29.幸運の使者
背中に何かが被せられた感触がして、エヴァは目を覚ました。
「…あれ、私…」
一瞬の間を置いて、エヴァはここがどこか思い出した。
魔物を撫でていたらいつの間にかうとうとして、小さな椅子に座って目を閉じたらあっという間に眠りに落ちてしまったのだ。
…眠りに落ちた?
―信じられない。
どのくらいの時間か分からないが、今の今まで確かに自分は深い眠りに落ちていた。
しかも、起きがけの頭が重くて体がだるい感じが全くしない。
こんな清々しい目覚めは、一体いつ以来だろうか。
ー待ち望んでいた深い眠りが、やっと訪れたのだ。
「…私、やっと…寝られたのね…」
「は、はい。とても熟睡されていたようでしたから、毛布をお持ちしたのですが…」
彼女が思わず呟いた独り言に答えたのは、昨日の昼に見かけたあの頼りなさそうな若者だった。
「…貴方は?」
「私は魔物の世話役を仰せつかっております、ジャンと申します」
世話役。
そうか、彼が魔物を宮中に招いたという噂の男。
ヘレナ達の話では遠い所から連れられてきた元奴隷だとか、胡散臭い詐欺師だとか言われていたけれど、実際に目の前にいる彼は線が細くて温和な顔立ちの、ごく普通の青年だった。
陛下を騙しているなんてヘレナは言っていたけど、とてもそんな大それた企みをする人間には見えなかった。
「これ、あなたが掛けてくれたのね。どうもありがとう」
エヴァが背中の毛布を指さしてジャンに礼を言うと、彼はもったいないと言うように慌てて首を振った。
「いえ、逆に奥様を起こす事になってしまって申し訳ありません」
こちらがすまなく思ってしまうくらいにジャンは恐縮してしまっている。
どう見ても気の弱そうな青年だ。これが演技だとしたら大した詐欺師なのだけど。
「今は何時かしら?」
「深夜3時半を少し過ぎた所です」
エヴァは驚いた。
3時半ということは、自分が寝ていたのは1時間にも満たない事になる。
それなのに、彼女はまるで何時間も熟睡したような心地の良さを感じていた。
―どうして?
答えは目の前の生き物が握っている事は一目瞭然だった。
「奥様、あの…お聞きしてもよろしいでしょうか。…どうしてここにいらしたのですか?それに、ソラに…あ、ソラというのはこの子の名前なんですけど。ソラを撫でていたともお聞きしました。奥様は、この子が恐ろしくはないのですか?」
「…声が聞こえたのよ。この子の鳴き声が」
エヴァは目の前ですやすやと眠りについている灰色の生き物に視線を落とす。
「すごく寂しそうな声だったの。誰かを呼んでいるみたいで、居たたまれなくなって…それでつい、ここへ足を運んでみたの。この子…ソラというのね、あなたが昨日頬ずりしていたのを見たわ。だから、触っても大丈夫な生き物だって思ったの」
「…っ!見られていたんですね…全然気が付きませんでした。お恥ずかしい…」
真っ赤になっているジャンにエヴァは尋ねた。
「ねえ、この生き物って、みんなが思っているような恐ろしい生き物じゃないわよね?」
「もちろんです!」
ジャンは大きく頷く。
「この子は、猫という生き物なんです。この国の言い伝えでは恐ろしいバケモノですけど、本当はとてもか弱くて無害な生き物です」
「国に幸運を運んでくるっていう噂も聞いたわ。それは本当?」
若者は少しだけ沈黙した後、口を開いた。
「…僕は、陛下にそう申し上げました。ただ、荒唐無稽なおとぎ話のように思われても仕方がないですし、信じられない方もたくさんいらっしゃると思います。でも…僕にとっては、猫は幸運の使者以外の何物でもありません。身に余る幸せをたくさん、たくさん届けてくれました。僕は心から感謝しています」
噛みしめるように話す若者をエヴァはじっと見つめた後、彼に話し始めた。
「私ね…実は、最近ずっと眠れなかったの。体調もどんどん悪くなっていって、気分も落ち込んで…もう、いろいろなことを諦めてしまおうかと思ってた。
でも今、とても久しぶりにぐっすり眠る事が出来たの。その子を撫でていたら気分が落ち着いて、だんだん心地良くなってきて…気が付いたら眠ってしまっていたわ。私にとっても、その子は間違いなく幸運の使者よ」
若者はどこか感極まったような面持ちで、言葉が見つからない様子だった。
「私にもっとネコの事を教えて下さらない?私、もっとこの子の事が知りたいわ」
弾けるような笑顔で若者は快諾した。
夜明け前の、まだまだ深い闇の中。
自分の話をされているとも知らず、灰色の生き物は二人に見つめられながら、すうすうと寝息を立てて眠っていた。




