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質屋・籠の備忘録  作者: 甲乙イロハ
黒電話
9/82

9

 りん、と一つ鳴り、ベルが止む。


「……も、もしもし?」


 和夫が受話器に向かって言うと、一拍置いて、


『和夫? 和夫かい?』


 年老いた女の声が流れて来た。聞き覚えがある、どころではない。懐かしい、あの声。


「か、母さん……?」


『元気にしてるかい? 風邪、ひいてないかい? あんた、赤ん坊の頃から寝相が悪かったから』


 ああ、そうだ。母は、こんなふうに、ころころ笑う人だった。もう一度、この声を聞くためなら何だって差し出すと思った時があった。いつのまにか、毎日の忙しなさに、考えて見れば些細な出来事に紛れて、思いは薄れてしまっていたけれど……。


『どうしたんだい? せっかくこうして話せるんだ。なんでもいいから、声を聞かせておくれ』


 何も喋らない和夫を不審に思い、母は心配げな声を出した。もしこんな機会があれば話したいと思っていたこと、聞きたいと思っていたことがたくさんあったはずなのに、和夫は一つとして思い出すことができなかった。ただ涙だけが溢れてくる。


「か、母さんは、元気かい?」


 声を震わせながら、なんとかそれだけ言った。すると、


『わたしは元気にしてるよ。死んでるけどね』


 茶目っ気たっぷりに母は笑う。和夫は受話器を持ったまま、


「……キビキさん」


 涙と鼻水を垂らしつつ、声を絞り出した。


黒電話これを手放すってことは、これにまつわる……その……母との思い出も、全部失くすってことなんでしょうか?」


「そういうことです」


 うなずくキビキ。


「他に思い出のお品がなければ、お母様に関わる全ての思い出、記憶、感情を失ってしまうことも有り得ます」


「そんな……」


 和夫は苦しげに呻いた。家財道具も、家も、何もかも、全て売り払ってしまった和夫にとって、残された唯一の母の思い出の品が、この黒電話なのだ。


『……和夫や』


 電話口で、母が優しく声をかけて来た。


『わたしはもう、死んだんだ。だけど、あんたはまだ生きてる。一所懸命、あんたと、あんたの家族のために生きて、生きて、生きて。やらなきゃならないことを精一杯おやり』


「だけど、母さん。おれ、母さんのこと、忘れたくないよ」


『和夫……』


「いやだよ、おれ。母さんのこと忘れるなんて、絶対に……」


『あんた。馬鹿だねえ』


 母は明るく笑った。


『あんたがわたしを忘れても、わたしがあんたを覚えてる』


「母さん……」


『約束するよ。いつまでも、ずっと。忘れられるもんかね』


「母さん! 待って!」


『じゃあ……またね』


 通話が切れた。音が失せた受話器を握りしめ、和夫は号泣した。

 隣で美枝子も、黒電話に向かって何度も頭を下げながら涙を流している。


「……分かりました」


 しばらくして、和夫は洟を啜りながら言った。


「キビキさんからお預かりした百万円……。あれは美枝子の……妻の借金の返済に充てさせていただきます」


「お品の所有権を放棄される、ということで宜しいですね」


 念押しするキビキに、和夫は涙ながらに、しかし、はっきりとうなずいた。


「それでは、こちらのお品は質流れとし、たった今より当店の所有物となりました」


 キビキは咳払いし、


「ご利用、ありがとうございました」


 深々とお辞儀した。

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