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はじめまして、猫様。  作者: 西藤
42/49

42.叶わなかった夢

「殿下、何事もお変わりございませんか」


そう声を掛けたのはコンラード付きの女官・シエルだった。

「…別に何も無いが。どうしてそんな事を聞く?」

「いつもよりお食事の量が、ほんの少し増えた気がいたしまして」


コンラードは朝食のスープを掬う己の手を止めた。

「…そうだろうか」

「私の気のせいでしたら、申し訳ございません」


寝たきりの生活になって、コンラードの食事は各段に減った。

王子という肩書の手前、たくさんの料理が毎食用意されるのだが、そのほとんどは手をつけられることはなかった。もっとも、下げられていく料理が官吏や使用人達の腹を満たす事をコンラードは熟知しているのだけれども。

今朝は彼の気付かないうちに、自然と手をつける皿が増えていたようだ。

何故だか理由を探り、すぐに答えが分かった。久しぶりに描いたスケッチだ。

疲労というものをしばらく感じる機会がなかったコンラードだったが、例えわずかな時間の描画でも彼の脳は集中力を生み出すために莫大なエネルギーを必要としたらしい。

それで久しぶりに体が飢えを感じたのだろう。


「シエル、君は瑠璃(ロンダイト)にいる生き物に会いにいった事があるかい?」

コンラードよりやや年上の女官は途端に顔を真っ赤に染めた。

「…っ!え、ええと、…そうですね…私はそれほど興味がございませんでしたが、友人に付き添いを乞われて、確か一度ほど…」

「願い事は叶ったの?」

「ねっ、願い事なんて私は何も…!ただ、付き添いで行っただけですから!」

必死で否定するシエルの慌て様にコンラードは苦笑する。

まさか彼女の願い事が、王子との縁結びだなどとは知る由もない。

食器が片付けられていくのを見守りながら、ふとコンラードは呟いた。


「……僕も、会いに行ってみたいな」


思いがけない台詞に、シエルは思わず手にした皿を手放しそうになってしまった。

先の戦争で重傷を負って以来、人目を避けてきた第一王子からこんな台詞が出て来る日がまさか来るとは思っていなかったのだ。

一瞬自分の耳を疑ってしまったシエルだったが、すぐに顔を綻ばせて喜んだ。

「…それは、…それはとても良いお考えでございます、殿下!」

でも、とコンラードは俯く。

「今の私が人前に出たら、――やはり父上はお怒りになるだろうか」

「……」

コンラードと共に、シエルも黙り込んだ。

彼の父・アルテュール二世は非常に厳格な人物で、伝統やしきたりに囚われないコンラードに以前から冷たく当たっていたのは宮廷では誰もが知る話である。

その息子が不自由な体となってからは更に心が離れてしまったようで、近侍を通じて息子に「人目を避けろ」というような意向を伝えているという噂話もある。

剣を握り、先陣を切って戦うことを理想とする王からすれば、第一王子の現状は到底受け入れがたいものなのだろう。


「よろしいではありませんか」

そうコンラードに声をかけたのは、淡い銀髪をなびかせる中年の女性、前グランヴィル公爵夫人のイザベラだった。

アルテュール二世の弟に嫁いだ彼女は、夫を先の流行り病で亡くした後も変わらず甥の身を案じ、支え続けているのであった。

「…伯母上」

「殿下がこの宮殿にいる時間はそう長くはないのですよ。心残りになるような事があるのなら、今のうちに果たしておくべきでしょう」

花瓶に生けられた花の位置を整えながら、イザベラは切れ長の瞳をコンラードに向ける。

「でも、父上が…」

「コンラード」

甥を窘めるようにイザベラは言った。

「あなたのことですから、珍しい生き物の観察がしたくなったのでしょう?」

「……伯母上には、お見通しでしたか」

「情熱を諦める理由に、父親を持ち出すのはおやめなさい」


コンラードは言葉を失い、押し黙る。

紫の輝くような双眸が、厳しくも慈しみに満ちた伯母の瞳を真っ直ぐに見つめ返していた。


「我が夫の夢は、領地の片隅に果樹園を作ることでした。自ら手入れをして、汗を流して収穫してみたいとよくおっしゃられていたものです……コンラード、私は悔しい。あなたがようやく自分の意思で部屋の外に出てみたいと思ったのに、誰かの顔色を気にして本当にやりたい事を諦めようとしている。夢半ばで逝った夫のことを思うたびに――私は…どうしようもなく悔しい気持ちになる」


「伯母上」

俯いたままのイザベラに、コンラードは静かに声をかけた。

「申し訳ございませんでした。…私が未熟ゆえ、伯母上のお気持ちを傷つけてしまった。やはり、瑠璃(ロンダイト)の間を訪れてみたいと思います」

「コンラード、分かってくれたのね…とても嬉しいわ。私の方から侍従長に話して、すぐに準備を整えてもらうようにします」

「ありがとうございます!」


女官たちが王子の外出を知り、喜びを隠しきれない様子で慌ただしく立ち働く。

久しぶりに活気を取り戻した王子の部屋を、イザベラは静かに後にした。


――強く握りしめた拳の震えを、誰にも気づかれぬように隠しながら。

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