39.第一王子
ちょっと待ってて、と小声でジャンにささやくと、シェリルは赤い板をどけて暗闇の通路から明るい光の中に出ていった。
「どうしたんだい、シェリル」
「兄様に見せたいものがあって」
穏やかで落ち着いた声が聞こえる。
兄妹の会話に耳を澄ませながらジャンが待機していると、赤い板が突如退けられ、シェリルがひょいっと顔を覗かせた。
「ジャン、出てきて」
王女に手招きされ、意を決してジャンはカゴを抱えて穴から姿を現した。
「……失礼いたします!」
――そこでジャンの目に映ったものは、瑠璃の間やエヴァの部屋とは比べ物にならないほどの絢爛豪華な装飾品で彩られた広い部屋。
そして、天蓋の付いた豪奢な寝台の上で、上半身を起こしてこちらを見つめている一人の若者の姿だった。
「……君は?」
優しく声を掛けてくれた若者を見つめたまま、ほんの一瞬だけジャンは呆然としてしまった。
妹と同じ、輝くようなプラチナブロンドの長い髪と薄紫色の瞳。彫刻のように整った容貌。
見蕩れるほどの美男だ。彼以上の容貌の持ち主を、ジャンは人生で見た事がなかった。
はっと我に返ると、ジャンは慌ててその場に跪いた。
「私は、猫という珍しい生き物の世話役を仰せつかっております、ジャンと申します」
「ネコ…聞いた事がないけど、最近宮中にやってきたという例の生き物の事かな。それで、世話役さんがどうしてここに?」
穏やかな声で若者は問いかける。
怪しげな男がいきなり姿を現したというのに、動じる様子も無ければ、怒り出す様子も無い。
あくまでその瞳は穏やかにジャンを見つめている。
「兄様、言ったでしょ?見せたいものがあるって!」
シェリルがジャンに駆け寄った。
「ジャンに頼んで、内緒でネコを連れてきてもらったんだ!幸運を呼ぶ生き物なんだって、だから兄様に――」
「今すぐお帰り、シェリル」
柔和な表情はそのままに、コンラードはきっぱりとそう言った。
「世話役さん。申し訳ないが、妹を連れてすぐに帰ってほしい」
「どうして…?兄様、どうして?!私たち、一生懸命兄様の部屋まで来たのに…」
思いもよらない拒絶をされて、泣き出しそうなシェリルにコンラードは言った。
「シェリル、お前は間違ったことをしているよ。その生き物は本当はずっと見張りがついていないといけないんじゃないのかな?それが今、どうして今ここにいるんだい?」
「それは、兵隊さんに頼んで……」
「見逃してもらったというわけだ。本当は守らなければならない約束事をお前は破ってしまった。もし誰かにこの事が知られてしまったらどうなるか、考えた事があるかい?シェリル、お前は叱られるだけでいい。けど、お前の後ろにいる世話役の彼はどうなると思う?」
シェリルは黙り込んだ。
「おそらく、死罪は免れない。それでも彼はその危険を承知でここに来ている。何故だと思う?…王女に頼まれれば、断るわけにはいかないんだよ。シェリル、お前がここに来たのは私を思っての事だろう。その気持ちだけで充分私は嬉しい。だが、己の願いのせいで誰かが傷つくようなことがあってはならない。――分かるな、シェリル」
シェリルは白い頬を真っ赤に染めて、今にも泣き出しそうな自分に耐えていた。
「さ、お帰り。」
兄に促され、どうしたら良いか分からない表情でシェリルが下を向いた時。
「――殿下、ほんの少しだけよろしいでしょうか」
それまで沈黙していたジャンが口を開いた。
「私は確かにシェリル殿下のご意向で今ここにおります。しかし、それは殿下に強制されたからではありません。私はあくまでも私自身の願いを叶えるため、危険を承知でコンラード殿下の元に参った次第です」
呆気にとられた様子でシェリルが膝を付いたままのジャンを見つめる。
「私たちが連れてきた猫という生き物は、既に殿下もご存知かと思いますが、魔物にそっくりの見た目をしております。初めのうちは、誰もが猫を恐れ、近づこうとすらしませんでした。
ですが、今では少しずつ受け入れてくれる人々も現れはじめています。
それでも、もし王様が拒絶されれば、猫たちの命はあっという間に消えてしまうでしょう。だからこそ、王族である殿下に、猫が無害であることを直接ご確認いただきたいのです。殿下がお味方になって頂ければ、どれほど心強いかわかりません。
…だから、僕はここで帰るわけにはいかないのです。どうか、ほんの少しだけでも猫をご覧いただけないでしょうか」
「帰るわけにはいかない、か。人の部屋に勝手に入り込んで、なかなか図々しいことを言う」
機嫌を損ねてしまったとジャンは焦ったが、コンラードは二人に向かって手招きをしてみせた。
「わかったよ、世話役さん。君が期待するほどの”王族としての威光”がまだ私にあるのかは不明だが――それでも構わないなら、ここへ連れておいで」
そう言って淋しそうに微笑む王子の姿に、ジャンは、願いが通った嬉しさよりも、胸が詰まるような切なさを強く感じるのだった。




