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冥界の奥底。
「しかし、愚かな娘じゃのう」
大きな体を揺すって、仕込女の長は嘆息した。身の丈も横幅も燕姫の二倍はある。阿亀の面は被っていないが、表情はお面と瓜二つだ。
「世保仕込女にお取り立ていただいた分際で、狗美姫様を裏切るとは。せっかく賜りし八雷の名が泣くというもの」
阿亀の面を外され素顔となった燕姫は、両手首を床から伸びた鎖で繋がれたまま、
「わたくしは蛮鷹の妻、蛮燕。八雷などではありません」
凛として言い放った。
「畏れ多いことを。八雷とは由緒ある……」
「そんなもの、要りません!」
「わかった、わかった」
長は、やれやれといった風に頭を振り、金棒の先を地に着けて仁王立ちになった。ほかの仕込女たちは狗美姫と共に、亡者たちを闇に還すため冥界を奔走中だ。一人、守りを任されたのは誇らしくもあるが、狗美姫の側で役に立てないのが辛い。
「まったく、忌々しい」
長はその細い眼で、じろり、と闇を見つめた。
「なに見てんだわさ」
燕姫と同じく、地面の鎖に両手首を繋がれたブレイシルドが顔を上げた。ひび割れた甲冑がところどころ砕け、肌が露わになっている。もっとよく見れば、全身に儚く輝く亀裂が走っている。バラバラになりそうな身体を闘気で繋いで、やっと維持している状態だ。
「じきに主人もろともに滅ぼしてやるゆえ、覚悟するのじゃな」
「バーカ」
ブレイシルドが言った。
「あたしはね、キビキのただの武器だわさ。武器なんかのために、あの引き籠りがこんな辛気臭い場所まで来るわけないだわさ」
「狗美姫様のお見立ては違う。黙ってそこに繋がれておれ」
「偉そうにしてんじゃないだわさ。バーカ! ブース!」
「黙らっしゃい」
「うるさいだわさ。バーカ! でーぶ! おたんこなす! すっとこどっこい!」
長の握る金棒の柄がみしり、と鳴った。こめかみに血管が浮き上がる。
「えっと、バーカ! カーバ……」
「誰がカバじゃっ!」
白肌を真っ赤に染めて、長が金棒を振り上げた。目を閉じたブレイシルドの口元に笑みが浮かぶ。
「燕っ!」
呼び声と同時に、まばゆい光線が闇を切り裂いた。
「ひいっ」
悲鳴をあげ、金棒に抱きつく長。
「そこか、燕!」
発見灯の光が乱舞し、闇を裂く。
「どっちなんだ? いるんだろ? 返事をしろ、燕っ!」
「や、やめんか、コラ! イヤっ、きゃああっ!」
光の当たった半身の肉が腐り落ち、骨まで見えかけている。ほうほうの体で逃げ出した長が、闇のただ中へ吸い込まれるようにして消えていく。
「燕! 無事か!」
向けられた光から顔を背けた燕姫に、駆け寄っていく蛮鷹。
「来てしまったのですね。とうとう、ここまで」
薄まった発見灯の光に照らされた燕姫の口元は、悲しげに微笑んでいる。
「待たせたな」
蛮鷹は発見灯を腰帯に差しながら言った。
「行こう、俺と」
手をのばす蛮鷹に、唇を結んだ燕姫はかぶりを振る。
「だめなのです。わたくしは……」
じゃら、と手首に繋がれた鎖が鳴った。
「この鎖か? こんなもん、俺がぶっ壊してやる」
腰帯から抜いた鎚を、床を這う鎖めがけて打ち下ろす。鎖はびくともしない。
「くそっ! 壊れろ! 壊れやがれっ!」
繰り返し鎚で打たれても、鎖には傷一つつかない。それでも諦めずに打ち続ける蛮鷹。
「そんなことしたって無駄だわさ」
ブレイシルドが呆れて言った。
「無駄かどうかなんて、やる前から分かるわけねえだろ!」
「分かるだわさ。この世には摂理ってもんがあるだわさ」
「うるせえっ!」
「この鎖は、冥界の鎖って言って、どんな力でぶっ叩いても、絶対に壊れないんだわさ」
「そうかい! だから何だよっ!」
それでも蛮鷹は、がむしゃらに鎚を打ち続ける。
「ただ、さっきのあのデカ婆と同じで、冥界のものは全て、光に弱いんだわさ」
「光? そうか!」
蛮鷹はハッとして、発見灯を抜き取った。スイッチを入れ、放たれた光を鎖に当てる。途端、頑丈な鎖がさらさらと砂のように崩れ落ちた。
「よしっ!」
喜んで飛び跳ねる蛮鷹。
「これでもうお前は自由だ! 行こう、燕」
再び手を伸ばしてくる蛮鷹に、
「そうではないのです」
燕姫がうなだれて言った。
「わたくしは既に冥界の住人。生者のあなたとは暮らせません」
「だいじょうぶだ。二度と一人になんかしない。俺がずっとそばにいる」
「だめです。わたくしはもう、死んでいるのです」
悲しげに言った燕姫に、
「関係ねえ!」
「来ないで!」
発見灯の光で闇に埋もれていた陰影が去り、暗がりに隠れていた色彩がつまびらかになる。照らし出された燕姫は、土気色に腐った肌をして、不快な死臭を漂わせる、紛うことなき死者であった。目を見張り、凝視する蛮鷹に、
「見ないで」
袖をあげ、縮こまる燕姫。
「このおぞましい姿を、見られたくなかった。あなただけには……」
消え入る声。震える燕姫の、腐臭に満ちた小さな体を、
「会いたかった」
蛮鷹は抱きしめた。今にも腐り落ちそうな、ほの軟い背中を優しくさすり、蛆の湧いた頬に、自らの頬を寄せる。
「おまえがどんな姿になっても、俺はおまえと共にいる」
蛮鷹は燕姫の頭をそっと撫でた。
「もう二度と離さない。もう二度と、おまえを一人にはしない」
抜け落ちた髪が手のひらにへばり付く。
「結婚しよう、燕」
燕姫の、白く濁った眼が見開かれる。蛮鷹は左手の小指にはめていた鋼鉄の指環を抜き取ると、燕姫の手を取り、その左手の薬指にはめた。燕姫はしばらく指環をつけた自分の、腐った手を見つめていた。が、
「……なんだ、こんなものっ!」
叫んだ。




