2:私に付き合ってほしいわ
睫毛を上げてお粉をはたき、薄い桃色の頬紅をブラシでふわりと乗せる。甘くなりすぎないようにローズ色の口紅を薄く乗せれば化粧は終了。
侍女として仕事を行う際は肌の色が整っていればいいと必要最低限の道具で適当に済ませることが多いが、今日はなんといったってデートの日。自分の気分を上げるためにも化粧の仕上がりは妥協できない。
勿論髪も服も同様に仕上げていく。
常にひっつめている髪は下ろし、緩くカールさせる。わざわざ今日のために買った揺れるワンピースを身につければ完成だ。
鏡を見れば、そこには通常時の仕事の時より数倍雰囲気が柔らかく華やかになった自分がいて、堅物侍女の名に相応しくない仕上がりに満足する。
周囲に関係性を公表しないと決めた以上、外に出掛けるならば自分が堅物侍女だと気付かれないようにしなければならない。
「ふふ、楽しみ」
今日これからのことを想像してハンナは顔を緩ませた。
待ち合わせ場所である王都の時計台付近に向かえば、既にリアムが待っていた。集合時間までまだかなり時間があるのに。
リアムの気遣いに嬉しくなったハンナは足早にリアムのもとへ駆け寄った。
「ヘリバード様、お待たせしました」
「ああ、ハンナ。早い……」
リアムは不自然に言葉を途切らせると、ポカンと口を開けてハンナを凝視した。
「あの、何か私におかしいところでも?」
こんな華やかな格好をするのは初めてだから、もしかしたら失敗してしまったのかもしれないと不安に瞳を揺らすと、リアムから「いやっ、そんなことはない!」と強めの否定が入った。
なんでもないことはないだろうと眉尻を下げれば、リアムは焦ったように口を開く。
「……その、ハンナがあまりにも綺麗だから、驚いてしまって……」
「まあ」
なるほど。リップサービスになるような言葉を探していたらしい。
ハンナから顔を背け照れながら話す様子から、リアムの賭けに対する本気度が伺える。確かに、これではなにも知らない相手であればすぐに落とされていただろう。
「ありがとうございます。ヘリバード様もとても素敵です」
普段身につけている騎士用の鍛錬服ではなく、今日は王家御用達のテーラーが仕立てたであろうジャケットとパンツ姿だ。髪も緩くセットされていて、いつもと違う雰囲気にハンナは思わず見惚れそうになる。
実際リアムは周囲の女性の視線を余すことなく集めていて、リアムのモテ具合をハンナが実感していると、緊張気味にリアムに名前を呼ばれた。
「はい?」
「……その、これからは家名ではなく、リアム、と呼んでくれないだろうか」
「よいのですか?」
賭けの対象にするような女から名前を呼ばれるのは嫌なのではないだろうかと思ったものの、ハンナの気遣いは的外れだったようだ。
ハンナの問いかけにリアムは心底不思議そうにしている。
「いいも何も俺たちは恋人同士だろう」
「確かにそうですね」
「あと敬語もなしだ」
「──ふふ、分かったわ。リアム。これでいい?」
「ん、ぐ、……ああ、それでいい」
言葉を詰まらせながら頷くリアムだったが、すぐに涼しい顔に戻ってハンナの手を取ると「さぁ、行こう」とリードし始める。
切り替えのできる男は嫌いじゃないと、ハンナは上から目線の意見を心の中で呟いた。
「……わぁ」
「気に入ったものを買うといい。女性なら宝石は好きだろう?」
リアムに連れて来られたのは、王都にある高級宝石店。
王族もしくは高位貴族でしか手が出せないような美しい宝石たちが店内に陳列されている。
ハンナは思わず苦笑した。
好きな人は好きだろう。ハンナだって光物は好きだ。
しかしここに並んでいるそれらは明らかにハンナに不釣り合いな物で。恐ろしくて聞けないが、値段も自分が考えるより数倍高い物に違いない。
黙って宝石を見つめていたハンナを、リアムは不安そうに見つめてきた。
「……どれも気に入らなかったか?」
「いえ、どれも美しく素敵よ」
「なら、気に入った物を教えてくれ。初めてのデートの記念として君に贈りたい」
リアムも宝石店の店員もハンナが望みの宝石を口にすることを今か今かと待っている。
しかしハンナはにっこりと笑ってリアムの手を握った。
「宝石もいいけれど、それより私に付き合ってほしいわ」
「え?」
唖然とする店員を置いて、ハンナはリアムと共に店をあとにした。
「ハ、ハンナ、どこに行くんだ?」
「私が行きたいところよ!」
そうしてやって来たのは、屋台が立ち並ぶ市場。
行き交う人の多くが平民で、先ほどの王都のメインストリートとは違って精錬された空気はないが、賑やかで活気のある空気をハンナは気に入っていた。
王都の畏まった店を見て回るより、断然ここらを歩き回るほうがいい。そう考えてハンナはリアムを連れて来た。
「ここは……?」
「市場よ。来たことない?」
「ない、が」
「なら楽しまないとね。さあ行きましょう」
「うわっ!?」
人の渦に呑まれに行き、流れのままに身を任せて立ち並ぶ屋台を冷かしていく。
そして興味のある物を見つけてはリアムに笑顔を向けた。
「はい、どうぞ」
「これは」
「水飴って言うの。美味しいわよ?」
「ねぇ、これやってみましょう」
「な、何をするんだ」
「あそこにこの輪っかを投げるのよ。入ったら景品を貰えるわ」
「見て! ショーをやってるわ!」
「……行こう」
「できれば前のほうで見ましょう」
「ああ」
ハンナはリアム含めて周りの目を一才気にすることなく、思うがままに行動する。
一方、リアムはハンナの行動を見て自分がエスコートするのを諦めたのか、いつのまにか高級ジャケットを脱いでハンナに付き合ってくれていた。
気付けば日は落ち始めていて、そろそろ帰らなければならない時間になっていた。
名残惜しさもあるが、十分楽しむことができたハンナは満悦していた。こんなにも自分を曝け出すのは幼少期以来で、未だに心臓が興奮で高鳴っている。
「ごめんなさい、勝手にいろいろと連れ回しちゃって。今日はとっても楽しかったわ」
好意の欠片も抱いてない相手と過ごす一日、しかも生粋の貴族であれば決して行くことがないだろう場所へ連れ回されれば、さすがのリアムもしんどい思いをしたのではないだろうか。
賭けのためとはいえ、ハンナと付き合うことを後悔したに違いない。といってもハンナから別れを告げるつもりはまだないが──。
「……俺も、とても楽しかった。こんなにも心躍る外出は初めてだった」
ハンナは目を見張った。
目に飛び込んできたのは、頰を緩めてハンナを見つめるリアムの表情だった。そこにハンナに告白したことを後悔する感情は一才滲んでいない。
まさかそんな表情をされると思っていなかったハンナは唖然とする。
そんなハンナを見てリアムはふっと笑うと、ハンナの頰に手を添えてこう告げた。
「今日一日で思い知ったよ。君の笑顔に勝る宝石はないとね」
ハンナは思った。
──この男強い、と。