生であっても、別に西洋に長く居たわけではない。むしろ日本で暮らしている時間の方が長く、日本生まれ日本育ちの吸血鬼――。そんな一風変わった境遇だ。


 だが、ナルは断言できる。

 そんな変な吸血鬼はどこにもいない、と。


「……あの、先生。改めてお話したい事がありまして」

「お悩み相談ですか。僕が言うのもなんですが、よく僕に話そうと思いましたね?」

「ほ、他に……話し相手がいないのでっ」


 ナルは半分以上を誤魔化した。

 話せる相手が他にいなかったのもあるが、割合でいえば狐狸ならば相談してもよいと思えた方がずっと大きいのだ。


「ハッハッハッ、それは仕方のない理由ですね。では良い話し相手になれるよう出来る限り頑張りましょうか」

「あ、は、はい……いやその、えっと、別に本当は狐狸先生だと嫌だとかじゃないので……そこはその」

「無理はしなくていいですよ。さっ、それでは早速どうぞ」

「……はいぃ」


 上手く気持ちを伝えられなかったナルがしょんぼりしてしまったが、狐狸に先を促されたのならそれ以上弁明をしても仕方ない。


「………………」


 ただ、いざその時になってみると、ナルは言葉が上手くまとまらなかった。もどかしさが募り「早く何か言わなくちゃ」という気持ちが空回りして、無言の時間が続く。


 何かに縋るように少女は夜空を見上げた。


 山の木々が邪魔で、浮かんでいる月がよく見えない。正面にいる狐狸に視線を戻す事もできず、ナルはそのまま見上げる形で固まってしまった。

 狐狸からすればこの子は一体何をしたいのだろうかと考えるのも当然な状態。訪れた変化は視界を通過する蝙蝠の影くらいのものだ。


(ああ……ダメだなぁわたしは)


 ナルの心にネガティブな色が広がっていく。

 もう諦めてしまいそうになる。自分からお願いしておきながら、怖気づいてしまう。

 

 ――秘・密・を明かして、もし狐狸にも遠い家族達のような目で見られたら……そう考えてしまう。 



「よしッ」


 パンッと手を叩く明るい音が響き、長い沈黙が打ち消された。


 

「どうやら相当切り出しづらい話しのご様子だ。ならば、少し散歩でもしましょうか」

「……え?」


 てっきり「帰る」と言いだされると思っていたナルは、予想外の発案に目を丸くした。


「それでは出発です」

「え? あの、どちらへ……」

「せっかくの夜ですからね。イイところに連れていってあげましょう、ささっ、こっちですよ」

「ま、待ってください先生」


 スタスタと先導する狐狸についていく形で、ナルは一般人なら震えてあがりそうな山道を進んでいく。

 その後方で、


 ――様子をうかがっていた空飛ぶ蝙蝠の目が、怪しく光った。


「はぁ、はぁ……こ、狐狸先生。この道で本当に合ってるんですかぁ?」

「もちろんです。最短距離で進んでますよ」


 山道と呼ぶにも厳しいデコボコの斜面を二人は進む。

 先導する狐狸は疲れた様子もなく、まるで山自体が「どうぞこちらへ」と道を作っているかの如く前進している。

 一方ナルはといえば「お前はお呼びではないぺっぺっ」と嫌われてるかのように、背の高い草や立ち並ぶ木々が障害物となって四苦八苦していた。


「あの、もしかして迷ってたり……しませんよね」

「おや、ナルちゃんは夜中のドッキリサバイバルツアーがお好みでしたか?」

「なんですかその変なツアー。……むしろ、簡単なお散歩程度が好みです」

「もうすぐ着きますから頑張りましょう。どうしてもとあれば抱っこしてあげますが」


(……なんで抱っこになるんだろう)

 

 そこはせめておんぶではないのか。

 そんな考えが頭をよぎったが、ナルはすぐにブンブンと頭を振った。

 落ち着いて考えてみれば、どっちも無し寄りの無しだからだ。

 いつかそういった事を体験したい願望は乙女の一人として無きにしもあらず。

 けれども、


(……は、恥ずかしいし)


 狐狸にやって欲しいと願えば何の躊躇もなくやってのけるイメージしか沸かない。さらに言えば、ナルが想像する斜め上の行動をしかねない。

 そんな考えに至ったところで、彼女はちょっと不安になってきた。


「狐狸先生」

「はい?」

「あの……変な事考えてたりしませんよね?」


 なるべく軽いノリで尋ねたはずの質問に、狐狸が足を止めて振り返る。狐狸の表情は、獲物が罠にかかった時の肉食獣のようだった。


「変な事、とは?」

「いや、その……えっと……お、怒らないで欲しいんですけど。行き先があるようにみせかけて、暗がりに連れ込んで何かしようとしてる……とか」


 つい口から出たソレは、最近読んだちょっとえっちな少女漫画にそんなシーンがあったから連想してしまったものだった。

 しかし、自分で言っておいて『失礼千万だぁ!?』とツッコみたくなるようなその発言に狐狸が喰いついた。


「そんなイケナイ出来事に興味がおありですか? ナルちゃんもそういうお年頃なんですね」

「いえ! 今のは聞かなかったことにッ」


「僕がそういう事をする悪い人に見えたと?」

「はうぅ……」


 ゆっくり近づいてきた狐狸に反応して少女が後ずさると、背中がトンと大きな木の幹にぶつかった。上の方でガサガサと枝葉が揺れ、何かが落ちるような音がしたが、ナルはそれどころではない。


 次の瞬間、狐狸が伸ばした手が顔の横を通り過ぎて、木の幹にドンッと当たる音がする。当然こんな状態は吸血鬼あるなし関係なく初体験である。


「あああああ、あの、あの、そのッ、すいませんすいません、怒っちゃいましたよね、そうですよねぇ!」


 ビビっているのもあるが、とんでもなく近い距離に狐狸の顔がある事実にナルの心臓が暴走気味だった。


(よく見れば綺麗な顔をしてるなぁ……)


 などと呑気に思ったりもしたが、それは現実逃避であり、思考時間は0.01秒フラット。リアルの彼女は目尻に涙が溜まりまくっているし、頭が沸騰して煙を噴き出しそうになっているので余裕も何もない。


 おばあちゃんの「妖怪の甘い言葉には気をつけなさいね」というアドバイスが脳裏に蘇ったが、時既に遅し。


(ああ、おばあちゃん。わたし、もう顔向けできないかも)


 ナルが勝手に色んなものを想像して諦めかけたその時。


「ナルちゃん、安心してください。もう大丈夫ですよ」

「え……?」


 にっこり笑顔を浮かべている狐狸が顔を覗きこんでいた。

 そこに刺々しさはどこにもない――が、悪戯を考える子供のようではあった。


 ぬっと、顔の前に、慌てて身体をグネグネさせる蛇が突きだされる。「こんばんは♪」と挨拶する雰囲気ではない。


「はぅわーーーーーーー!?」


 絶叫が、夜山に響き渡った。


「やー、コイツに噛まれると痛いですからね。ナルちゃんの後ろに垂れ下がってるのが見えた時は焦りましたよ」

「ひいーーん?! 見せないで! 見せないでいいですから!! はやくはやく、ポイしてくださいーーーー!!!」


「ポーイ」

「なんでコッチに投げるのーーーーーー!!?」

 

 夜の山がナルの大騒ぎで一気に賑やかになる。

 

 それはそれとして。

 あわあわしながら蛇を追い払おうとするナルを尻目に、狐狸の耳が空中にいるナニカを捉えてピクリと動いた。


「ひんひん……」

「一体誰に泣かされたんですか?」

「身に覚えがないとでもッ!?」

「悪いのはぜーんぶ、あの蛇ですね。僕の可愛い生徒を泣かせるなんて許せません。今度会ったらとっちめておきましょう」


 いけしゃあしゃあと口走る狐狸に対して、ナルの乏しい怒りゲージは増加の一途である。

 

「ふむむ、そんなにふくれっ面になる程アダルトな時間をお望みでしたか?」

「バッ!? ち、違います! っていうかそのネタでいぢるの止めてくれません!?」

「その辺は追々にしましょう。さっ、着きましたよ」


 狐狸が手を振って示した先に、ナルの目が向けられる。

 視線の先には、背の低い草花が敷かれた絨毯のようになっている丘が広がっていた。


 そこまで上の方までに登ってきていたのか。

 まっすぐに遠くを見れば学園に最も近い町がよく見えた。周囲の山間が真っ暗な分だけ、人の町は特別目立ち、とても輝いてみえる。


「……綺麗ですね」


 ナルが素直に呟く。

 美しいものを見た者から自然に零れた言葉だった。


 だが、同じ物を観たとしても違う者になれば感想は異なるもの。そんな事実を突きつけるかのように、虚空から声が響いてきた。


『どこが綺麗なのよ、あんな人間の町』

「え?」


 声がした方へナルが振り向くと、蝙蝠の群れが狐狸達に向かってバサバサと飛んできた。群れは道のように連なりながら脅かすようにナルの横を通り過ぎていき、その目論見どおり「ひゃあ!?」と声が挙がる。

 狐狸は微動だにせず無言のまま、目線だけで襲撃者を見送った。


『今の言葉をもう一度、隣にいる男に言ってみなさいよ』

「そ、その声はイーミル従姉様おねえさま?!」


 本人がいるわけではないが、ナルの顔が驚きに染まる。

 蝙蝠の群れが空中で弧を描きながら一点に集まると、そこにドレスを着た女性の姿が出来上がった。蝙蝠を操って自分の姿を映しだす。ナルには出来ない、吸血鬼の技だった。


『まったく本当にあんたはダメな子ねぇ。勝手に自爆するなんておバカもいいところ』

「……な、なんでお姉様がココに」

『あらあら、みっともない家族の様子を見に来てあげたのよ? 何か困ってるようなら手を貸してあげようかしら~なんて思ってみたり、みなかったり」

「……ッッ」


 調子のいい嘲りにナルがギュッと手を握る。

 コレまで幾度もからかわれてきた相手。ナルが登校日を間違えるよう仕掛けてきたのも、この従姉だ。

 嫌われているのは知ってはいた。しかし、転校先にまで意地悪をしに来るとは思ってもみなかったのである。


「……また、何かする気ですか? もう騙されないですよッ」

『何かする気、ですって? ふふふっ、もうしないわよ。というか、する前に勝手にあなたがしてみせたのよ』


 従姉の言葉の意味がわからずナルは唇を噛んだ。

 ふと隣にいる狐狸を見上げたが、彼は従姉の方をじっと見ているだけで何もしない。


『ああ、可愛すぎるダメダメなナルに良い事を教えてあげましょう。妖怪というものはね、普通は人間の町の光を綺麗だなんて思わないものなの』


 ――むしろその逆と、声は続く。


『嫌いなの、綺麗じゃないの、自然にある美しさを、夜の闇を穢すものなのよアレは。……そんなものを綺麗ですって?』


 虚像の口が残酷な笑みへとつりあがる。


『そう口にするのは人間だけ。……ああ、違うわねごめんなさい。もうひとつだけいたわ。あやかしなのに人間の血を引く、半端者』

「……あッ」


 ナルの背筋が氷のように冷たくなる。

 

(やめて! それ以上言わないで!!)


 そう叫んで止めたかったが、それよりも早く従姉は秘密を勝手に曝け出してしまった。

 今夜ナルが、自分から狐狸に打ち明けようとしていた事を。たくさん悩んで決意した、大事な秘密を。

 ソレを愉快そうに暴露するのが遠くにいるはずの血の繋がった家族だとは、ナルは想像すらしなかった。



『――どっちつかずの嫌われ者である半妖ハーフ。……あんたの事よ、ヴァンパイアハーフのナルちゃん♪』



 おどけた口調だったが、込められた悪気は誰にでも伝わるものだ。

 ハーフの少女の身体が、静かに震えだす。


『大事な事は早く伝えるに限るわ。あんた、どーせうじうじして隠し続けようとしたんでしょ。ほんと残念な子なんだから……、見てられないからあたしが代わりに言ってあげたのよ?』

「…………ぅぅ」


『そこのあなた。こんな形で失礼いたしますが、あたしは有真ナルの家族ですわ。どうしようもない子ではありますが、どうか上手く付き合ってくださいませ。ああでも、もしハーフがお嫌でしたらいつでもご連絡ください。こちらでなんとか致しますので』


 嫌味に満ちた言動だった。

 だが、この従姉のハーフに対する態度は妖怪として極度に珍しい物でもない。

 長く生きている者。種族や血に誇りを持つ者。単純に人間を嫌う者。それらの間ではハーフは嫌われ者なのだ。


 古くて強くて有名な者である程、その傾向は強くなりやすい。

 誇り高い吸血鬼の一族であればなおさらである。


 だからハーフとなったナルは、家族との仲が良くなかった。

 その言葉はほとんど届かず、よく無視や意地悪をされた。

 それらが積み重なって、今のダメダメと評されるナルになっていったのだ。


 そしてまた、ナルは嫌われそうになっている。

 ずっと隠せるなんて彼女も思っていなかった。だから、ナルに何度も声をかけては励ましてくれた狐狸には、今夜にでも打ち明けようとしていたのだ。

 

 それも台無しになった。


 先程から意地悪な従姉が、狐狸のナルに対する心象をイタズラに悪くさせている。このハーフはお前を騙そうとしていたのだと、心にもない事を植え付けている。


(どうしてそこまで……そんなにハーフって居ちゃいけないものなの?)


 悲しくて悔しくて、ナルの目尻に涙が溜まっていく。

 同時に心がポッキリ折れそうだった。もうどうでもいいや……そう諦めてしまいそうな程に。



「ナルちゃん」


 従姉の言い分を聞き終えたらしい狐狸が、ナルを見つめる。


「…………はい」


 沈みきった表情で、ナルはかろうじて反応した。

 もうそれ以上、何かできる気力も尽きた。

 きっと狐狸先生にも嫌われるのだと、感情が黒く濁っていく。



 ――だからこそ、


 

「いい景色でしょう。人間が生み出す光というものは、中々どうして美しいものです」


 

 その優しくて温かな声と表情は、俯いたナルの顔を上げさせるには十分すぎるものだった。


『…………は?』


 ナルの従姉が何の含みもない、純粋な驚きを口にする。

 奇しくもその反応は、予想外の出来事を目の当たりにしたナルとよく似ていた。当の本人は顔を上げたままで狐狸の方を見つめており、声も出せていないが、何か言えたとしたら同じものだっただろう。


『え、いやちょ、待ちなさいよ。あんた今何て言ったの?』


「ほらほらナルちゃん。そんな風に膝をついてしまったら服が汚れてしまいますよ。さあ立って立って」


『ちょっと、訊いてんの!?』


 従姉が声を荒げても狐狸はまったくそちらを見ず、両手を使ってナルを優しく立ち上がらせていた。ポンポンと土や草がついたところを払い、「よしっ」と満足げに微笑む。


「あまりにも綺麗な景色を見ると腰を抜かすこともありますよね。ナルちゃんはよほど感受性が豊かなようだ。その感性をうらやましいですよ、コレが若さってヤツですかね?」


 冗談めいた軽い口調で話す狐狸に対して、ナルの表情は驚愕を通り越してポカーンとした間の抜けたものに変わっていた。

 

 嫌がられると思ったのだ。

 嫌われると考えてしまったのだ。

 半妖なんて人間・妖怪どちらからも嫌われ者な存在なんて。


 その秘密を隠して騙そうとしてた者と吹聴されて、ひどい罵詈雑言を受けると諦めていたのだ。


(……なのに、この先生は)


 否定するどころか同調した。

 人間の住処がよく見えるその景色を美しいと、共感を示してくれたのである。


 なんて常識外。

 先程からナルの従姉がずっと動揺しているのも当然だった。


「……あ、あの先生。わたしは、先生に隠し事を」

「誰にだって隠し事くらいあるでしょう」


「で、でも、わたしは……半妖だから……」

「それがなんです? たまたま人間と妖怪の間に生まれて、たまたま両者の特性を引き継いだだけです」


「は、半妖は……どっちつかずの……嫌われ者、だって。……だから、家族も……遠ざかって……意地悪するように」

「それは半妖に理由を押しつけたその人の理屈です。あなたが従う必要はない」


「…………」

「ナルちゃん。半妖はね、忌み嫌われるべき者ではない。むしろ人間と妖怪の共存を証明できる愛の象徴です。あなたの両親が心を通わせ、愛を育んだからこそ、あなたは今ここにいるのですよ」


「ッッ」


 ナルはもう涙が止まらなかった。

 そんなにも自分を肯定してくれる存在からかけられた言葉の数々は、たやすく心の扉を開けていく。

 

 扉の向こうに押し込めるしかなかった辛い悲しみを吐きださせ、空いた分だけ温かなもので埋まっていった。



 ただ、それがわからない邪魔者は依然近くにいる。



『こら! あんたわかってて無視してるでしょ! こっち見なさいよアホ男!』


 慇懃無礼な態度はどこへやら。ナルも偶にしか見れてなかった素を、従姉が出してしまっている。つまりそれだけ癪に触っているのだ。


「ハッハッハッ、今日はやけにキーキーと耳障りな羽虫の雑音がしますねぇ。せっかくのいい雰囲気が台無しだ」

『は、羽虫ですってぇ!?』


(……すごい、あの従姉様を完全に手玉にとってる)


 涙をぐしぐしと拭いながら、ナルはその様子を見守った。


 言い換えれば狐狸は従姉をおっちょくっている。相手が怒るポイントを的確について、これでもかと嫌がらせをしているのだ。


 何故か?

 そんなものはナルが考える必要もなく、決まっている。


『いい加減にしなさい妖怪の恥さらし!! あんたみたいなヤツはいなくなるべきなのよ、この……邪魔者!!』


「…………っせえなぁ」


 ――相手が気に入らないからだ。



「その言葉、そっくりそのまま返してやるぜクソガキが」 


『「へ?」』


 意図せずにナルと従姉の反応が重なる。

 それだけ狐狸の豹変ぶりは劇的だった。


「ああ、うぜぇ。人がおとなしくしてりゃあつけやがりやがって……。自分が攻撃されないと勘違いしてるド阿呆は、コレだから……ああ、そうだイイコトを思いついた」


 獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべて、ようやく狐狸が従姉の方へ顔を向けた。


「喜べ、今から俺様がてめえに特別授業をしてやるよ。徹底的に指導する形でなぁ」

 

 この時点で、ナルが知っている狐狸先生はもういなかった。

 そこに居たのは、とんでもなく恐ろしげな、想像を超えた誰かだ。


『な、なによ野蛮なヤツね。そんな貧相さで強気に出たって無駄無駄、つまんないこけおどしをあたしが見抜けないとでも――』

「へぇ……? 貧相ねぇ」


 狐狸がゆっくりと目元にあった眼鏡を外す。

 それだけのはずなのに、不思議と瞳の色合いが徐々に変わっていった。黒から金色こんじきへ。新月が満月になるように


 その様子を直視したナルの心臓がドクンと大きく跳ねる。

 狐狸のその目が鋭くて恐ろしく感じる。


 同時に妖しげな妖気が狐狸からあふれ、出現した青白い炎が彼を外から内へと焼き尽くしていった。


「狐狸……せんせ?」


 眼鏡を外した。たったそれだけの変化だった。そのはずなのに。

 ナルの視線は狐狸に釘づけだった。

 

 炎が燃え広がって消失していく先から、狐狸の身体と服装に大きな変化が起きていく。

 地味めの男性服は、神職か陰陽師が着るような装束へ。

 上衣は白く袴は黒色。体躯は一回り大きく、身長も高く。頭には何も被っていないが、その分、長く伸びた銀髪と獣の耳がよく目立つ。


 獣の特徴を持つ人型の妖怪。


 なのに、凛とした空気と涼しげな印象が強く、ナル自身も上手く言葉にできないが、本来あるべき姿に戻ったと直感させる雰囲気がそこにある。 


 もうそこに立っているのは別人だった。

 少なくともナルにはそう見えた。



『えっ……あ……?』

「よう、さっきのもういっぺん言ってみろや。こけおどしが、なんだって?」

『……ひっ』


 ナルの従姉は完全に怯えていた。無理もない話だった。

 姪に意地悪するついでに、気に入らない言動をした教師を黙らせるつもりで捲し立てた。


 その結果、予想もできない化物を引っ張り出してしまったのだ。そう自覚せざるを得ない程、今の狐狸は圧倒的な威圧感を放ち、膨れ上がり充実した妖気で満ちている。。

 山のように大きな巨人を前にしているような感覚が、危険を訴えて鳴り止まない程に。


『きょ……今日のところは勘弁してあげるわ!』


 本能とプライドがせめぎ合った結果、従姉は陳腐な言葉を吐いて逃走した。従姉を形作っていた蝙蝠の群れがほどけてゆき、高く羽ばたいていく。


「つまらない捨て台詞だ」


 本当につまらなそうに狐狸が吐き捨てる。


「まぁいい。それをもって授業開始の合図としよう」


 狐狸が手をかざす。

 目標は、蝙蝠の群れがいる方向である。


 その右手が狐を象り、中指にぐぐっと力が溜まっていく。

 見かけはデコピン。

 ただ、ナルに見えているイメージは砲弾を発射する大砲だった。




「“向こうの山まで吹き飛べ”」




 不可視の力が中指を弾いた狐狸の言葉よって解き放たれる。

 その進行方向上にあった草や木々が曲がり、何かが通り過ぎたことを証明するような道が生まれた。


 ソレは確実に蝙蝠達――従姉に向かって高速で迫り……。


『え』


 すさまじい突風として、逃げ去ろうとした彼女をきりもみさせながら吹き飛ばした。


『いやあああああああ!!?』


 その光景はナルからもハッキリ見えた。

 成すすべなく従姉が横薙ぎの竜巻でも喰らったかのように吹き飛ぶ様が。

 何十匹といたはずの蝙蝠達が強風で飛ばされたゴミのように隣山の斜面にぶつかり、小さな爆発のような音と共に土埃がもわもわと舞いあがる。


「ふははははは! 見事な飛びっぷりだ! まるで制御不能の凧ではないか!!」

 

 とても嬉しそうに嘲笑する狐狸は、悪戯が大成功した子供のようだ。だが実際は子供どころか大人もビビるような存在なので性質が悪い。

 その事実にビビッているのはナルも同じだった。


「え……あ……お、お姉様が、し、死んじゃった?」

「死ぬか、失礼な。ちゃんと手加減はした」


 アレのどこが?

 そう返す前に、変貌した狐狸がへたっているナルを見下ろす。


 現状を処理しきれず目をぐるぐる回している少女は何と言えばいいのかもわからず、自分でもよくわからない事を口にするしかない。


「え、あの……どちらさまですか? こ、狐狸先生はどこに……?」

「アァ? んだよ、その言い草はぁ。どっからどう見ても、俺が狐狸先生その人だろうが」


「く、口調が全然違います! というか、背も大きくなってるし、髪も長いしッ、瞳の色も金色になって!」

 

 ナルが動揺するのは当然である。

 端的に言えば、見た目ちょっと弱そうだけど優しそうでどこかおっとりした雰囲気の男性が目の前にいたはずなのだ。しかし、今そこに立っているのはガラがめちゃくちゃ悪くて強そうな、外見がやけにカッコイイ、悪い妖怪の親玉みたいな野郎なのだ。


 劇的ビフォアフター。

 文字通りの変身だ。


「はうあーーーー!? なんですかあなた! 狐狸先生をどこにやったんですか!? 先生を返してーーーー!!」

「ハッハッハッハッハ! いい反応だなぁ、それでこそ特別授業の遣り甲斐があるってもんだ」

「いやああああ、悪人面が下卑た笑みで迫ってくるうううう!!?」


「意外と余裕がありそうな口の悪さだな。まあ、ちょーっと“静かにしろ”や」

「んぐっ!」


 ナルは、自身の身体にドクンッと強い圧力がかかった気がした。

 直後に口がひとりでに閉じていき、ロクに声が出せなくなってしまう。


「ンー、ンー」

「別に取って喰ったりするわけじゃねえんだ。わかったら頷け、すぐに元通りにしてやる」


(う、嘘よ! そんな高圧的な態度で信じられるもんですかッ)


「何が言いたいか丸わかりだが……嘘じゃねえ。だが、今度無駄に騒いだら逆さ釣りにするからな? これも嘘じゃねえ」


(説得してるはずなのに、ものすごい脅されてる!?)


 それは理解したが、現状ナルに対抗手段はなく……大人しく従う他なかった。眼鏡をずり落としながら、ナルは諦めた様子でこく、こくと頷く。


「いい子だ。“話していい”ぞ」

「はうぅ……」


「はははっ、その鳴き声可愛いじゃねえか」

「人をペットみたいにぃ! ……あ、声が出る」


「“言霊”ってヤツだ。力を乗せた言葉で色々できる。さっきお前の意地悪な従姉を吹き飛ばしたのもコレだ」

 

「……すごい簡単に言ってますけど、ソレって超難しい術ですよね」

「俺にかかれば楽勝よ」


 いきなり連れ去られるわ術をかけられるわ相手はムカつくぐらいのドヤ顔だわで、ナルの理解が追いつかない。

 その間にも狐狸はどんどん話を進めてしまう。


「さあ、解説もしたところで授業の続きだ。早速行くぞ」

「……ど、どこへですか?」

「そりゃあもちろん――」


 狐狸は軽々とナルを持ち上げると、自分の身体にナルを押しつけるようにしてしっかり片手でホールドした。


「イジワル従姉さんの鼻っ柱を更にぶち折りにだ」

「ちょ――」


 声を出す暇もなく、ナルの身体がグンと空に向かって引っ張られる。

 ――狐狸が片手でナルを抱きとめながら跳躍したのだ。

 尋常ではないぐらい高く、遠くへ。


 瞬くまに、先程まで居た広場がかなり下の方に見えた。

 そこで初めて、狐狸が跳んだのだと彼女は理解した。


 単なる跳躍。

 されどそれは飛行と勘違いする程に高く、距離も長い。

 風を切りながらの大きな上下運動は軽やかでふわふわと浮かんでいるような錯覚すら覚える。


「た、たかっ……!!?」

「ハハハハハッ! 舌噛まねえように気ぃつけろよ!!」


(それどころじゃないんだけどッッ?!)


 幾度もその跳躍は繰り返された。

 それはむき出しの地面だったり、大きな岩だったり、木の太い枝だったりしたが、狐狸の動きは何一つブレない。


 ナルは慌てて狐狸の身体にしがみついたものの、そこには身を任せられる安心感がある。日本の有名なアニメ映画で、ふかふかの毛を纏った森の妖精に少女達がしがみついてるシーンがあるが、それが頭をよぎる。


「よっ、と」


 あっという間に、二人は隣の山間――ナルの従姉が墜落した現場近くにあった大きな樹木の大枝に到着した。

 てっぺんに近い丈夫な枝の一角。そこにナルがポイッと下ろされる。


「……ああ、今日は月が綺麗だな」

「はう!? 死ぬのは嫌ですよ!?」


 咄嗟に「死んでもいいわ」のフレーズが思い浮かんだナルがそう反応すると、「ぶはっ!」と狐狸がワイルドに噴き出した。 


「あー……ほんとにお前は面白れぇなぁ。誰もこの場で文豪ネタなんて求めちゃいねえってのに」

「す、すみません……」

「謝るこたぁねえ。むしろ俺を面白がらせてるんだ、褒めてやりてえぐれえだ」

「は、はぁ……」


 とても自信ありげな狐狸は、ナルからしても「こんなに自信たっぷりな人初めてみた」レベルだった。しかし、その態度に見合う妖力の気配は鈍感なナルでも感じられる程に強い。


 ナルの力が10だとしたら、狐狸は200ぐらい余裕で出せそうだ。既にその能力は従姉を吹き飛ばしたり、ナルをここまで連れてきた時に発揮されている。

 つまりこの状況は、ライオンの檻に入れられたウサギみたいなモノだった。ビビらない方が無理だ。


「改めてこれから特別授業に入る。ナル!」

「は、はい」

「お前、ちょっとあのイケすかねえ従姉にぶちかましてこい」

「…………は?」


 その指示の意味がわからず、少女から間の抜けた声が漏れる。


「あんな好き勝手言われてムカつくだろ。どーせコッチに来るまでにも散々いびられてきたんじゃねえか? そーいうのをまとめてお返ししてこいつってんだよ」

「……い、いやいや! わたしが? お姉様を!? そ、そんなことできません!」


「なぜだ」

「は、反抗なんてしたらやり返されます……。もっとひどい目に遭うんです」

「なら、やり返されないようにすればいい。あのバカがお前に余計な真似をしないよう、高慢ちきなプライドをボキッと折ってこいボキッと」


「…………どうやってですか? ……関節技?」

「その意外な攻撃的発想は悪かねえが、あの女がお前をバカにしてきた事柄で見せつける方が効果的だ。……そーだな、ちょっとひとっとび飛んでって、使い魔の本体を叩き落としてこい」


 従姉の姿で声が聞こえてきたからといって、従姉が本当に学園近くにいるわけではない。アレは吸血鬼の使い魔たるコウモリと己をリンクさせて生み出した虚像である。

 それを理解している狐狸は、ナルにもわかるように説明した。


 ただ、それを聞いたナルは浮かない顔だ。

 ――そもそも前提に無理があると思っている。


 従姉に馬鹿にされる理由のひとつ。

 ナルは、飛べない。


 吸血鬼であれば極当たり前で、家族は皆が出来る。

 それが出来ない。出来たことがない。


「不安か」

「…………」


 心を見透かしてくる狐狸の発言に、ナルは黙って答えた。


「“安心しろ、俺がお前を指導してやる”」

「……どーやってですか」

「こうだ」


「……はい? って、何して……ええええええ!?」


 いきなり狐狸が服をはだけはじめたので、ナルから叫び声があがる。両手で顔を覆って見ないようにしたが、衣擦れの音は聞こえるし、止まる気配もない。

 

「よし、準備ができたぞ。……何で手で顔を覆ってる」

「い、いいきなり男の人が服を脱ぎ始めたんですから当然の反応では!?」


「安心しろ。肌着は着てる」

(そういう問題じゃないでしょ!)


 と思いつつも、ナルは指の隙間を広げてちろりと視線を向ける。

 男性の引きしまった左上半がしっかり目に入った。


「ないじゃないですか! 肌着なんて! どこにも!!」

「バッチリ見てるじゃねえか、このむっつりスケベガールめ」


「そもそもあなたが嘘をつかなければいい話ですよね!?」

「うるさいうるさい。一度しか言わないからよーく聞け」


 さっきまでの詐欺師面はどこへやら。

 急に真面目くさった表情で狐狸が続ける。


「吸血鬼が生きるためには血が必要だ。たとえ、半分しか血族の血を引いていないヴァンパイアハーフだとしても例外じゃない。血を吸わないヤツはエネルギー不足になって力をロクに発揮できない」


「…………」


 なんで狐狸が吸血鬼の事情に詳しいのか、ナルにはわからない。

 ただ、それは紛れもない事実だった。出来損ないと蔑まれた者であっても、そのルールは適用されてしまう。

 たとえナルが、その行為を嫌っていたとしても。


「最後に飲んだのはいつだ」

「……一週間くらい、前です。学園コッチに向かう前に、吸血鬼用の特製ジュースで……」


「ソレで済むなら、まったく便利な時代になったもんだ。だが、所詮は代用品。本当の渇きは潤すなんてこたぁない」

「…………」


 それも当たっていた。

 要するにナルが飲んでいたものは、必要な物と比べたら一時しのぎの粗悪品に過ぎない。いずれ本物が要る。


「とどのつまり、お前はロクにエネルギーを補充できていないわけだ」

「わたしは……この体質が嫌いです。でも、我慢するのも辛くて……」


「だったら我慢しなきゃいいとは思わねえのか?」

「……血を、吸いたくないんです。……普通の食事の方がずっと美味しいし」

「ハハッ! つまり不味いから嫌なのか。そりゃイイな」


 自分の子供っぽさを指摘された。そう感じたナルは恥ずかしさで俯いてしまった。けれどストレートに言えないだけで不味い物は不味い。

 さらに言えば、ナルの身体が血を必要とするようになったのは比較的最近の事で、それまでは人間と変わらぬ食事で大丈夫だった。


 それがハーフの難儀な事情。


 半分妖怪で半分人間のハーフが、いつどちらに傾くかはある程度成長してからでないとわからない。血が目覚めたら目覚めたで、これまでと違う生活を余儀なくされる事もある。


 ナルの場合は、気持ち的には拒絶したい血を摂取する必要が生まれたのが大変だった。大昔ならいざしらず、現代ではその辺にいる人から吸血するのは難しい。


 吸血鬼だとバレたら大変な騒ぎになるから。


 そして、そもそも人から血を吸う行為が、ナルの一般常識的に考えて変態的すぎて許容できない。

 思春期まっただ中の少女にとって、十分すぎる程に由々しき事態なのだ。


「悩み多き生徒の顔はいな。ゾクゾクする」

「先生は生まれつき変態のいじめっ子か何かですか」


「生意気な口だな。誰に向かって言ってるつもりだ」

「はうぅ……」


 傍若無人なパワハラ教師に睨まれて、ナルがしゅるしゅると縮こまっていく。


「だが、俺はお前のようなヤツは嫌いじゃない。だから、吸え」

 

 狐狸の指が首筋をトントンと叩いた。



「考え方を変えろ。吸血行為は吸血鬼にとって必要なもので、人間に例えるなら輸血だ。さながら俺は献血希望のボランティアってとこか」


「輸血……」

「別に悪意を持って吸い殺そうとかじゃねえんだ。ついでに言うと、俺なら万が一にも眷属になったり副作用もない。初心うぶな生徒のザコ妖気にあてられたりなんてしねえよ」


 狐狸の自信が、ナルにはうらやましく映る。

 そんな風になれたら……などと考えてしまうのは、こっそり言霊でも使われているのか。

 もしかしたら彼を吸えば、少しはその自信にあやかれたりするのだろうか。そんな欲深さが徐々に滲み出てきそうだった。


「……はうぅ」


 ただ、だからといってこれまでの陰鬱な体験から来るビビリが即座に改善されるわけもない。いまひとつ、一歩を踏み出せない。


 それに対して悪い先生は、


「あああああ、めんどくせえ!!」


 痺れを切らして、いきなり距離を詰めた。

 しっかりと少女を抱き寄せると、その小さな口を自分の首元へ押しつけるように首を傾けさせる。


「☆!?◆■Ю★」


 強制的に噛むポジションにさせられたナルが軽くパニックになる。

 上着を半分脱いでる男(先生)に無理くりに吸血を促がされてるこの状況は彼女には刺激が強すぎた。


 ただ、それは恥ずかしいと一緒に、美味しい食べ物を前にした時の待ちきれなさをも込み上げさせてくる。


「あとは自分でやれ」

「…………………………ふぁい」


 ゴトリと重い心が動き始める。

 艶めかしい吐息をしながら、少女は狐狸の首筋に鋭い八重歯を差し込んだ。


 音にすれば“かぷっ”程度のものだが、十分に大きな前進だった。


「よーし、そのままゆっくり吸ってけ。別に逃げも離れもしねえ。怯える必要も全くねえ」


 赤子をあやすように、柔らかいふさふさがナルの背をポンポンと叩く。狐狸の両手は塞がっている。ならば、それの正体は?

 正解は彼の尾。キツネ色をした尻尾だった。


 不思議な安堵感を得ながら、ナルがゆっくりと狐狸の血を吸っていく。

 当初の彼女は、狐狸の負担にならないよう最低限の摂取で終えるつもりだったのだが、


(お、美味しい?!)


 記憶にある味とは全く異なる甘美を、彼女は夢中で味わった。

 歯止めが効かない。

 満足するまで離したくない気持ちが次々にあふれてくる。


 ぢゅーーー。

 ぢゅーーーーーーーーー。

 ぢゅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。



「吸い過ぎじゃボケ」

「へぶっ!?」


 容赦のない脳天チョップによって、ナルは正気に戻った。


「……はっ、わたしはいま何をッッ」

「白々しいフリは止めろ。お前はアレか、ご馳走を前にしたら限界知らずで必要以上に喰いまくるいやしんぼか」

「そ、そんなつもりは……ないんですけど」


 やんわり否定した直後に、ナルの口から「けぷっ」という音が漏れた。反射的に手で口元を抑えはしたが、傍にいる狐狸にその音が届かないはずがない。


「吐いたらぶっ飛ばすからな?」

「ストレートな脅しが怖いです」


 などと口にするナルだったが、その態度に怯えはない。

 むしろ気分は絶好調。いまだかつてない程に清々しくハイになっていた。

 身体も軽く、今なら空を自由に飛べそうな気さえする。


(なにこれスゴイ!)


 その気概に呼応するように、背中に翼が生まれ強くはためく。

 これまで幾ら練習しても上手く動かせなかったソレが、手足のように自由に動かせそうだった。


「……えい!」


 高揚に身を任せて、ナルが枝から跳んだ次の瞬間。

 彼女は闇色のオーラを纏った翼で、夜空に羽ばたいた。


(すごい、すごいすごいすごい!)


 まだぎこちなさはあるが、上にも下にも、左にも右にも動ける。旋回したってバランスは崩れない。速度もあまり変わらない。

 望めば、どこまでも行けるような――そんな気持ちになれる。


「ふふっ……アハハハハ♪」


 飛び立った大木の周りを何周かしていると、悪そうな笑みで自分を見上げている狐狸が目に入った。

 両手で大きく手を振ると、「やれやれ」といった感じに小さく手を振り返される。


(よーしっ)


 気持ちよく飛ぶ自分の姿を見せつけるように、ナルは高く高く舞い上がる。大きな月を目指すように一直線に。

 そして高度を保ったまま山間を見下ろすと、弱々しく動いている従姉の気配を察知した。


「……あそこ」


 目標を定めたナルは、口元から牙を覗かせながら急降下する。

 月光に照らされたその横顔はとても嬉しげだった。


『うぅ……ひ、ひどい目にあったわ』


 隣山の山中。

 ナルの従姉――正確には彼女がリンクしている蝙蝠がフラフラと立ち上がる。他の蝙蝠達は完全にノビており、当分は目を覚まさないだろう事は想像に難くない。従姉ですら山に墜落した衝撃でしばらく目を


回しており、ようやく復帰できたところなのだ。


 それでもダメージは大きく、今となっては本体として使っていた蝙蝠の正体も顕わになってしまっている。でっぷりと丸いポヨンポヨンボディで愛くるしいゆるキャラのような蝙蝠は、一際力が強い個体だっ


たため利用するのにちょうどよかったのだが。


 とはいえ、である。

 まさか半妖の姪に意地悪をするだけして居心地を悪くしたらさっさと撤収しよう。

 そう考えていた彼女の思惑は大きくズレてしまった。


『まさか、あんなのがいるなんて……』


 あの無礼な男の姿は、従姉の脳内に強く焼きつけられていた。

 一体どこの大妖怪なのかはわからないが、よほど上手く本性を隠しているのだろうと彼女は確信している。


 そうでなければ、学園の教師なんてやっているはずがない。やれるはずもないのだ。

 常識外れの馬鹿げた力を持つ者。平伏して従うことが最良と即座に判断してもおかしくない輩。もしアレが本気で従姉を攻撃していたとすれば今頃ミンチにされていてもおかしくない。


 要は見逃されたのだ。

 その事実が悔しくないハズもないが、格の違いがありすぎて逆に諦めもつく。


『……落ち着いたら、さっさと戻ろ」


 吹き飛ばされたショックでいまだ平常心に戻れず、術は続いたままだ。現在のナルの従姉は意識を蝙蝠に移しているような状態であり、術を解かないと元には戻れない。術を解くにはショックから立ち直る必


要があり、もうしばしの時間を要する。


 だから彼女は、少しでも気持ちを安定させるためにふわりと飛び立った。今日は雲のない空に月が美しい、吸血鬼が好む環境下。

 こんな日はいつもより血が欲しくなる。

 従姉はナルと違って純粋な吸血鬼であり、ナルのように吸血を避けたりはしない。味にはうるさいが。


 ぼんやりと月光浴を楽しむようにフラフラと飛行する。

 もうあんな化物に近づくことはない。さっさと意識を身体に戻して、上質なワインと好みの血を味わいたい。


 自室で優雅にくつろぐ。

 そんな自分の姿が思い浮かべていた、その時。


「あっ、いた」


 耳元で声がしたと思った矢先に、ナニカが高速でビュンと通り過ぎた。ゆるきゃら蝙蝠ボディではあんな速度は出したくても出せない。


 ――まさか、あの化物が追いかけてッ?!


 その反射的な思考は杞憂だった。

 だが、目の前で大きな翼を広げて立ちはだかった者の姿は、化物教師が追いかけてきた時以上のショックを従姉に生み出した。


「こ、こんばんはお姉さま。見てください、わたし……ほら♪」


 無邪気に翼を見せてくるナル。服装による地味さはすっかり成りを潜め、輝くような金色の長い髪をたなびかせ、立派な翼を備えた姪の姿に従姉は息を呑んだ。


 そこに、自分の理想像たる吸血鬼の姿を垣間見てしまったのだ。

 ただ残念な事に、


「見てくれましたか? もう、わたしは飛べもしないダメダメっ子じゃないんです」


 念願の飛行を成し遂げたナルは、狐狸を吸血した影響もあってか普段の彼女よりも大分興奮しており、


「それから、それから……狐狸先生の特別授業はまだ終わってませんとお伝えさせていただきます。わたしは、お姉さまにカマしてこいって指示されたので……その、なんと言えばいいか」


 要するに、ナルを知っている人間からすればだいそれている上にハメを外し過ぎな行動すら出来ちゃう状態だった。


「今まで意地悪された分……カマさせてもらおうかなって♪」


 姪の可愛くも最悪な発言に、従姉の顔が引きつった。

 チキン肌がみるみる広がっていき、リンクを閉じるための平常心があっさり失われてしまう。


 捕まったらナニをされるかワカラナイ。

 なまじ自分がこれまで姪にしてきた事を思い返してしまい、それら全てが一挙に襲ってくると想像してしまったゆえに、ビビリ度は桁違い。


 狐狸がこの場にいればさぞ大笑いしながら告げたであろう。

 自業自得だ、と。


『……ひぅッ』


 小さな悲鳴をあげて、従姉は全力で飛び去った。

 がむしゃらに、ひたすらに、優雅さも全部置き去りにして。


 だが、


「つーかまえた♪」


 逃げられない。

 あっさり並行飛行された上に、ガシッと両手でキャッチされてしまう。

 じたばた暴れてもビクともしない。今度こそ逃げ場などない。


『な、ナル! 手を放しなさい、あたしにこんな事してあんたタダで済むと思って――』

「……何をおっしゃってるんですかお姉さま。“する”のはこれからじゃないですか」


 にこやかな笑み。

 逆にそれが怖い。


 間違いなく意地悪してきた姪の頭は怒りで煮えたぎっているのだから。


「ちょっと待っててくださいね。お姉さまにされた事を思い出してからどうするか決めますので」

『ね、ねえナル? あたしは知ってるのよ、あんたは優しい子だからね。血の繋がった家族にひどい事なんて出来る子じゃないでしょ。 そ、そうよ。あたしが悪かったわ、今までの事はちゃんと謝るから……


ね? どうか許して――』


 限界まで赤子のようなキラキラした瞳を作って、従姉が懇願する。

 なんとも勝手な話だが、それぐらいしか彼女にはできなかったのだ。

 ただタイミングが悪かった。


「……あんたなんて家族じゃない、そう言ったのはお姉様です。わたしは家族じゃない人に優しさで返せる程、器が大きくありません」

『ひいぃぃん……』


「必要な持ち物を隠されました。登校日を間違えるよう仕向けたり、居場所がなくなるよう大事な秘密を暴露されたり……他にもたくさんありましたよね。……あ、バケツ一杯の水をかけられたりもしましたっ


け。…………このまま蝙蝠とリンクしたままバケツに沈めたらどうなるんだろ」

『怖い! 姪の発想が怖いぃぃ!!』


 もしソレをやられた場合、リンクしている従姉はとても苦しい目に遭う。

 死にはしないだろうが、その分ずっと続けられたりでも心がまいるどころの話ではない。


『ひうぅぅ、許して~~お願いよ~~~』

「……あ、そうだ。従姉様、空中連続火の輪くぐりに興味ありません?」

『あるわけないでしょバカじゃないの!?』

「そっか……残念です。やってくれたら狐狸先生にカマし方を決めてもらう必要もなかったのに」


 従姉にとってある意味地獄の二択である。

 どう考えても狐狸に決めてもらう方が凶悪なのだが、火の輪くぐりも選びたくない気持ちでいっぱいだった。


『ひんひん』


 もう従姉は完全に泣き崩れてしまっていた。

 あの意地悪な従姉がそんな顔を見せた事で、ナルの胸が一気にすいていく。


(……や、やりすぎちゃったかな?)


 口に出しこそしないが、段々テンションが落ち着いてきたナルには徐々に罪悪感とやりきれない気持ちが沸いてきていた。

 これはもう十分カマした事になるだろうから、この辺で話の決着を……。具体的にはしっかり謝ってもらった上で、これからは意地悪をしないでくれればいい。


 そこまで考えた辺りで、ナルの身体から力がカクッと抜けた。


「……えッ」

『ちょ』 


 翼に力が入らず空中で姿勢を保ってられない。

 身体が斜めに傾き、不恰好な体勢が少しだけ続いて、


「あわ、あわわわわわ!!」


 吊り下げていてくれた糸が切れたかのように、ナルは地上へ向けて落下をはじめた。


「はうぅーーーーーー!?」

『いーーーやーーーーー!!』


 掴まれたままの蝙蝠も道連れに、姪と従姉が仲良くフリーフォールしていく。


「はわーーーーー!?」


 どうして落下しているのかもわからず、ナルが翼を使って再度飛行を試みる。が、駄目。

 まったく動かないどころか翼はすっかり小さくなってしまい、必要な浮力をまったく生み出さなくなってしまった。


『な、ナル! ナル!! はやくもう一回飛んで! こ、このままじゃ地面にぶつかっちゃう!』

「や、やろうとしてるんですけど……む、無理ーーーーー!?」


 身体はすっかりうつ伏せのようになり、山間の地面はグングン近づいていく。しっかり見えているナルも怖いが、両手で掴まれたままの従姉に至っては後頭部から落下しているようなもの。いつ地面に激突す


るかもわからない恐怖は、落下の怖さを倍加させていた。


 その結果。


『あ、も、ダメ……きゅう』


 恐怖が限界突破した従姉(がリンクしている蝙蝠)が白目を向いて首をカクンと落とす。それはもう見事な意識の手放し方だった。

 案外繊細だったのか。はたまた飛べる吸血鬼が激突から逃れられないという初体験がそうさせたのか。


 ナルにはわからない。

 そもそも、従姉に気を回す余裕などないのだ。


「やーーーーーー!!? と、飛んでーーー!! 開いて―――!!」


 泣けど騒げど翼は反応なし。

 走馬灯がよぎりはしないが、激突まであと十数秒もないだろう。


(う、受け身! 受け身をとれば助かるかな?!) 


 ナルはこれまで受け身の訓練など受けた事は無いので、それは本当にダメで元々だった。

 いっそ気絶すればとも思ったが、早々従姉のようにコロッとはいけなかったのは幸か不幸か。



「わたしなんかが調子に乗ってすみません! もう無謀に飛んだりしないから、誰かなんとかしてーーーーーー!」


 吸血鬼のくせに十字を切り、両手をギュッと握ってナルなりにお祈りのポーズをとる。

 すると、思ったよりも柔らかい衝撃を感じた後に身体がボヨンと跳ねた。少女は西遊記に登場する筋斗雲のようなものに受け止められていた。


 ぷかぷか浮かんでいたその雲は高度を下げていき、少し前までいた町が臨める広場まで戻っていく。


「よお、誰かがなんとかしてくれて良かったな」

「うぅ……死ぬかと思いました……」


 助けてくれたのは狐狸だった。

 どんな術かはわからないが、乗れる雲を生み出してナルを受け止めてくれたのだ。

 狐狸がポンと触れると雲が消える。

 震えて足元の怪しいナルは、高い高ーいをされる子供のように降ろしてもらった。その手にはいまだ蝙蝠がでろーんとなっており、目覚める気配はない。


「だっせぇ、お前の従姉は落下のショックで気絶したようだな。……リンクも切れてる。さぞ本体はヒドイ顔で醜態をさらしているんだろう、ざまぁみろってトコか」

「あ……そうなんですか? それならこの子、どうしよう……」

「お前の好きにしろ。そいつは使い魔として体よく利用されただけだし、適当に離してやれば住処に戻る」

 

 それを聞いたナルはホッと一安心した。


(よかった……余計な殺生はしたくないものね)



「まあ、その太っちょ蝙蝠はいいとして……ナルお前、一気に力が補充されてハイになってたな。さすが俺の血、効果抜群だ」

「……うぅ、血を吸ったらあんな風になるなんて聞いてませんよぉ……」

 

「知らん、お前が必要以上に吸うからだ」

「はうぅ……」


 ぐぅの音も出ない。

 美味しさに負けて摂取し過ぎたのはナル自身なのだ。


「とはいえ、一時的とはいえ飛べたのはお前の能力。過剰摂取にはいい腹ごなしになったろ」

「……はい、多分。……まだちょっともたれてる感じがしますが……」

「飲みすぎだな。しばらく経てば元に戻るだ――いや、ついでに補習をしてやろう。大人しくしろよ」

「えぇ……?」


 何故いま補習を?

 そんなナルのげんなりした気持ちを構うことなく、狐狸は周囲に蛍のような光をいくつも灯すと、すかさずナルの首筋にかぶりついた。


「はうあ!? せ、先生?! 一体何、を……ッッ」


 実際に歯が肌を破り、肉を抉ったわけではない。

 言うなれば歯を立てない甘噛みである。


 ただ、抱きよせられた時と同様に、そんな行動自体がナルには衝撃的だった。付け加えると、首筋を曝け出す際に着ていた服の襟元辺りが引っ張られて胸元がちょっと剥き出しになっている。

 乙女的にはコレもよろしくない。


 ぐいぐい押し返そうにも狐狸の力は強く、巨岩のように動かない。

 あげくの果てには、


「……んぅ!?」


 年齢的に制限されているイヤーンなそっち系のような声が、ナルの口から漏れた。口を引き結んでこらえようとしても、大した時間稼ぎにすらならない。


 断続的な甘い痺れがナルの身体を奔っている。

 その根源は、狐狸が触れている首筋だ。


「やっ、ちょ……な、なにこ……ふあぁ♡」


 脈拍のような痺れは時に激しくなったり、フラットな波のごとく安定したり。困ったことに、どちらもナルの身体に危険な甘みを味あわせてきた。


「いいか、よーく聞いとけよぉ? 吸血は吸血鬼のお家芸と思われがちだが、類似する行為や術はいくつもある」

「んぅ……はうっ……ひゃい♡」


 アダルトな刺激に身悶えながら、授業は続く。


「この“吸精の術”もそうだ。触れた場所から相手の生命力や妖力なんかを奪う術だが、こうしてると吸血と大差ない」

「んああッッ♡」


 強めに吸われた事でナルの身体がビクンとはねて、一層甘い声があがった。高まった甘美な快感がはじけ、ぐったりした肢体が狐狸の方へとしなだれていく。

 片手で持っていた太っちょ蝙蝠が、ぼてっと地面に落ちた。


「この術を覚えれば、お前も苦手な血なんて吸わなくても良くなる。ただその気になれば相手にアダルトな副次的な効果をもたらすのもお前のと一緒で、それがオン・オフできないようだと後でめんど――――おい、聞いてんのか?」

「…………はうぅ~♡」


「ま、実地体験はこのぐらいにしとくか。お前が余分に吸い取った血の分は俺に戻したからな。もうもたれたりもしないぞ、感謝しとけ」


 その一方的な押し売りに、ナルは思った。



 この人……絶対ダメな先生だ、と。




 ◇◇◇



「……お、おはようございます」

「おはようございます、ナルちゃん」


 既に教室に来ていた狐狸に、ナルが朝の挨拶をする。

 狐狸はあの夜の悪い姿ではなく、通常のちょっと地味な姿だった。身長も男性の平均ぐらいだし、眼鏡であの強い瞳は隠れている。あんな大胆な言動をする人物とは到底思えない。


「今日は少し元気がいいようですね。それに随分なイメチェンだ」

「は、はい」


 初登校――正確には日付を間違えた時と今で、ナルの服装は随分変わっていた。

 もう存在感を霞ませる地味なジャージ姿の眼鏡芋娘ではない。

 学園の女子制服に愛用の黒マント。結んでいた髪はほどかれて腰まであるロングヘアーに変わり、後頭部の赤リボンと側部に付けた蝙蝠ヘアピンが可愛らしい。メガネは無くなって、赤い瞳は何物にも隠れることなく顕わになっている。身体の横からは翼の先がちょこんと見えていた。


 日本の学園生徒としてはよく目立つ。彼女らしい姿にナルは変貌していた。

  

「ど、どうでしょう。わたし、変だったりしませんか?」

「んー、そうですねぇ」


 狐狸はしげしげとナルをチェックすると、少しだけ背中をグッと押した。


「少し猫背になってます。どうせなら胸を張るつもりで行ってみてはいかがでしょうか」

「あ……き、気をつけます」

「うんうん、せっかく良い胸をおもちなのですからね。隠すのは勿体ない」

「そういう意図は望んでなかったです……」


 朝から訴えたら勝てそうな事を平然と言ってのける狐狸に、ナルはつい呆れてしまう。きっとこの人は素がコレなのだ。隠そうなんて微塵も考えていないし、それでいいと思っているに違いない。

 ナルがそう判断するのも無理はなかった、が。


「なんだ、いきなり残念そうだな。後で特別個人授業でもして欲しいのか。お望みならしっかり身体に教え込んでやってもいいぞ」


 瓶底眼鏡の向こうからわずかに覗く黒い瞳が、一瞬だけ邪悪そうな金色に煌めく。口元には悪い笑みの一端が出始めていた。


 その言動によってあの夜のひどい授業を呼び起こされてしまい、ナルの顔がぼふんと赤林檎のように染まってしまう。


「け、結構です!」

「そうですか。では、通常の授業といたしましょう」


 あっさりと引き下がる狐狸に対して、ナルの怒りゲージがすぐさま溜まっていく。いきなりこの調子では、どこでゲージが振り切れるかわかったものではない。


 それでも、ムカつく事はあっても嫌で逃げ出したいとは思わない。

 ナルにとってそれは大きな変化だった。


「……狐狸先生」


 ナルが離れていく狐狸をハッキリとした声で呼び止める。

 自然と振り向いた狐狸とナルの視線がかちあう。


「これから、色々教えてください。……その、変なのはなるべく無しで」


 頭を大きく下げた瞬間、ナルはようやくちゃんと先生に挨拶が出来たような気がした。ついでに釘も刺せた。効果は薄いだろうが。


 ふっと、柔らかい空気があたりに広がっていく。そんな感覚がする。



「大丈夫ですよ。何があってもご期待以上の授業をすることを“お約束”します」



 垣間見えた狐狸の楽しげな顔は、嘘か真か。冗談か本気か。

 いずれにせよ、重い足取りで学園に転校してきた少女の姿は大分軽くなっている。


「……はい!」


 予想外すぎる展開も多かったが、有真ナルの新たな学園生活はこうして始まったのであった。








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