05.沼
「それで、例のネコとやらはどこにいる?」
小隊長にそう言われてやっと気が付いた。
さっきまで名残惜しそうにお皿を舐めていた猫の姿が見えない。
「あれ…?」
慌てて部屋を見渡すと、僕が持ってきた毛布の影に黒い毛玉が隠れているのが見えた。
さっきまでのうのうと部屋中を闊歩していたくせに、今は縮こまってじっとこちらの
様子を伺っている。
「あそこです、あの毛布の所に」
「ああ、あんな所にいたのか。しかし、あいつは何をしているんだ?
まるで何かに怯えているように見えるが…」
「…大変恐縮ですが、曹長に怯えているのかもしれません…」
「俺に?」
「さっき、森の中で殺されそうになったので…」
申し訳なさそうに僕が言うと、曹長は少しバツの悪そうな顔をした。
「だ、大丈夫です。猫は元々警戒心が強い生き物ですから。
それに、こいつは元々人懐こい方だと思います。試しにこれをあげてみて下さい。
機嫌を直してくれるかも」
そう言って僕は茹で上がった鶏肉を湯から取り出した。
「それはこいつのエサか?」
「そうです。猫は基本的には雑食ですが、生肉のままでは与えず必ず加熱します」
他にも野菜や魚も食べる事を話すと、曹長は興味深そうに頷いた。
取り出した鶏肉を、先程と同じように細かく割いてからよく冷ます。
「何故そんなに息を吹きかける?」
「猫は熱い物が苦手なので」
「何だか、人間以上に手のかかる食事だな」
「そうですね…」
そうやって出来た夕食を小皿に入れて、曹長に渡した。
「脅かさないように屈んで、ゆっくり近づいてから置いてみて下さい」
「こ、こうか?」
僕に言われた通りに、曹長は大きな体を屈めて毛布の奥に潜む猫に近づいていく。
ガテン系の極致みたいな曹長の一生懸命に猫に近寄る姿は微笑ましいとしか思えなかったが、彼の努力に反して目と鼻の先に置かれた皿に猫は口をつけようとせず、そっぽを向いてしまった。
「食べてくれませんね…」
「…俺が持っていったから嫌がって食べないのか?だとしたら何だか、申し訳ないな…」
「いえ、お腹はまだ空いている筈です。ちょっと、僕が行ってみます」
僕も同じように姿勢を低くして猫の様子を見ながらゆっくり近づき、置いてある皿の中から
小さな塊をつまんで指先に乗せた。
「お腹まだ減ってるよね、美味しいから食べてごらん」
猫は男性の低い声が苦手というのを何かで読んだ事がある。
なので少し高めの小さな声で、落ち着かせるように話しかける。
そうして猫の鼻先にそっと指を差し出すと、猫は匂いを嗅いだ後、やっと食べてくれた。
おお、という曹長の歓声が上がる。
やっぱりお腹が空いていたようで、一生懸命指を舐めてくる。
人懐こい子で良かった。もっと警戒心の強い猫なら、知らない部屋に連れて来られて、知らない人が
いる環境では翌日になっても口を付けなかったかもしれない。
(この様子なら、もしかして…)
僕は後ろを振り向き、小声で曹長に提案した。
「今の僕と同じように、手でエサをあげてみて下さい」
「俺が?!」
「しっ、静かに。声はなるべく小さめに抑えて下さい」
「わ、分かった」
「では、お願いします。ご飯を食べる気になっている今がチャンスです」
場所を退いて、曹長に給餌役を代わってもらう。
おそるおそるといった様子で曹長が指先に乗せたエサを猫の口元へ運ぶと、最初は嫌がるように首を引っ込めたが、匂いを嗅ぐとハグハグと元気に食べ始めた。
「おお…食べたぞ…!!」
安堵する彼の姿を見て、僕もほっとした。
手から食べたなら、猫はかなり警戒を解いてくれたと思っていいだろう。
「にゃあ」
あっという間に無くなってしまったエサを催促するように猫が鳴いた。
「にゃあ?なんだ、お前、そんな声で鳴くのか。変な奴だな」
再びエサを猫の口元に運ぶ曹長の顔には笑みが浮かんでいた。
一生懸命エサを食べる猫は、もっとくれ、もっとくれと促すように曹長に近づき、ついに彼が胡坐をかいているその上に乗ってきてしまった。
「うわっ…!…意外に重いな、こいつ…というか…」
「と、いうか…?」
「…か、かわいい」
かわいい。
そう、彼は今、まさしく猫の沼にハマってしまったのだった。