78
天に浮かぶ満月から放射された淡い光が、トンネル状になって地面を明るく照らしている。まるで巨大なスポットライトのようだ。
「きれいだわさ」
蛮鷹を背負ったブレイシルドがうっとりと言った。その足元で、
「あれが冥界門だ。あの中に入れば、元いた世界へ戻れるぜ」
ひょっこり現れた小さな白猪、大宍主命が見上げて言った。
「あんた、どこにいただわさ!」
「お、怒るなって。おいらは道案内に来ただけなんだ。本体は現世で土砂崩れてるし、社だって、まだ再建中だし。だいたい、おいらはバトル向きじゃないし」
「お得意の幻で、サポートぐらいできるだわさ」
「無駄無駄無駄! ケルベロスにおいらの幻術なんか通じるわけねえだろ。馬鹿にすんなよ、冥府の守護者を!」
「あんた、なに言ってるだわさ」
呆れるブレイシルドに、
「そ、そんなこと言ってる場合じゃねえや。こんなとこ、さっさと出て行こうぜ」
焦る大宍主命に、
「もうケルベロスは倒しただわさ」
「なに言ってるんだよ! 気づかないのか? ケルベロスは冥界神の化身なんだ。ケルベロスを倒したら現世へは戻れるけど……ひっ」
言葉を飲み込む大宍主命。その視線の先に、敗れたケルベロスが横たわっている。よく見れば、ずいぶん小さくなっている。狼としては大きいが、せいぜい牛馬ほどだ。
「第二形態とか、真の姿で再登場、というわけだわさ」
キビキが細い顎を指でなぞる。
「一筋縄ではいかないというわけですね」
「そうそうそう! だからさっさとお暇しようぜ!」
我先に駆け出す大宍主命。
「なにしてんだよ、置いてくぞ!」
「ほら、早く行くだわさ!」
ブレイシルドがケルベロスを見つめ続けるキビキの手を引いて駆け出す。肩越しに振り返りながら駆け出しかけたキビキが、
「待ってください!」
引っ張るブレイシルドの手を振り払った。
「キビキ!」
静止するブレイシルドをよそに、子馬ほどの大きさまで縮んだケルベロスの元へ駆け寄っていく。
「そんな、まさか」
息せき切らせてケルベロスの脇に座り込んだキビキは、ケルベロスの、幼いキビキとほとんど同じ大きさのケルベロスの手を取った。前足ではなく、手。鋭い爪も、黒い毛むくじゃらも消え失せて、そこにあるのは白魚のごとくか細い少女の、狗美姫の手だった。
「やめろ!」
狗美姫は叫んだ。
「お前の勝ちだ。さっさと行け! 行ってしまえ!」
握られた手を引き剥がす力も残っていない狗美姫は、キビキを視線で射殺さんばかりに睨みつける。
「なにを見てる! 見るな! そんな目で私を見るなっ!」
真っ赤に染めた顔で叫ぶ狗美姫の手を、キビキは離さない。
「まさか、あなたがケルベロスだったとは……」
「そうよ。私だけじゃないわ。冥界神と成った者にもれなく与えられる枷。冥界の制御が失われた時、冥界神の意志とは無関係に、自動的に発動するの」
「世界の維持装置、というわけですか」
「ええ。軛と呼びたければ、呼ぶがいいわ。気ままに暮らすお前には、もう永遠に理解できないでしょうね」
吐き捨てて、狗美姫は痛みに顔をしかめた。
「見てなさい。すぐに回復するんだから。回復したら、今度こそ八つ裂きよ。それがイヤなら、さっさと出て行くがいいわ!」
「ほら、世保大神様が折角そう仰ってるんだからさ。さっさと行こうぜ!」
焦れた大宍主命が声を張り上げたのを、
「しっ! ちょっと黙ってるだわさ」
ブレイシルドが静止した。
「な、なんだよ。ケルベロスが世界に存在しない間しか、あっちへは戻れないんだぜ」
半べそ顔で大宍主命が言う。
「……冥界の力を得ようとする者、その能力が高い者ほど、より深く囚われる……。良くできたシステムです。反吐が出るほど」
忌々しげに顔をしかめ、キビキは自身の左右の手を伸ばした。狗美姫の頬を包み込むように。
「何をする、やめろっ!」
頭を振った狗美姫の耳に、キビキがイヤホンを差し込んだ。
「なんだ、これは? なんのつもりだ!」
泡を飛ばす狗美姫に、
「あなたが仕込女に見込まれたあのお客様が、質入れされた逸品です」
キビキはそう言うと、iPodの再生ボタンを押す。
「なんだ、やめろ! なにを聞かせるつもりだ!」
狗美姫の怒りは、当然のように収まらない。じっと見つめてくるキビキに、さらに怒りが増す。
「なぜだ? なぜ諦めた!?」
「諦める? あの子を取り戻すことをですか? 私が?」
「そうだ。無限に等しい力を得て、あの子のことはもうどうでもよくなったのか」
「まさか」
キビキは目を丸くして、
「私は諦めてなどいません」
「諦めてないなら、なんなの!」
狗美姫が叫んだ。
「私は冥界を、あなたは現世を、それぞれ管理して! いつか二人であの子を取り戻そうって誓ったじゃないの!」
「……そう、ですね」
目を伏せたキビキに、
「認めたわね? やっぱりお前は諦めたんだ!」
「そうではありません」
視線を上げたキビキは、まっすぐに狗美姫を見つめた。
「時の神の力をもってしても、時間の逆説は覆りませんでした。どれだけ足掻こうと、もがこうと、私たちだけの力では絶対にあの子を取り戻せないのです」
「だから、なんだ! 延々とガラクタ集めに興じていれば、あの子が戻ってくるとでも言うのか!?」
「はい」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどいません。集めて、集め続けて、世界を作り変えていくのです。私たちとあの子の時間軸が、私たちの望む状況に変わるまで」
「愚かな!」
「そうでしょうか」
「そんな不確かで、あてもない作業を延々と、果てしなく続けるつもりか?」
「もちろんです」
キビキは胸を張った。
「私は決めましたから。どれだけの時を費やそうと、たとえ何を失おうと、必ずあの子を……私たちの可愛いあの娘を取り戻す、と」
そう言って、キビキは懐から芳名録を取り出した。薄紫の瞳が色を濃くしていく、
「あなたにも協力していただきますよ」




