30.お忍び
久しぶりに空になったパンの皿を見て、侍女頭のヘレナは息をのんだ。
「…奥様、お召し上がりに…なられたのですか?」
エヴァはにこっと笑って彼女に頷いた。
「良かった!良かった、本当に…良かったです、奥様…!」
50も後半に差しかかる侍女頭は、体を震わせて泣き出し始めた。エヴァは彼女のふくよかな体を抱きしめ、何度も感謝の言葉を伝えたのだった。
「…ではまさか、その魔物のおかげで不眠が治ったと…?」
「”治った”は言い過ぎかもしれないけど…でも今日は、久しぶりに具合が良いの」
ヘレナが落ち着いた所で、エヴァは昨晩の事を打ち明けた。
先程まで感激の涙を零していた彼女は、予想だにしていなかった話に驚いて気を失いそうになってしまっていた。
「何度も心配をかけてごめんなさい、ヘレナ。でもこの話は、あなたにだけは伝えておきたくて」
「全く、奥様は…肝が弱いのか強いのか……とにかく、今はお体の回復が一番大切ですから、喜ばしい話と言えば喜ばしい話なのでしょうけど…」
「…実は、ひとつお願いがあって」
申し訳なさそうに切り出すエヴァの台詞に、ヘレナは嫌な予感しかしなかった。
「…お願い?」
午後のお茶が終わり、柔らかな午後の日差しが部屋に差し込む頃。
「奥様…あの、本当によろしいのでしょうか…?」
不安そうに尋ねたのはジャンである。
今エヴァの部屋にいるのは、部屋の主と、ジャンと、そしてもう一匹。
大き目のカゴに入れられ、ジャンに連れて来られたソラである。
薄暗い納屋からいきなり絢爛豪華な宰相夫人の私室へ連れて来られても、ソラは特に動揺することもなく興味津々という様子で部屋を隅々までチェックして歩いている。
昨晩、ジャンはエヴァから「ソラを自室まで連れてきてほしい」というとんでもないお願いをされてしまったのだ。もちろん最初は断ったが、エヴァは引かなかった。
「大丈夫よ、見張りはヘレナがきちんとしてくれているし。それにこの子だって運動させないとストレスが溜まるって心配していたのは、貴方じゃない?」
「それはそうなんですけど…」
もしも誰かが部屋に入って来たら弁明不能、一発アウトである。
ただでさえ気弱な青年は、いよいよ生きた心地がしない。
部屋の外では同じくヘレナが苦い顔をしながら、掃除をするフリをしつつ見張りを続けている。一度使用人の女が気を利かせてお茶のおかわりを運んできたが、「奥様はお休み中なので」と何とか入室を断った。
そんな気が気でない二人にはお構いなしに、エヴァはニコニコしながらソラに着いて歩いていく。
「思っていたより、けっこう動き回るのね!目が離せない子どもの面倒をみる気分だわ」
灰色の生き物は時おり足を止めながら、置かれている家具の匂いを嗅いだり、調度品の影に隠れたりと、とにかくせわしない。ソファの上に飛び乗って爪とぎをしようとしたところを慌ててジャンが止めたのだが、二人のドタバタした様子がおかしくて、エヴァはくすくすと笑った。
「―不思議ね。なんだか、私の部屋じゃないみたい…」
見慣れた調度品や家具。いつもと同じ部屋なのに、この生き物がいるだけで景色が一変してしまった。
まるで日の光が突然現れたみたいに、どこもかしこも眩しく見える。
昨晩初めてソラを撫でた時と同じくらいの高揚感。わくわくして楽しいという感覚。
自分がいつの間にかどこかへ置き去りにしてしまっていた感情が、次々に胸の中から湧いてくる。
やがて見回りを終えると、ソラはジャンの足元に擦り寄ってきた。ジャンに頭を撫でられると気持ちよさそうにその場に寝転んだ。
「これは甘えたい合図なんです。こういう時によく撫でてやると、とても喜びますよ」
エヴァもソラの体をそっと撫でた。ゴロゴロと喉を鳴らすのは機嫌が良い時だという話は昨日ジャンから聞いているが、何とも不思議な音色である。
嫌な感じではないし、むしろ気分が落ち着いてくる。柔らかい毛並みを撫でながらソラが喉を鳴らす音を聞き続けていると、次第に体から余計な力が抜けていくようで…
しばらくして、カゴを抱えて部屋から出てきたジャンにヘレナは声を掛けた。
「…何事も無かった?奥様は大丈夫?」
「大丈夫です。奥様は今はぐっすり眠ってらっしゃいます。ソラと遊んでお疲れになったのでしょう」
「…あちらは大丈夫なの?納屋の中をもぬけの殻にしてしまっては…」
「兵士の方々は恐れて扉を開ける事はしません。それに、万が一に備えて代役も用意しています」
「代役?」
ソラの檻の中にいるのは、ジャンがカイルに急いで作ってもらった灰色の猫耳の形をした編みぐるみだ。毛布からぴょこっとこの耳が飛び出していれば、万が一誰かが扉を開けて中の様子を伺ったとしても気付かれる事はないだろうとジャンは話した。
「たくさんご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ございません」
深々と頭を下げて若者は去っていく。
謙虚な姿勢を見せたからといって、面倒ごとを持ち込んだ張本人をたやすく信用するほどヘレナはお人好しではない。
使用人が少なくなってしまった事もそうだが、何より恐ろしい化け物が近くにいるというのは彼女にとっても耐え難いストレスだ。―何とかして化け物とあの若者を、早く屋敷から叩き出してやる!と思っていた。
だが、ベッドで寝息を立てて眠るエヴァの寝顔を見ると、彼女の心は揺れた。
その表情が、この家に嫁いだばかりの頃のような柔らかいものだったからだ。




