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りん、と一つ鳴り、ベルが止む。
「……も、もしもし?」
和夫が受話器に向かって言うと、一拍置いて、
『和夫? 和夫かい?』
年老いた女の声が流れて来た。聞き覚えがある、どころではない。懐かしい、あの声。
「か、母さん……?」
『元気にしてるかい? 風邪、ひいてないかい? あんた、赤ん坊の頃から寝相が悪かったから』
ああ、そうだ。母は、こんなふうに、ころころ笑う人だった。もう一度、この声を聞くためなら何だって差し出すと思った時があった。いつのまにか、毎日の忙しなさに、考えて見れば些細な出来事に紛れて、思いは薄れてしまっていたけれど……。
『どうしたんだい? せっかくこうして話せるんだ。なんでもいいから、声を聞かせておくれ』
何も喋らない和夫を不審に思い、母は心配げな声を出した。もしこんな機会があれば話したいと思っていたこと、聞きたいと思っていたことがたくさんあったはずなのに、和夫は一つとして思い出すことができなかった。ただ涙だけが溢れてくる。
「か、母さんは、元気かい?」
声を震わせながら、なんとかそれだけ言った。すると、
『わたしは元気にしてるよ。死んでるけどね』
茶目っ気たっぷりに母は笑う。和夫は受話器を持ったまま、
「……キビキさん」
涙と鼻水を垂らしつつ、声を絞り出した。
「黒電話を手放すってことは、これにまつわる……その……母との思い出も、全部失くすってことなんでしょうか?」
「そういうことです」
うなずくキビキ。
「他に思い出のお品がなければ、お母様に関わる全ての思い出、記憶、感情を失ってしまうことも有り得ます」
「そんな……」
和夫は苦しげに呻いた。家財道具も、家も、何もかも、全て売り払ってしまった和夫にとって、残された唯一の母の思い出の品が、この黒電話なのだ。
『……和夫や』
電話口で、母が優しく声をかけて来た。
『わたしはもう、死んだんだ。だけど、あんたはまだ生きてる。一所懸命、あんたと、あんたの家族のために生きて、生きて、生きて。やらなきゃならないことを精一杯おやり』
「だけど、母さん。おれ、母さんのこと、忘れたくないよ」
『和夫……』
「いやだよ、おれ。母さんのこと忘れるなんて、絶対に……」
『あんた。馬鹿だねえ』
母は明るく笑った。
『あんたがわたしを忘れても、わたしがあんたを覚えてる』
「母さん……」
『約束するよ。いつまでも、ずっと。忘れられるもんかね』
「母さん! 待って!」
『じゃあ……またね』
通話が切れた。音が失せた受話器を握りしめ、和夫は号泣した。
隣で美枝子も、黒電話に向かって何度も頭を下げながら涙を流している。
「……分かりました」
しばらくして、和夫は洟を啜りながら言った。
「キビキさんからお預かりした百万円……。あれは美枝子の……妻の借金の返済に充てさせていただきます」
「お品の所有権を放棄される、ということで宜しいですね」
念押しするキビキに、和夫は涙ながらに、しかし、はっきりとうなずいた。
「それでは、こちらのお品は質流れとし、たった今より当店の所有物となりました」
キビキは咳払いし、
「ご利用、ありがとうございました」
深々とお辞儀した。