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 静寂。


 天に立ち込めていた暗雲が嘘のように消え失せ、円い月が浮かんでいる。

 倒れていた亡者たちの、まだ動ける者たちが蠢き始める。閉ざされた深い闇の中からも新たな亡者たちが滲み出してきた。現世に未練を残した亡者たちは、冥界の門番が倒れたことをこれ幸いと、呻きながらノロノロと、それでも我先に月を目指していく。

 そんななか、カイライは大剣ブレイシルドを引きずりながら、横たわったケルベロスの口元へ近づいていく。

 白目を剥いた〈霊化〉の牙に、ぼろ布のごとく貫かれた小さなキビキの肉体。ブレイシルドはわずかに回復した闘気をかき集め、


『ふんがっ』


 鼻息荒く、カイライに筋力強化の加護を与えた。


『んぐぐぐぐぐっ……』


 力を振り絞ったカイライが、硬く咬み合わされたケルベロスの上顎を両手で押し上げた。下顎に食べ残しのように絡まっているキビキの身体を、突き刺さった牙から抜き取り、そっと抱き上げる。

 ブレイシルドはため息をつくと、


『……キビキ』


 引き裂かれ、黒焦げになった無惨な亡骸に呼びかけた。もちろん返事はない。

 カイライはキビキの亡骸を抱えたまま、倒れたケルベロスの小山のような胴体を回り込み、未だ龍尾に囚われたままの燕姫の前に立った。


「……死んだのか?」


 力を使い果たした燕姫は、顔も上げずに問う。ブレイシルドは答えない。


「貴様らは、なんなのだ? 人の心を弄び、世界の理を壊し……己の身まで滅ぼして……いったい何を企んでいるのだ?」

『知らないだわさ』


 ブレイシルドは吐き捨てた。


『ご覧の通り、あたしはただの武器だから』


 と、その時。

 カイライに抱えられたキビキの身体を覆う、黒色の焦げがひび割れた。ぱらぱら、と音を立てて崩れ落ちたそれは、燃え尽きた木炭のように宙に舞い散り、消えていく。黒焦げが綺麗に全て消え去ったそこには、瞼を閉じて眠るキビキが残されていた。


『ほら、起きるだわさ』


 ブレイシルドが声をかけると、カイライの腕の中で、キビキは目を開けた。


「……ふう」


 キビキは胸に溜まった息を吐き出すと、ぷっくりした頬で微笑んだ。



「助かりました」


 顔つきもだが、身体がずいぶんと幼くなっている。五歳、いや四歳といったところか。カイライの腕から飛び降りたキビキは、スーツの汚れを払おうとして、身体中に付着した涎や、得体の知れない何やらに眉をひそめた。


「……やはり、生きておったか」


 顔も上げず、独り言のように呟いた燕姫を無視して、


『大丈夫なんだわさ?』


 大剣ブレイシルドが問う。


「問題ないようでしゅ。まだ」


 舌足らずな言葉で返したキビキは、わずかに頬を赤らめた。もごもご舌を動かし、発声練習を始める。


『腕は?』

「ありましゅ……ありますよ」

『そうじゃなくて、ほら』

「……ああ、そうですね」


 キビキは笑った。あれだけあった傷はすべて綺麗に消えているが、スーツの袖がやたら長い。だぶだぶだ。


「八年ぶんほど、若返ってしまいました」

『八年も……』

「大丈夫です。また歳はとりますから」

『そんなの、ほんの少しずつだから、全然間に合ってないだわさ! あんた、もう一体どれだけ巻き戻ってるか……』

「自重します」

『……本当だわさ?』

「ええ、もちろん。おっと。こちらも新調しなくてはなりませんね」


 キビキは薄く微笑みながら、袖を捲りあげた。


『それにしても、八年なんて。今までの最高記録だわさ』

「そうですね。ケルベロスに受けた傷はさほどでもなかったのですが、燕姫の奥義が効きました。さすがは天地開闢を担った八雷の力。主神ゼウス帝釈天インドラ北欧神界アスガルドなら雷神トールにも見劣りしません」

『ふうん』


 気の無い応えのブレイシルドを横目に、キビキは続ける。


「今はまだその片鱗しか見えませんが……完成されていれば、一瞬で残り時間が失われたでしょう。助かりました」

『ちょっと待つだわさ。一か八かだったってこと?』


 問われ、キビキは押し黙った。ブレイシルドは大仰に息を吐き、


『約束するだわさ』


 唐突に言った。


「なにをでしょう?」

『一か八かの賭けなんて、二度とするんじゃないだわさ』

「承知しました」

『本当に分かってるんだわさ?』


 静かながら剣呑さを隠そうともしないブレイシルドの声音に、キビキは頭を下げた。


「申し訳ありません。なんとか今回だけ許してくれませんか?」


 上目遣いに見つめる幼いキビキに、


『し、した手に出たってダメだわさ!』


 ブレイシルドはぴしゃりと言った。


『今回だけ、だわさ』


 荒っぽく鼻息を噴き出したブレイシルドに、キビキが苦笑する。


「はっ」


 ようやく顔を上げた燕姫が、般若のごとき眼差しを向けている。


「……結局、まんまと貴様の思い通りというわけか」

「おかげさまで」


 目礼するキビキから顔を背ける燕姫。


「冥府の守護者を討ち取り、蛮鷹も虜囚にしたまま、狗美姫様の芳名録も持ち逃げか。さぞかしご満足でしょうね」

「そのように仰られるのは心外ですが……」

「貴様は、許さない」


 燕姫は再びキビキを睨みつけ、


「いつか必ず、報いを受けさせる。わたくしが、この手で」

「どうぞお手柔らかに」


 柔和に微笑むキビキ。


「それでは、ご用件をうかがいます」

「……なんでもお見通しというわけ?」

「滅相もございません」


 キビキは慇懃に頭を振る。


「私は当店を必要とされているお客さまのもとへ参上ちているだけの、ただの質屋でございます」

「なら、話は早い。さっき壊れた物のことだ」

発見灯ロケートライトですね」

「それをこれで弁償する」


 指先を揃えて差し出す燕姫。薬指に鋼鉄の指環が鈍く光っている。


「だから、蛮鷹の魂を解放しろ」

「結構です。こちらの処分権は燕姫様にございますので、損壊した発見灯の弁済品として受け取ることは可能です。ただ、所有者は蛮鷹様になっておりますので、この取引により、蛮鷹様が指環とそれにまつわる思い出の一切を失われますが」

「のぞむところ」


 燕姫は言った。


「鷹が健やかに生きる。それこそが、わたくしの一番の幸せ。何を失おうとも、わたくしはこの願いを叶えたい」


 キビキはうなずくと、膝をついた。ダンスに誘うように優雅に燕姫の手をとり、鋼鉄の指環に手をかける。


『それ、うちの物になるんだわさ?』

「ええ。カイライとは、ここでお別れです」

『そっか。短い付き合いだったけど』


 カイライが戦乙女の大剣ブレイシルドを地面に突き立てる。


『じゃあね。なかなか良い漢だっただわさ、あんた』


 当然それには応じず、今まで通り次の指示を待って棒立ちになるカイライ。


「改めまして、それでは」


 息を止めたキビキが、小さな指先に力を込めた。鋼鉄の指環が燕姫の指から抜き取られるやいなや、全身から力の抜けたカイライが地面に倒れこんだ。

 はっとする燕姫に、


「ご安心を」


 キビキが言った。


「魂が肉体に戻り定着するまで、少し時間がかかります。蛮鷹様がお目覚めになられましたら、もとの時間軸へお戻しします。ああ、追加料金はかかりませんのでご心配なく。こちらは時空机クロノデスクを活用するもので本来はオプションでございましたが、お客さまご満足度向上のための一環として……」


 キビキが長々とシステムを説明するなか、燕姫は身に巻き付いたケルベロスの尾から脱け出すと、ふらつきながら、横たわる蛮鷹にににじり寄る。


「鷹……」


 蛮鷹の頭を抱き起こし、胸に掻き抱く燕姫。硬い銀髪を、頬を、愛しげに撫でる。


「うっ……」


 うめいた蛮鷹が、うっすら目を開けた。限界まで疲弊しきった身体はいうことをきかない。倒れたまま、かすむ視界に映った燕姫を見つめる。


「燕……」


 蛮鷹が口を開いた。


「よ……」


 燕姫が応えるより早く、


「姫……様」


 蛮鷹はそう呟き、再び気を失った。

 燕、ではなく、燕姫様。

 そう呼ばれ、燕姫は心底、理解した。彼女の知るあの蛮鷹は、もうこの世のどこにもいないのだ。大好きだったあの笑顔で、自分の名を呼んでくれることは、もう二度とない。死後の世界においてさえ。

 燕姫の双眸から一筋、伝い落ちた涙が足元で弾ける。


「あぁ……」


 身体中の力が抜け落ちるような嘆息に続き、慟哭する燕姫。初めは小さく、次第に大きく。嘆きの声が響き渡るなか、


「ご利用、ありがとうございました」


 静かに一礼したキビキが顔を上げると、燕姫は姿を消していた。

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