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はじめまして、猫様。  作者: 西藤
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27. 宰相夫人の憂鬱

(…また、眠れなかった)


深いため息とともに、セバスター宰相夫人・エヴァは憂鬱な朝を迎えた。

窓辺に置かれた花瓶には紫色のラベンダーが飾ってある。

彼女の不調を唯一知る侍女頭のヘレナが、「不眠に効能がある」と言ってわざわざ高価な品種を取り寄せてくれたものだった。

甘く品のある香りは確かに一時的に気分を良くしてくれたが、それでも快眠には至らなかった。


彼女はこの一か月ほど、不眠に悩まされている。

布団をかぶっても夜更かしをしても、うとうととはするものの熟睡する事ができない。

一日中頭が重く、だんだんと気力も無くなっていく。

食欲も衰え、用意された食事をまともに食べられなくなっていった。

夫に気付かれたくなくて、エヴァは一人で食事を摂るようになった。そして用が無い時は常に自室のベッドに横たわっていた。

(いつまでこんな状態が続くのかしら…)

不安に苛まれながら、エヴァはヘレナが用意してくれたそら豆のスープを口に運んだ。

パンやソーセージといった固形物は、食欲が衰えた朝は気持ちが悪くて特に口にする事が出来なかった。



エヴァはもともと、美しい女性だ。

豊かな栗毛とサファイアの色をした大きな瞳を持つ彼女は、若い頃は指折りの美人として評判だった。

位が高いとは言えない貴族の家の生まれだが、彼女は侍女として王宮で働いていた頃に、代々宰相を務める名家の長男であるフリード・セバスターに見初められた。誰もが羨む玉の輿を掴んだのである。

フリードは口下手で、素直に気持ちを伝える事が苦手な男だ。

だが、彼が顔を真っ赤にしながら髪飾りをプレゼントしてくれた日の事を思い出すと、今でもエヴァの口元は緩んでしまう。

身分の差がある結婚は幸せになれないと忠告する友人もいたが、高貴な身分の割にはどこか純朴で不器用そうな彼が可愛らしくて、この人とならきっと幸せな日々を過ごしていけるとエヴァは思ったのだった。


しかし、彼女の憂鬱は結婚したその頃から既に始まっていた。


フリードは優しかった。

だが彼には未来の宰相という大きな役目が課せられている。そのため、毎晩のように有力貴族や王族達との社交が欠かせなかった。エヴァも何度も付き添ったが、その度に「お前は何もしなくていい」と言われ、いつも彼女は場違いな空気を感じながらただニコニコとするしかなかった。

晩さん会や季節の祝祭など、たくさんの行事が屋敷で開催されても彼女はせわしなく働く使用人達を眺めるばかりで、居心地の悪い思いをし続けていた。

元よりそれほど教養が無い事は自覚している。来賓達の機嫌を取れるような機知に富んだ挨拶など、しようとすればするほど夫に恥をかかせるだけだ。フリードもそれを懸念して、「何もしなくていい」と言い続けるのだろう。


なら自分は…何のためにここにいるのだろう?


その後3人の子どもの母になり、彼女はようやく居心地の悪さから解放されたように思った。

だがそれも長くは続かなかった。

宰相となったフリードは、間もなく隣国ハンプールとの戦争とその事後処理に追われ、夫は王宮にほぼ泊まり込みの日々が続き、ようやく家に帰ってきた頃にはフリードは陰鬱で神経質な人間に変貌してしまっていた。使用人達へ向ける言葉は刺々しくなり、エヴァに対しても距離を置く事が多くなった。

重責と激務が夫を変えてしまったのだろう。彼女はそんな夫の心が安らげるように努力はしてみたものの、一度空いた距離は再び縮まる事はなかった。

そして成長した子どもたちが一人前の大人として巣立っていくと、再び彼女はあの居心地の悪さに襲われ始めた。長年の積み重なったストレスは、やがて不眠という形で現れるようになった。


「奥様、やはりお医者様に診ていただいた方が…」

ヘレナの問いかけにエヴァは首を振る。

「そんな事をしたら皆に知られてしまうでしょ?」

「でも、奥様…」

「これ以上、役立たずの奥方だと思われるのは耐えられないの。ヘレナ、お願い。どうか皆には黙っていて」

苦渋の顔をするヘレナに対して申し訳なく思いながら、エヴァは力なくベッドに横たわった。

夕暮れの光が窓際に飾られたラベンダーを照らしている。

その香りは彼女の救いになるには、あまりに儚すぎた。



そんなある日、エヴァは珍しくフリードの書斎に呼ばれた。

「エヴァ、すまないが…明日からしばらく、フォルニアの屋敷で過ごしてほしい」

「…明日ですか?私は構いませんが、どうして急に…」

エヴァは困惑した。

フォルニアとはフリードの領地である。そこに構えた屋敷にはエヴァも何度も行ったが、訪れる時期というのは大体いつも冬と決まっている。貴族達は冬になると各々の領地へ帰り、休暇や地方官との交流をして過ごすのが慣例となっている。突然明日出発しろなどと言われた事はセバスター家に嫁いで一度も無かった。

「…魔物デモーヌだ」

魔物デモーヌ?」

魔物デモーヌにそっくりな生き物を、諸事情あってこの屋敷で管理しなければならなくなった。危害を加えることは無いと聞いているが、万が一のためにお前にはフォルニアへ避難してもらいたい」

「…旦那様はどうされるのですか?」

「私はここに残る。まさか屋敷の主まで逃げ出すわけにはいかんからな」

「私も残ります!」

フリードの言葉を聞いた途端、エヴァは叫んだ。

「な、何を言い出すんだ、エヴァ!」

「私はあなたの妻です。夫を置いて自分だけ安全な場所へ逃げるなんて、そんな恥知らずな真似をしろとおっしゃるのですか?!」

頬を紅潮させてまくしたてるエヴァに、フリードは言葉を失ってしまった。

妻が自分に反対したのは、これが初めての事だったからだ。


長く揉めた末、夫の反対を押し切ってエヴァは屋敷に残る事になった。

自室に戻ったエヴァは悔しさで思わず拳を握りしめた。


―私だけ、フォルニアへ行けだなんて…


分かっている。自分がここに残ったとして、何が出来るわけでもない。

夫だって自分の身を案じてああいう提案をしたのだ。

でも、とエヴァは唇を噛んだ。


―私は、本当に…本当に、この家にとって、あの人にとって、必要がない人間なんだわ…


彼女は涙を流しながら、離縁を夫に申し出る事を心に決めた。



翌日。

泣き腫らした目でぼんやりとエヴァは窓際に置かれた椅子に腰かけていた。

いつ夫に切り出そうかと未来の暗い予定を頭の中で描いていた時、北側の納屋に何人かの兵士が集まっているのが見えた。

(何をしているのかしら…?あぁ…、あれがきっと…)

布を掛けられた大きめの箱のような物。あれがフリードの話していた魔物デモーヌなのだろう。

(せっかくなら、私を食べてしまえば良いのに)

暗く投げやりな気持ちで見つめていたエヴァだが、次の瞬間、思わず目を見開いた。


何とも頼りなさそうな侍従風の若者が、突然布を取り払ったかと思うと、現れた一匹の小さな動物に顔を寄せて頬ずりし始めたのである。


エヴァはその光景に釘付けになった。

若者の愛情に満ちたその表情を見つめている内に、胸のあたりが不思議と温かくなっていくのをエヴァは感じた。

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