始まりの恐怖
――目が覚めた。そう、目が覚めたのだ。死んだのではなかったのか?あれは全部夢だったのか?そうでないと”目が覚める”なんてことはありえないはずだ。
顔を上げ、周囲を見渡す。シルクのような白い壁に、木製と思わしき床。ポピーやホウセンカなど、色とりどりな花が挿された花瓶が飾られているこの十畳ほどの密室は、とても死後の世界とは思えない光景だ。
「……っ…………っ!」
言葉を発せない。何者かに口を押さえつけられているような感覚だ。それに、椅子に座らせられているようだが、立つことができない。見たところ縛られているわけではなさそうだが。そもそも、死んだはずなのになぜ体があるんだろうか。背もたれにあたる背中や、鼻で吸った空気が体に流れ込んでくる感覚は、よく感じる。幻覚が見えているわけではなさそうだ。今気が付いたが、呼吸をしてる。息を止めると,当たり前のように苦しい。僕は死んだんじゃなかったのか?というか此処はどこなんだ。
「………………?」
無限に溢れ出る疑問に気を取られて、目の前の白い椅子に気が付かなかった。僕のほうを向いている。閻魔様でも来るのだろうか?あまり良いことはしてこなかったし、地獄行きかもしれないな。
下げた目線をまた椅子に戻す。するとそこには、閻魔と呼ぶには美しすぎる、女神のような女性が座っていた。腰までかかった艶やかでストレートな黒髪に、鶯色のきれいな瞳。これまた真っ白なドレスに身を包んでいて、今まで見てきたどんな女優やアイドルよりも美人だ。……とても豊かな胸も持っている。
「……随分と、失礼な人ですね」
彼女は先ほどまで見せていた笑顔を少し曇らせ言った。どうやら心を覗かれていたらしいが、そんなことは気にも留めれなくなってきた。鼓動は次第に高まり、動悸もしてきた。額に流れる汗に溺れるように、だんだんと意識が遠のいていく。幼少期に刻まれたトラウマに吞まれそうだ。生まれた時から人に忌み避けられ、どこに行ってもいじめられてきた過去が蘇る。この女性も、同じなのだろうか。緑髪に根暗な性格の僕を、化け物でも見るような目で卑下するのだろうか。
それに応えるように、彼女はまた笑顔を戻し僕に言葉をかける。
「大丈夫。私はあなたの味方です。……まあ、多少の無礼には目を瞑りましょう」
……呼吸が落ち着いてきた。いつもなら多少声をかけられたくらいじゃ、こうはいかないのだが。この女性は何者なのだろう。無礼、と言っていたし、ひょっとすると神様か何かだろうか。
「ええ、大正解ですよ」
微笑んで言った。言葉を介さない会話に戸惑っている間にも、話は進む。
「私は女神。エルニスと申します。これでも結構偉いんですよ?ですので、先ほどのような言動はお控えくださいまし」
言動、といってもそっちが勝手に人の心に踏み込んだんじゃないか。確かに失礼ではあったが、思ってしまうのは仕方がないだろう。……そうか、これも伝わっているのか。
「まあ、自己紹介はこのくらいにしておいて、此度はあなたにある“提案”があるのです」
提案……?なんだろう……。天国にでも行かせてくれるのだろうか。正直、事故とはいえ、もうあんな人生を歩まずに済むのだと考えると、なんでもいい気がしてきた。
「……よほど追い込まれていたようですね。まあ無理もないでしょう」
すると女神さまは、本にみえるものを空中から取り出し、続けて言った。
「生まれた時から父はおらず、母は死に、育った環境は劣悪そのもの。友達なども一人もできず……本ばかり読んでいたそうじゃないですね」
……何だ?急に僕のことを侮辱し始めたではないか。
「あら、そんなに怖い顔しないでください。私はあなたに同情してるんです。それに、言ったでしょう?偉いって。あんまり無礼を働くようなら、“提案”もなかったことになりますよ?」
……とりあえずは、聞いてみることにしよう。
「そう、それでいいんです。それで、提案というのは……」
――テンセイ。確かに彼女はそう言った。テンセイ……というと、輪廻転生の転生だろうか。新たな生物として生まれ変われるのか……?そうだとすれば、胸が躍る。ミドリムシにでもなって、一人で生きたいな。
「……残念ですが、こちらが進めてる話では、今のあなたのまま、人間としての人生を送ってもらう運びになっているんです……」
前言撤回。このババア、同情だ何だと言っておいて、僕を愚弄しているのか?そんなことなら、地獄行きのほうが幾分かマシじゃないか。
「落ち着いて話を聞いてください……。何もまたあの環境にあなたを放り込むわけではありません。あなたがこれから向かうのは、これまでとは別の世界……さしずめ、異世界転生といったところでしょうか。もちろん、そこでは緑髪が稀有な扱いを受けることはありませんよ?悪い話じゃないはずです。さあ、ご返事を……」
……なんだろう。なんだかこいつ、焦ってはいないか?さっきまでは、提案という形で「受けさせてあげてもいいぞ」と言わんばかりの姿勢だったはずだが……今は無理やり提案を押し付けたいように感じる……。だとしたらそれは何故?それにそうだとすると、最初は上から目線の提案だったのも気になるし……。こちらの運びでは、とか言っていたな。僕が提案を飲むことは決まっていたような言いぐさだ……。
「……ああ、もう」
奴がしびれを切らしたように呟くと、抵抗する間もなく僕の視界は暗転した。意識は吞まれるように、ぽつり、ぽつりと消えていく。橋から落ちた時と同じだ。
「いいですか?これは神の慈悲なんです。言葉を理解できるようにと、案内役も付けました」
残る聴力に響く。くそったれめ。何が慈悲だ……。
「無理やりにはなりましたが、良い、旅を」
それを最後に、意識は完全に消え去った――。
新たな転生者が消えた静寂な部屋、エルニスは肩を落とす。
「はあ…………」
「これで三人目か」
忽然と現れた声に驚き、後ろを振り返る。そこには2mを超える長身の褐色肌の男が、得意げな顔をして立っていた。
「……何しにきたんですか」
「かわいい後輩がきちんとやれてるか、心配になってね。それにしても、全員に魂胆見抜かれるとは……。まだまだ下手だねえ」
「別に関係ないでしょう」
「そう怖い顔しなさんなって。ほら、また次来るよ?」
ヴァランの飄々とした態度を煩わしく思いながらも、準備に追われる彼女にまた声をかける
「ま、俺はこれで行くけど……」
「…………?」
「あんま、変なこと企むなよ」
途端に表情を厳しいものに変えたヴァランに、エルニスは背筋が凍る。2秒もしないうちに、彼はまた表情を戻した。
「じゃ、まったね〜」
そう言い、手を振りながら姿を消した。頬にまで流れてきた冷や汗を手で拭き取り、「………………怖い人」と女神は呟くように言葉を発した。




