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丸底フラスコに満たされた黒褐色の液体は、アルコールランプで沸かされて気体となり、冷却器を通ってもう一方のフラスコへ、再び液体となって滴り落ちていく。
小瓶一本から取れるのが、およそ十・四ミリリットル。未加工の小瓶はあと三十一本。退屈な蒸溜作業も、その成果が瑠璃色に輝く生命の秘薬となれば、対価として申し分ない。
蒸溜の音が規則的に連なるなか、安楽椅子に腰掛けたキビキは読んでいた本を静かに閉じた。本の背表紙にはグリフォニア帝国史と記されている。
「ずいぶん歴史が変わってしまいました」
キビキが呟くと、足元で眠る冥界神の、短い真っ白な尻尾がぱたぱたと動いた。
「おめえの所為じゃねえか」
テーブルの隅に腰掛けた小猿が笑う。猫ほどの大きさで、全身、真っ白な体毛に覆われている。頭をぐるりと囲む黄金の輪と、真紅の双眸が暗がりでも煌めいている。
「おめえじゃないだわさ。店主って呼ぶだわさ」
左目に眼帯を付けたブレイシルドが、運んできた紅茶ごとトレイをデスクに置き、白猿の尻を突っついた。
「おい、よせって」
白猿は軽快に跳びはね、今度は窓枠に腰掛けた。
「店主なんて、おめえだって滅多に呼ばねえくせに」
キビキはソーサーごとカップを受け取り、ダージリンの芳醇な香りを楽しんだ。一口ふくんで、味わい、飲み込む。
キビキの対面に座ったブレイシルドの紅茶は、自分用に砂糖とブランデーをたっぷり入れているため、ややぬるい。その紅茶風味のブランデーをぐびりと飲み込み、
「蛮鷹、今頃どうしているかしらねえ、だわさ」
酒臭い息を吐くブレイシルド。
「忘れることは救いです。なにより、永遠に誰かの傀儡であり続けるより不幸なことなどありません。やっと救われたと言えるでしょう」
「だから、おめえが言うなって」
笑う白猿を、ブレイシルドがじろりと睨む。おどけて肩を縮めてみせる白猿。
「忘れることは救いでも」
キビキが言った。
「忘れられることの悲しみは救い難い。そんな深い悲しみが永劫に続こうとも、愛する人の幸せを願った燕姫。人の愛とは、なんと深く尊いものでしょう」
瞼を閉じ、酔ったように滔々と語るキビキを、白猿が呆れて笑う。
「相変わらずだなァ、おめえは。あんな脆くって、すぐ死んじまう生き物の、一体どこがそんなにいいのやら」
「私もその一員ですから」
「おめえが?」
「もちろんです。あなただって、その人間を守って長い旅をしたではありませんか」
「店の仕事も放り出してだわさ」
「うっせえな。アイツは特別……じゃねえや。あん時は、なんか、その……なんていうか、まあ、あれだ。そう、暇だったんだよ。いや、特別に、めちゃくちゃな。退屈で死にそうなほど暇だったんだ」
「なるほど」
微笑むキビキに、そっぽを向く白猿。鼻を鳴らしたブレイシルドが、ブランデーをぐいと飲み干し、腕で口元を拭う。
「それで、そっちの方はどうだわさ?」
「そうですね。今のところ、まだ会えていません」
キビキは親指に嵌めた、無骨な鋼鉄の指環を、もう一方の指先で撫でた。
「生死さえ越えて必ず会える逸品なんだわさ?」
「はい。邂逅の指環と名付けました」
「不良品だわさ?」
「まさか」
キビキは笑って頭を振った。
「まだまだ、世界の歪みが足りないようです」
「ってことは、闘ることはまだまだあるってことだわさ」
「もちろん」
うなずいたキビキが、不貞腐れたままの白猿の方へ歩み寄る。
「そういうわけで、引き続きお力添えお願いいたします。大聖」




