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「きゃっ!?」
思わぬ方向からの攻撃にバランスを崩した燕姫は、そのまま真っ直ぐに落下する。
「き、貴様、裏切るつもりかっ!!」
なんとか空中で体勢を立て直した燕姫が叫ぶ。
一方のキビキは空中に取り残され、身動きが取れない。
『避けるだわさっ!』
ブレイシルドの声に合わせ、身を捻るキビキ。が、間に合わない。その脇腹を、弩のごときケルベロスの尾先がかすめていく。
「……っ!」
呻いたキビキが血の糸を引きながら頭から落下していくのを、燕姫は呆然と見つめる。
「庇ったのか? この……わたくしを?」
我に返った。
「ふざけるなっ!」
墜落していくキビキを受け止めようと身を翻し、加速する燕姫。
「くううううっ!」
叫びながら懸命に腕を伸ばし、キビキを空中で捕まえた。
「無事か!?」
燕姫の声に、抱きかかえられたキビキは顎を引いて答える。墜落死は免れたキビキだが、受けた傷は深い。息は荒く、額には脂汗が浮かんでいる。滴り落ちてくる血の多さに、燕姫は戸惑う。
「貴様、よもや今更、死ぬ運命の身ではあるまいな」
飛びながら、問う燕姫。
「……幸いにも、限られた時間を生きる身です」
「バカな」
「以前にも申し上げました通り、私は一介の質屋の店主に過ぎませんから」
微笑むキビキを睨みつける燕姫に、
『また来るだわさ!』
ブレイシルドの声に我に返った燕姫は、ケルベロスが振るった前足を飛んで躱した。巨大な爪が空を切る。さらに続く左右の爪の攻撃をひらり、ひらりと躱しながら、
「それほどの脆弱で、なぜだ?」
燕姫が問う。その胸元で、キビキは眉根を寄せた。
「……なぜ?」
「限りある命で、なぜ、すでに死んだわたくしなどを……」
「勘違いしないでください」
燕姫の戸惑いを遮るキビキ。
「あなたのためではありません。すべては、やつを討ち取るため」
「では、なぜだ。なぜ、そこまでする? 貴様の目的はなんだ?」
「あなたと同じですよ」
「同じ?」
「ええ」
キビキは痛みに顔をしかめつつ、
「愛する者を取り戻す。そのためなら何でもする。同じでしょう?」
呆気にとられる燕姫に、キビキは思わず吹き出した。
「必ず、勝利を」
そう言って、キビキは燕姫の腕を振りほどき、突き飛ばした。ゆっくりと離れていくキビキの小さな身体に〈霊化〉が噛み付いた。並んだ牙がキビキの左半身を覆うように突き刺さり、傷口から咲くように鮮血が噴き出る。左肩、右脇腹、右太腿、左脛と牙に貫かれ、力なく顎の下がったその顔面は蒼白。亡者のように生気が失われている。
キビキは吐血しながら、懐から取り出した翔燕桜の金簪を、そこから伝い落ちる血を舐めとる貪欲な舌に突き刺した。それでも〈霊化〉には蚊に刺されたほどの痛みに過ぎない。
「……準備は、整い……ました」
無慈悲な牙に貫かれたまま、声を漏らすキビキに、
「いま行くぞっ!」
雄叫びをあげながら滑空する燕姫。全身から激しく放電しながら一直線に〈霊化〉へ向かっていく。ケルベロスが振るった左前足の爪撃を躱し、急上昇したところで、
「あっ!」
待ち構えていた龍尾に捕まえられた。総身に大蛇のごとく絡みつかれ、瞬時に動きを封じられる。
「くっ……放せえっ!」
燕姫は全身から雷撃を発して振り解こうと試みるが、尾を覆う鱗の表面を稲妻が這うばかりでほとんど効果がない。
キビキは失血で朦朧とする意識のなか、足掻く燕姫を虚ろな目で見つめた。
「……集中して……ください」
それだけ言うと、今度は〈保存〉と対峙するブレイシルドを見つめた。
『動けっ!』
視線に気づいたブレイシルドが叫ぶ。
『キビキを助けにいくだわさっ!』
指示に従い、不用意に踵を返したカイライを、〈保存〉の隻眼が見逃さない。無防備に駆け出したカイライは右前足に横殴りされ、宙を舞い、横転した。追撃の巨爪は大剣が盾となりカイライを守った。が、
『くそっ! 放せだわさっ!』
盾となった大剣ごと、巨大な手のひらで地面に抑え込まれてしまうカイライ。かちゃかちゃと揺れる戦乙女の大剣と、キビキの視線が再び重なる。
「……あとは、頼みます」
キビキはにっこりと微笑むと、事切れた。
宿っていた生命を失った肉体は、牙に貫かれたまま、宙にぐったりと垂れ下がる。滴り落ちる、大量の血液。
ブレイシルドが悲鳴とも怒号ともつかぬ声で叫んだ時、
「大雷神」
鈴鳴りの声が響いた。その声色とは真逆の、地の底から得体の知れぬ巨大なものが這い出てくるような、おどろおどろしい雷鳴に肚の底を打たれ、〈霊化〉は上空を見上げた。
その眼が大きく見開かれる。
月が消えていた。天上を覆う、暗雲の大海原によって。暗闇に立ち込める漆黒の積乱雲、その切れ間から更に雲が畝り、逆巻きながら湧き出てくる。鼻先を巡らせた〈霊化〉の右頬に走る紫電。
「火雷神」
声とともに、まだ失神したままの〈再生〉の首元に刺さった簪が紫電を帯びた。
「黒雷神、裂雷神、若雷神」
ケルベロスの尾に二箇所、さらに〈霊化〉の首筋でも紫電が弾ける。不吉な雷鳴が止まぬなか、ケルベロスは耳を澄まし、踊るように鳴る声の主を探して首を巡らせた。
声の主は、ケルベロスの尻尾に巻かれ糸の切れた人形のように脱力した燕姫だった。
「土雷神、鳴雷神、伏雷神」
新たな紫電が二つ。右前足の甲と〈保存〉の右目。さらに遅れて〈霊化〉の牙の隙間、舌で紫電が弾けたところで、燕姫の言葉が止まった。
一瞬の静寂をおき、燕姫が顔を上げる。唄うような声に似ても似つかぬ無表情。その唇が再び開かれる。そして、
「八の雷神」
愛を告げるような甘い声で囁いた。
とたん、頭上をのたうつ満天の黒雲から、巨大な雷撃が柱となってケルベロスに降り落ちた。明滅する景色。一拍遅れて落雷の爆音が轟くなか、雷柱はケルベロスの身体中に刺さった簪めがけ八方向へ分散、八箇所の簪に避雷針よろしく喰らい付き、弾け散った。
電撃の残滓が辺り構わず稲妻を撒き散らしながら、消えていく。
焼け焦げ、全身から濃灰色の燻煙をあげるケルベロスが、地面に横倒しになった。感電したケルベロスの三つの頭は白目を剥いているか爆ぜており、だらしなく開いた口の、並んだ牙の隙間からは長い舌がだらりと垂れ下がっている。わずかにまだ息はあるが、損壊が著しく、〈再生〉の能力も追いつかない。ほかの部位に至っては動かせる状態ですらない。




