07.おとぎ話
早朝訓練の為に出勤していったハリー曹長は、どこか吹っ切れたような清々しい顔をしていた。
自然に僕も笑顔になって見送りした。完徹明けだけど、心の中は晴れやかな気持ちで一杯だった。
空は快晴。朝焼けの中、澄んだ空気が心地よい。
こんな風に晴れやかな気持ちで朝を迎えた事って、初めてだ。
「お前のおかげだよ」
朝ごはんを待ちかねた様子のクロの頭を撫でてやると、嬉しそうに額を擦り付けてきた。
今日の僕の任務は引き続きクロの監視だが、せっかくだからこの小屋をもっときれいにしよう。
昨日はとにかく慌ただしかったのでほとんど手をつけられていないが、家具はあちこちにクモの巣が
張っているし床も埃を被っている。このままではクロは白猫になってしまう。
というわけで、さっそく床を兵舎から借りてきたモップで水拭きし、カーテンは取り外して埃を払う。
続いて床掃除。モップの糸にクロがじゃれつくのが大変だったが、床はピカピカになった。
それから窓と棚、暖炉など至る所を掃除していく。
「さて、残りは…」
部屋の隅にある小さな本棚。ここも埃とクモの巣まみれになっている。
本を全て取り出し、庭先で埃を払っていくと―――
僕の目は一冊の本に釘付けになった。
* * *
「クロ~!いい子にしてたかぁ~!?」
夕刻。上機嫌で戻ってきた曹長の足元に、喜んでクロは寄ってきた。
抱っこされても嫌がらずに、逞しい腕の中にすっぽりと収まっている。
「よしよし、可愛いなぁ、お前は」
もはやデレデレといった曹長に、僕はおずおずと昼間に見つけた本を差し出した。
「曹長、大変申し訳ないのですが…この本には、どのような事が書かれているのでしょうか?」
表紙を見た曹長の顔色が曇った。
その表紙には、猫にそっくりの、でも恐ろしい形相をした生き物が描かれていた。
怪獣映画のポスターの様に、猫そっくりの〈何か〉が鋭く大きな爪を振りかざし、人間が逃げ惑う様子が描かれている。
「これは…魔物の本じゃないか」
「…魔物…?」
「お前、まさか知らないのか?子供の頃、親から話くらいは聞いた事があるだろう?」
「すみません、両親とも家にはあまりいなくて、友達も少なかったので(本当)、そういう話は聞いた記憶がなくて…」
仕方のない奴だな、と曹長は溜息を吐いた後、僕に「魔物」について教えてくれた。
「街が一夜毎に消えていった。それは魔物の仕業だった。
鋭い爪は家屋を粉砕し、逃げ惑う人々は魔物の毒牙の餌食となった。
次はどの街が襲われるのかと人々は恐怖し、眠る事も出来なかった…」
曹長が本の一節を読み上げてくれた。
魔物とは古来から語り継がれてきたいわゆる「鬼」のような存在らしい。
本の中には魔物がいかに人々を苦しめてきたかという話と、魔物と戦って人々を救出した女神や英雄たちの活躍が描かれていた。
この世界の人達が、クロを見てあれほど驚き、恐怖する理由がやっと分かった。
僕だって鬼みたいな何かが急に現れたら、きっと同じようなリアクションをして逃げ惑うだろう。
ましてやその鬼に自ら喜んで近づき、「可愛いね~」なんて呟きながら鬼を撫でたりあやしたりする奴がいたら…きっと僕は心の底からそいつに恐怖するだろう。鬼と同じくらい、いや、それ以上に怖い。
「人々を救出するため、女神イースは天に咲く花梨で魔物を退け、人々に安寧をもたらした… とまぁ、こんなところだ。夜に出歩くとこんな化け物に襲われる、という子ども向けの戒めではないかと俺は思っている」
まぁそれでも、実際こいつを見た時は心臓が止まりそうだったけどな、と曹長は付け加えた。
―クロはこれから、どうなるのだろうか。
この世界で、これだけ恐れられている生き物だ。
処遇はいったん保留という状態だが、どんな決定が下されるのだろう。
僕は無性に不安になってきた。
考えたくはないが、最悪の結末を迎える可能性は十二分にある。
というか、それ以外の道は残っているんだろうか…?
「それよりジョン、読み書きの練習もしておけよ。学は出世の基本だぞ」
「は、はい。ありがとうございます」
本を曹長から受け取り、僕は夕餉の支度を始めた。
言い知れない不安と、クロを守りたいという想いが僕の胸を締め付けた。