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質屋・籠の備忘録  作者: 甲乙イロハ
備忘録
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「よいしょっと、だわさ」


 ブレイシルドは蛮鷹を背負ったまま、狗美姫も小脇に抱えた。その足元に擦り寄る大宍主命。


「な、なあ。早く行こうぜ。おいら、嫌な予感がするんだよ」

「あんた、神様のくせに本当に臆病なんだから」

「違うって! ここは冥界だぜ? 貴様らがおかしいんだよ。ケルベロスを倒したり、世保大神になったり……」

「あたしらは冥界神なんかにならないだわさ。ね?」


 視線を向けられたキビキがうなずく。


「もちろんです。私たちは一介の質屋ですから」


 ブレイシルドと笑みを交わしたキビキが、


「ああ、そうだ」


 名案を思いついたふうに、立てた人差し指を大宍主命に向けた。


「御山に戻るつもりがないなら、いかがです? 大宍主命は辞めて、世保大神よもつおおかみになられるというのは?」


「お、おいらが?」


 目を丸くする大宍主命。


「もちろん。誰かが勤めなくてはいけませんからね」

「うん、適任だわさ。あたしは賛成」

「て、適当すぎるって! 世界の一大事だぞ! もっと真面目に考えろよっ!」


 抗議する大宍主命とともに、冥界門へ向かって歩き出した、その時。

 突然、降り注ぐ月光が真っ赤に染まった。月の輪郭にさざ波が立つ。


「フフ」


 重低音の笑い声が響く。


「フハハハハハハハハハッ! 待っていたぞ! 冥界神が不在になる、この時を!」


 真っ赤な月から、全身を火焔で覆われた灼熱の巨人がゆっくりと降りてきた。その大きさは、ケルベロスを軽く凌駕する。頭部から左右に生えた、湾曲した角。背中に生えた十二枚の紅の翼も赤々と燃えている。その足が冥界の地に着地した瞬間、冥界じゅうにその足音が響き渡った。


「どうして、こいつが……」

「どなたですか?」


 息を呑むブレイシルドに、キビキが問う。


「な、な、な、なに言ってるんだよ! 魔王だよ、魔王! 最初の堕天使にして、堕天使の長。悪魔たちの王様だ!」


「なるほど。あなたが、こちらの世界の魔王なのですね」


「冥界神の力を渡せ」


 轟く魔王の声。


「お求めのお品は、こちらですね」


 キビキは懐から芳名録を取り出した。


「こちらは当店で一番の逸品でございます」

「そこで待て。ゆめゆめ逃げようなどとは思わぬことだ」


 魔王が口を開けると、口腔から漆黒の翼を羽ばたかせて堕天使が飛び出てきた。その手に、真っ赤に灼熱する三叉槍を握っている。虚ろな眼差しの堕天使は、無言でキビキから芳名録を奪おうとした。が、キビキは芳名録を手放さず、自身の背後へ隠した。


「おそれいりますが、先にお代を頂戴しませんと」

「人間ごときが、余と交渉するつもりか。笑止!」


 堕天使はキビキを足蹴にすると、その手から転げ落ちた芳名録を拾い上げた。


「これで余が、冥界の王だ!」


 冥界中に響き渡るほどの声で魔王が大笑するなか、キビキは駆け寄ってきたブレイシルドに、


「……行きなさい」


 小声で囁いた。脱いだ上着を、ブレイシルドが小脇に抱えた狗美姫の背にかぶせる。


「あんたはどうするだわさ?」


 きつい視線を向けるブレイシルドに、キビキはただ、


「行きなさい」


 再び命じた。何かを言い返そうとしたブレイシルドだったが、薄笑みを浮かべたまま表情を崩さないキビキに、


「了解、だわさ」


 素直にうなずき、天から伸びる月光を見上げた。キビキは狗美姫、ブレイシルド、蛮鷹、順番に視線を巡らせると、


「必ず揃って脱出すること。一人も、一つも欠けてはいけません。良いですね」


 言い残し、身を翻して駆け出した。

 ただ一人、闇深い方へ向かって駆けるキビキを見遣っていた魔王が、血の色の眼を見開いた。すかさず堕天使が、手にした芳名録の表紙を開く。なかに記されているものは死者の名前ではなく、


・底なしの壷

・赤っ鉢

・バトルカトラリー

・氷獄の英雄

・スーツケース

・耐重計

・煽動の団扇

・鎮静機

・那由多年筆

・試見官

・アルコールランプ

・覚醒時計


 質屋〈籠〉に所蔵されている品々のリスト、備忘録だった。


「なんだ、これは!」


 狗美姫の芳名録と、質屋〈籠〉の備忘録の表装は、全く同じものだった。


「おのれ、人間!」


 備忘録を破り捨てた堕天使は飛翔、懸命に駆けるキビキにあっというまに追いつくと、その進路を阻んだ。


「よくも騙してくれたな」


 三叉槍を振りかざす堕天使。しかめ面で踵を返したキビキの前に、地響きのごとき足音を轟かせ、魔王が立ち塞がった。


「さっさと本物を渡した方が身のためだぞ」


 立ち止まったキビキを見下ろし、魔王が言う。キビキは眉根を寄せた眉間に指先をあてながら、


「鑑定もせず、取引もせず、勝手に奪っておいてその言い草とは……」


 やれやれ、と頭を振る。


「盗人猛々しいとは、まさにこの事」


「なんだと!?」


 魔王の声が轟く。前方と後方、どこにも逃げ道がないことを確認したキビキが、


「今です!」


 叫んだ瞬間、ブレイシルドは月光のただ中へ飛び込んだ。魔王が冥界門から離れたことで魔界との繋がりが断たれ、赤色だった光が現世の月光の色に戻っている。


「そっちか! それを寄越せ!」


 魔王の巨躯から無数の堕天使が飛び出していく。暗がりの光に群がる羽虫のように襲いくる堕天使の大群に、


「ひええええっ!」


 大宍主命が悲鳴を上げる。ブレイシルドは狗美姫に掛けられたキビキのぼろぼろの上着のポケットから芳名録を取り出し、洟を垂らす大宍主命の鼻先に突きつけた。


「ほら、あんたが冥界神になるしかないだわさ!」

「分かったよ! なる! なります! 冥界神に、おいらはなるっ!」


 芳名録を受け取った大宍主命が叫んだ瞬間、冥界門とともにブレイシルドたち全員の姿が消え失せた。


「新しい冥界神ハーデスの誕生です」


 呟いたキビキを、無数の堕天使たちが一斉に振り返る。


「退け」


 逃げ惑う堕天使。魔王が振り上げた、燃え盛る巨大な足が、灼熱の尾を引きながら、薄笑みを浮かべるキビキを踏み潰した。


「人間風情が、忌々しい」


 魔王は足首を捻り、踏み潰したばかりのキビキを入念に擂り潰した。足を退けると、もはやそこに肉塊すら残っていない。魔王は散らばった堕天使たちを体内に還し、歩き出した。冥界を統べるには、あるいは魔界へ帰るにも、新たに生まれた冥界神を討たねばならない。月明かりの差す冥界に足音を轟かせ、魔王が歩み出した時、


「なんだ、これは?」


 耳障りな、甲高い声が聞こえてきた。それが人間の赤子の産声であると気付き、魔王は眉を上げた。


「不老でも不死でもなく、肉体の損壊に伴って、ただ時が巻き戻るだけか」


 魔王は裂けた口で邪悪な笑みを浮かべると、


「このまま踏み潰し続ければ、どうなるのだろうな」


 赤子のキビキに向かって、その巨大な足を躊躇なく降り下ろした。

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