1:賭けならいいわよね
もって一ヶ月だと思っていた。
「ハンナ、……可愛い、好きだ……」
「リ、リアム。今日はこの後用事があるから、ッ」
「……」
「無言で押し倒さないで!」
「……ダメか?」
見上げた先には子犬のように目を潤ませた男の姿。
否といえるはずもなく、ハンナは仕方ないなあと相好を崩して目の前に迫る男の頬に手を添えた。
──ああ、一体どうしてこうなったのだろう。
*
全てが始まったのは、今から約三ヶ月前のこと。
「なあ、あの堅物侍女、俺なら落とせると思わないか?」
「……いくらリアムでもそれは無理だろ」
「……確かに。顔だけは良いって言われてるあのジェファーでさえ無理だったんだよ? 容赦なく振られるに僕は五万ルラ賭ける」
「オレも」
「へえ、じゃあ落とせたら一人五万ルラずつよこせよ」
「堅物侍女の口からお前が好きだと言わせるところを見せない限りはお前が勝ったとは認めないからね」
「分かった。見てろよ」
偶然聞いてしまった騎士たちの会話にハンナは固まっていた。
堅物侍女──常に無表情で仕事に厳しく、融通の利かないハンナのことを皮肉った通称だ。
自分がそう呼ばれているのは知っていたが、まさかその通称が仕事で直接関わりのない騎士たちの口から出るとは思わなかったハンナは、思わず足を止めて話を聞いてしまった。
しかもなんと言っていたか? 堅物侍女を落とす? 落とせたら五万ルラずつ貰う?
つまり、ハンナは賭けの対象として、あの男たちに遊ばれようとしているということだった。
そこまで頭の中で整理がついた時、ハンナの中には怒りよりも喜びが湧いていた。
「賭けならいいわよね」
ポツリと呟いた声は、誰にも拾われることなく風に乗って消えていった。
「ハンナ・ユアルマ嬢」
翌日王城の廊下を歩くハンナのもとに、側から見れば最低な賭けを持ち出した張本人であるリアム・ヘリバードがやって来た。
本当に来たんだなと内心感慨深く彼を見つめていると、リアムは瞳に戸惑いの色を滲ませつつ「今少し時間をもらえるか? 話があるんだ」と口にした。
ハンナは無表情ながらも期待を抱いて頷き、人気のない場所に移動する。
「話とはなんでしょうか。この後も仕事があるので手短に済ませていただけると助かります」
表情一つ動かさないハンナにリアムは僅かにたじろぐも、任務を遂行するべく意を決したようにハンナを見つめ返した。
「突然で驚くだろうと思うが、君のことが好きなんだ。俺の恋人になってほしい」
「……まあ」
なんの飾り気もない、良いように言えば真っ直ぐな告白に、ハンナは少なからず驚いた。告白してくるのは分かっていたが、もう少し回りくどく口説いてくるのではないかと予想していたからだ。
「……」
どう返事をしようかと、ハンナは目を細めた。
リアム・ヘリバードは有名な男だ。
彼の実家であるヘリバード侯爵家は建国以来王家を支えてきた由緒ある家柄で、過去に何度も王族の伴侶を輩出しているほどの家格でもある。実際に現王妃はリアムの実の伯母にあたる。
ヘリバード家の三男であるリアムの血筋は折り紙つき、その上国王直下の黒の騎士団に所属し、二十三歳にして第二部隊の隊長を務めるエリート中のエリートという男なのだ。
一方で、ハンナは伯爵家の娘とはいっても、浪費家の両親により実家の家計は常に火の車で、社交界デビューもまともにさせてもらえなかった経歴のある女だ。
今でさえ王城で働くハンナの給与を頼りになんとか生活しているという状況であるし、そもそも自身の見目も良いとはいえなかった。
つまり、どう考えてもハンナはリアムに釣り合う相手ではない。
「その、返事を貰っても?」
返事をしないハンナに焦れたのか、リアムは急かすように返答を求めて来た。
馬鹿な人だ。あれだけ大見得を切って友人に宣言したからにはそう簡単に引き下がれないだろうに。
賭けの勝利の条件をハンナが知った以上、リアムが負けを認めない限り彼はハンナに囚われ続けることになる。
いくら気まぐれに始めた賭けとはいえ、こんな──半年後に結婚することが決まっている女に時間を費やすのは、彼にとって時間の無駄でしかないだろうに。
「ヘリバード様は、本当に私のことを慕ってくださっているのですか?」
「……じゃないと普通告白しないよな?」
潰れかけの実家を立て直すための結婚。そこにハンナの意思は一欠片も介入してない。
全ては欲深い両親の意思のもとに話は進められており、どうあがいても結婚の話がなくなることはない。
だからと言ってハンナが両親に抵抗する意思を見せることは一度たりとてなく、いずれ訪れる地獄の時をただ静かに待っていた。
とはいえ、半年後今以上に自由がなくなるであろう自分自身のために、何か最後にしてあげたいと、結婚の話が出た時からハンナは考えていた。
たとえば、ずっと抑え続けてきた素の自分を曝け出す機会を作る、とか。
いっぱい泣いて、怒って、笑って。
そんなふうに残りの自由を満喫したいのだ。
素の自分を出すには相手がいる。でもハンナに親しい友人はいない。ついでに恋愛というものも経験してみたいから、できるなら好きになれそうな異性がいい。
そう思っていたハンナにとって、リアムの話は渡りに船と言えた。
整った顔立ち、鍛えられた体躯、そして金髪碧眼という美しい色──リアムを構成する全てが魅力的で、女性は誰しもリアムの横に立つことを憧れる。
かくいうハンナもリアムの見た目は好ましいと思っている。生理的嫌悪がないというのは大事だから、まずそこでハンナ的にはリアムは最高の相手と言えた。
お世辞にも性格が良いとは言えないが、賭けに勝つためにリアムがハンナを蔑ろにすることは考えにくいだろう。
どこを取っても好条件の相手に、ハンナは自然とリアムの固い手を両手で握っていた。
仕事の時には決して見せることのない満面の笑みを浮かべる。
「こんな私でよろしければ、ぜひよろしくお願いしますね」
神が気まぐれに与えた奇跡の時間を、できる限り堪能してみせる。
そう決意を込めて告白に応えたというのに、なぜかリアムからの返答はない。
不思議に思ってリアムの顔をよくよく見れば、なぜか彼は顔を真っ赤にして固まってしまっていた。
「……ヘリバード様、どうかされましたか?」
「──っ、あ、いや、なんでもない!」
我に帰ったリアムは仕切り直しをするようにごほんと一度咳をすると、ハンナの手を握り返した。
「その、告白を受け入れてもらえて嬉しい。こちらこそよろしく頼む」
「はい。……そうだ、恋人になるにあたって一つだけ条件をつけてもいいですか?」
「条件?」
「はい。私たちの関係は周りの人には内緒にしていただきたいのです」
ハンナの言葉を想定していなかったのか、リアムは目を瞬かせた。
「理由を、聞いてもいいか?」
「無用なトラブルを避けるためです。ヘリバード様が周囲の視線を集める方であることは承知していますから」
さすがに賭けをしていた同僚の騎士には言うだろうが、その程度であれば許容範囲。ようは両親にこの交際がバレなければいいのだ。
それに、リアムにとっても悪い条件ではないはずだ。
ハンナは人に好まれるタイプの人間ではない。そんな人間が仮とはいえ恋人になったなどと噂になれば、リアムの評判が下がってしまう。
特に交際終了後すぐにハンナが結婚したことが明るみに出れば、ハンナのせいとはいえリアムにも厳しい声が集まることは必至。
だからこそ、この条件だけは必ず受け入れてもらわなければいけない。
ハンナの真剣な眼差しをどう受け取ったのかは分からないが、リアムは少し複雑そうな顔をしながら頷いた。
「……分かった。条件を呑もう」
「ありがとうございます!」
再び笑顔を見せるハンナに、リアムは再び惚けたように表情を崩した。
そして無意識のようにハンナの頰に手を伸ばし「俺の、恋人……」と呟く。
「ッ」
突然視界に飛び込んできたリアムの甘い表情に、ハンナは不意をつかれた。心臓がドクドクと大きな音を立て始める。
さすがはモテる男と言うべきか、早速ハンナを落とそうとする姿勢にハンナは感服した。
リアムはハンナの視線の高さに合わせて膝を折ると「ハンナ、と呼んでも?」と尋ねてきた。
こくりと頷くと、リアムは殊更嬉しそうに微笑んだ。
「ハンナ、俺とデートしてほしい。君のことをもっと知りたいんだ」
「はい、もちろんです」
そうして、偽りに塗れた二人の関係が始まった。