おしかけ老婆と箒の魔女(1)
水獣を口説いた午後が過ぎ、エルレ湖が夕日に沈む頃。ずぶ濡れで帰還したマールベルクはしこたまベルナーにどやされ満身創痍で帰路についていた。
豪華な王冠も剣も冷静になれば全くのお荷物だ。道行く各国の官人たちは皆哀れみの視線を向けてくる。「あれが帝国の代表か」そう噂している。帝国の官人は目も合わせてくれない。明日にはまたベルナーにがみがみと嫌味を言われるだろう。水獣の件もこのまま有耶無耶になって欲しい所だがそうもいかないだろう。ローランドに絡まれる事も一層多くなるだろう。初日だと言うのにこんなにも問題を抱えてしまって大丈夫なのだろうか。こんな頻度でイベントが発生していてはひと月後には死んだ目で姿見に映る哀れな己の姿を眺めているだろう。二月後には失踪しているかもしれない。
薄暗い路地を足音が二つ。一つは俺でもう一つは・・・。背後から急くように迫る足音。俺は悪い予感に堪らず振り向いた。
「邪魔さね」しゃがれた声は視線を釘付けた。
小柄な姿に皺に覆われた肌。鉤爪の如き鷲鼻。ボサボサの白髪は後ろで団子に結われている。
「ぐヒィ・・・」驚きの余り変な声が出てしまった。ゴーストの類だろうか。歴史のある土地だから一つや二つ居ても不思議じゃない。だが実際に目にするのは初めてだ。
「邪魔さね。若いの」しゃがれた老婆は俺を押し除け再び急くように歩き出す。
あれは人かはたまた本当にゴーストなのか。
怖いながらも好奇心をそそられた俺はその亡霊の後ろ姿を道草ついでに付けてみる。薄暗い路地に足音が二つ。覚えのある道を暫く歩く。そして覚えのある一軒家の前で立ち止まり「ヘーゲルです。居られますか」そう大声で扉を叩き始める。
その家というのは我が家であった。
「あの・・・」恐る恐る声をかけてみる。「うちに何か用でしょうか・・・」
「あんたかいね」老婆はギョロリと振り返る。「あんたがバッセンハイムさんかいね」小さな歩幅でみるみる詰め寄って来る。
「そうですけど・・・」
彼女は暫く俺の目をじっと見つめる。まるで獲物を狙う猛禽類の様に。このまま彼女に噛み付かれてしまうのでは無いか。黒魔術の供物にでもされてしまうのでは無いか。そう息を呑んだ時。
「そうさね」彼女は両手を大きく広げ飛びかかって来た。
「ふギィ________ 」絶命の悲鳴と共に今生に別れを告げた。
「あんたが坊っちゃんかね」彼女はそう言うと、熱い抱擁で嘆く俺を包み込んだ。老人特有の香りが鼻を刺す。思ったよりも力の強い抱擁は暫く続き、老婆の香りに鼻が慣れた頃に静かに解かれた。「女中のヘーゲルです。明日から働かせて頂きます、それじゃあよしなに」
「あの・・・」俺の言葉を聞く暇もなく彼女は踵を返し路地に消えた。「あんた誰だよ______ 」状況を飲み込むことが出来なかった俺は灯りもない真っ暗な我が家で疑問を脳裏に巡らせる夜を過ごす事となった。そして悪い夢であればいいのにと月明かりに照らされた壁のシミに祈ったりもした。
「坊っちゃま、朝です」嗄れた声が安眠を妨げる。「お食事の準備も出来ております故、起きて下さいまし」そして老婆は起床を渋る俺をハタキで容赦無く打つ。
「あわぁあ!?なんだ?」寝ぼけた悲鳴が轟いた。目の前には昨日の老婆が呆れた顔で立っている。「ヘーゼルさん?」
「ヘーゲルです。坊っちゃん、帝国の外交を担うお方が腑抜けた声を上げていては様になりません。しゃんとなさいまし」
昨日の言葉の意味をようやく理解した俺は静かにため息をついた。「今日は休みなんですよ」昨日の騒動を受けてベルナーから暇を貰った俺は今日一日文字通りの暇なのだ。
「坊っちゃま。休みの日こそ己を磨くのです」彼女は再びハタキで打つ。「それに、私めの仕事が終わりませぬ」
仕事の邪魔だからさっさと出て行け。それが本音と言う訳か。己を磨くと言われても磨くようなものは持ち合わせていない・・・。いや、昨日拾った”土産”でも磨こうか。
婆さんに急かされるまま朝食を口に詰め込んだ俺は水獣の血がベッタリと染みついた剣と大袈裟な冠、そしてわずかな小遣いを持って鍛冶屋でも無いものかと商業街を目指した。
鍛冶屋が無ければ質屋にでも売り払ってしまおう。
皆が働く昼間のポルケピの街は閑散としている。郵便官が物珍しげに眉を顰める。つい昨日ベルナーに罵倒された”小汚い私服”をまとっているからだろうか。いや、仕事もしなで帝国の代表様が散歩にかまけているからだろう。街の汚臭が気になる程に手持ち無沙汰な俺は数日ぶりの汚水川を渡り、橋の検問官に顔を顰められた俺は横目に流した商業街に足を踏み入れた。
東側と違い商人に賑わう西側は汚臭と飯の香りが混じり独特の風情を醸し出している。道ゆく商人は皆こぎれいな様相に澄まし顔でいる。交易の中心でもある此処は商人貴族がもっぱらで小汚い商人は目に付かない。表通りから路地に入り暫く散策する。多国籍な看板の店が並び、その中でも一際目を引いたのは『箒の魔女』そう王国語で書かれた酒場だった。俺の知っている雑多な酒場とは違い、気取った金持ちどもが静かに葡萄酒を転がしている。暇にかまけた俺のつま先は朝だと言うことを忘れそこに向かっていた。
酒は強い方では無いが、雰囲気でもしばいてみようか。