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緩やかに、しかしどこまでも続く広大な上り坂。
「うまくいった、うまくいった、うまくいった」
二足で駆けながら、白毛の小猪が息を切らせる。その後ろからキビキと、大剣を担いだカイライ、さらに複雑な表情の燕姫が続く。
「どうだい、おいらの幻術は?」
胸を張る小さな山神に、
『さすがに冥界にまで来てくれるとは思わなかっただわさ』
大剣に褒められ、大宍主命は尻尾を盛大に振った。
「顔を出すって言ったからな。約束は守らねえと大宍主命の名が廃るってもんだ」
『ありがとだわさ』
大宍主命は円らな眼を見開き、
「貴様にそう素直に礼を言われると、なんか調子狂うぜ」
笑った。だがすぐに真顔になると、
「あのデカい婆さんは撒けたけどよ。まだ助かったわけじゃないからな」
『分かってるだわさ。出口はどこだわさ?』
「あそこだよ」
突き出た猪鼻を上にしゃくる大宍主命。そこに浮かんでいるのは真円の月だ。
「満月ってのは、異世界への通路だ。現世と冥界、天国と地獄、神界と魔界、妖精界に精霊界に、何でもござれさ」
「待て」
駆ける一行を制止したのは燕姫だった。
「何か、いる」
両手の簪に通電させる燕姫。広大な坂道に、屍がぽつり、ぽつりと倒れ込んでいる。
「大丈夫。こいつらはただの亡者だよ。意志も何も残ってない。ただの動く屍さ」
亡者はまだ動けるものもあれば、動けないものもいる。さらに坂を上っていくにつれ、屍の数はどんどん増えていく。気温というものは存在しないはずが、頂上に近づくにつれ、冷気が鋭く肌を刺してくる。
「おいらが降りて来た時は、ここまでじゃなかったんだけどな」
「奴がいる、ということか」
燕姫は周囲に視線を巡らせる。と、大宍主命が足を止めた。ぶるり、と身体を震わせる。
「……着いたぜ」
折り重なり、積み上がった亡者、屍の山。その頂きに悠然と佇む巨影が、その頭上間近にまで迫った満月に鮮やかに照らし出されている。三つの頭を持つ漆黒の狼犬は禍々しくも神々しい。
冥府の守護者ケルベロスは、ひと唸りして、ゆったりとその身を大木のごとき四肢で立ち上がらせた。鋼の鱗で覆われた龍尾が鎌首をもたげる。
咆哮が轟いた。三重の重低音が肚に響く。生あるものも生なきものも、あらゆるものの身と心を凍てつかせ、本能的に絶望させる叫び声。
大宍主命は固まった手足をなんとか動かして後退りしつつ、
「あ、あいつを倒せば、あの月が生者の世界につながる」
かちかちと歯を鳴らして言った。
『あんた、神様なら何とかするだわさ』
大剣は呆れた声を上げたが、
「む、無茶言うなよ。ここは冥界だぜ? おいらだって本当は入っちゃいけない場所なんだ。び、びびってるわけじゃねえからなっ」
早口で弁明した大宍主命の姿が、少しずつ透けていく。
「と、とにかく、あいつさえ倒したら現世だ。これで借りは返したからな」
健闘を祈る、と別れを告げた大宍主命の姿が完全に掻き消えた。
ケルベロスの頭が、右から順にこちらを向く。うなり声が漏れる牙の隙間から流れ落ちた涎が、踏みしめた亡者たちを濡らしている。
「来ますよ」
キビキが言うとほぼ同時に、屍の山から飛び降りたケルベロスが猛然と駆け出した。疾い。臨戦まで十秒かかるまい。一直線に突撃してくるケルベロスに、
「若雷神!」
初手を放ったのは燕姫だった。投擲された簪は帯びた電撃が高速回転、更なる推進力が生み出されたことで急加速した。目測を誤ったケルベロスの中央の頭部、その右目を帯電した簪がざっくり切り裂く。
思いもよらぬ激痛に哭くケルベロスに、放たれた矢の如く飛び出したカイライが追撃の大剣を振るう。残った左の隻眼で睨むケルベロスが怒りの咆哮をあげた瞬間、カイライの逆袈裟がケルベロスの正面、ではなく右頭を斬り飛ばした、ように見えた。
しかし。ケルベロスの右頭は半ば透けており、カイライ渾身の一撃は手応えすらなかった。図らずも体が伸びきってしまったカイライに、左の頭が鋭い牙の並ぶ大口を開けて襲いかかる。がちん、がちん、がちん、と噛み合わされる死の顎を、軽快なステップで躱すカイライ。四度目の顎門が噛み合わされた瞬間、その眉間めがけてカイライが大剣を振り下ろした。今度は真っ二つになってもおかしくない程の手応えがあった、にも関わらず、ケルベロスの左頭には傷一つつかない。どころか、打ち込んだはずのカイライの手の方が反動で痺れ、あやうく大剣を手放してしまうところだった。
『この石頭がっ!』
怒った大剣が突っ込もうとしたところで、
「後ろです!」
キビキが叫んだ。カイライの背後に、元通り不透明になった右頭が唸りをあげて待ち受けている。挟み討ちだ。
「大雷神っ!」
燕姫がケルベロスとカイライの間に投げ込んだ簪めがけ、轟音と共に蒼白の雷柱が落ちた。寸前で足を止めたケルベロスの鼻先で稲妻が激しく明滅する。
「戻りなさい」
キビキが指示を出すや、カイライは即座に後退した。意思のないその姿を、燕姫は哀しげに見つめつつ、
「肩を並べるのは奴を討ち取るまでだ。良いな」
「心得ております」
「奴を討ち取れば、鷹を解放するのだな」
「もちろんです。約束を守るのは商いの基本中の基本ですから、ご安心を」
「……ふん」
鼻を鳴らした燕姫は衣をひらめかせ、キビキの目の前に背を向けて舞い降りた。その豊かな銀髪から左右の手で簪を一本ずつ抜き取ると、
「裂雷神」
それぞれに雷刃を宿らせる。先ほどまでとは大きさが違う。戦乙女の大剣の三倍の長さ。
『剣は長けりゃいいってもんじゃないだわさ』
カイライに構えられたブレイシルドが拗ねるのを無視して、
「策はあるのか?」
振り返らず問う燕姫に、
「我々で陽動を行い、時を稼ぎます。その間にあなたは力を溜め、ケルベロスに最大出力で攻撃してください。古代女神の系譜に連なる貴女の全力ならば、冥界神の飼い犬ごとき恐るるに足りません」
「……簡単に言ってくれるわ」
震える指先。燕姫は顔をしかめた。例え神の系譜に連なる者であろうと、死者である燕姫にとってケルベロスが絶対者であることには変わらない。
『……で、どうするだわさ? もう油断はしてくれないみたいだわさ』
ブレイシルドの言葉通り、ケルベロスはやや遠巻きに距離をとって、様子を見ている。燕姫の雷撃を警戒しているようだ。
さらに。中央の頭の右目に与えたはずの傷も、いつの間にか完治している。
「ふむ……」
キビキは顎を指でつまんで呟いた。
「ケルベロスの三つの頭は、それぞれ保存、再生、霊化を顕すとされています。真ん中の頭には再生能力があるようですから、他の頭にもなんらかの特殊能力があると考えられます」
『左はとにかく硬くって、右は幽霊みたい。こっちの攻撃がすり抜けただわさ』
さきほどの戦闘での手応えを思い出し、ブレイシルドが言った。
「己の攻撃の時だけ実体化するタイプですね。連携が大切です」
キビキはシャツの首元のボタンを外し、上着の襟を正した。
「では、参りましょう」




