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質屋・籠の備忘録  作者: 甲乙イロハ
芳名録
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「……カイライ!」


 命じられたカイライが、紫色の瞳に暗い炎を宿したキビキと共に、芳名録を再びぱらぱらと捲り始めた狗美姫に向かって歩み寄っていく。


「万引きは赦しませんよ」


「そのお人形さんだけで、どうやって赦さないつもり?」


 狗美姫はつまらなさそうに、閉じた芳名録から視線を上げると、


「もう芳名録これを使うまでもない。あとはお前たちに任せるわ」


 踵を返した。


「待ちなさい、狗美姫」


 足を踏み出そうとしたキビキを、地面から芽吹くように現れた八つの人影が取り囲む。

 身長や体型、束ねられた髪や肌の色は様々だが、皆一様に巫女装束をまとい、阿亀おかめの面を被っている。仕込女しこめと呼ばれる、狗美姫の忠実な召使たちだ。


「やっておしまい」


 肩越しに振り返った狗美姫の号令で、仕込女たちの手それぞれに得物が現れる。薙刀、短剣、棍棒、円月刀、槍、鉄扇、突剣、簪。それらが一斉にキビキに襲いかかった時、周囲の景色が激しく明滅した。刹那、轟音が鳴り響く。落雷だ。


冥界ここで、雷など……」


 普通なら有り得ない。しかし、


「お前か」


 目を見張る狗美姫、その脇に抱えられた芳名録を、銀髪の仕込女が奪い取った。


「八雷っ!」


 怒りを露わに叫ぶ狗美姫に背を向け、銀髪の仕込女はひゅうと滑空すると、棒立ちのキビキを宙空へ抱き上げた。さらに水平に飛び、闇のなか四角く切り取られたICUのドアの向こう、質屋〈籠〉の店内にキビキを下ろす。


「これで、鷹を解放してくれますか?」


 阿亀おかめの面の下から、くぐもった声が問う。差し出された芳名録を見下ろし、


「もちろんです、燕姫様」


 キビキはうなずいた。


「盗品ですが、問題ありませんか?」


「今回のご助力そのものが対価となりますので、物品の所有権は関係ありません」


「よかった」


「ご利用、ありがとうございました」


「この、裏切り者め!」


 キビキが一礼したのと、狗美姫が叫んだのは同時だった。銀髪の仕込女、燕姫の姿が悲鳴とともに一瞬で闇に溶ける。


「貴様、それに触るな!」


 取り乱す狗美姫を他所に、芳名録のページを捲るキビキ。


「そやつを八つ裂きにせよ!」


 狗美姫が叫んだ時、


『狗美姫様』


 仕込女たちが声を上げた。闇の中から次々と、無数の人影が形を成している。そしてその多くが頭上に浮かぶ月に向かって手を伸ばしている。影の中には羽根や翼を持つ者もあり、それらは天空の月へ向かって一直線に飛んでいく。


「貴様、何ということを……!」


「ブレイシルドを返すなら、お返ししますよ」


 指先で次々と芳名をなぞり上げながらキビキが言った。忌々しげに眉をひそめる狗美姫。


『狗美姫様、このままでは』


 死者が現世に溢れてしまう。仕込女の一人が焦燥の声を上げた。天に浮かぶ月に向かって亡者たちが積み重なり合い、そこかしこで小さな山を形作り始めている。

 狗美姫はキビキを指差すと、


芳名録それは大切に持っておけ。貴様の大剣と交換だ」


「承知しました」


「交換場所は我が館。その軟弱な身で、我が国へ降りてくる勇気が貴様にあるのならばな」


 狗美姫が闇に溶けていく。続けて仕込女たちも消え失せた。

 ため息をつくキビキ。冥界は無数の亡者たちの呻き声で満ち、もはや静謐さの影もない。その時、


「どうなってんだ!」


 文字通り跳び起きた蛮鷹が出し抜けに叫んだ。


「魂が戻りましたか」

 スーツの埃を払いながら言ったキビキに、蛮鷹が歩み寄る。


「おい、どうなってんだ、これ。俺は、どうして……」


 言いかけて、慌てて自身の手に視線を落とす。そこにあの指環があることを確認し、安堵の息を吐いた。


「なんで俺は、俺のままなんだ? ここは、どこだ?」


 魂を抜かれカイライであった期間の記憶がないため、今の状況が理解できない蛮鷹に、


「簡単に言いますと」


 キビキが声をかける。


「あれからずっと、あなたは私の傀儡として大変よく働いてくれました。そしてさきほど、燕姫様がお越しになり……」


「燕が?」


 驚く蛮鷹に、うなずいて応じるキビキ。


「手に入れた貴重な品と引き換えに、あなたの魂を解放されました」


「燕は死んだじゃねえか。あんただって、そう言って……。話もできねえって」


「当店の品揃えにも変化がございまして。とにかく、死して尚、あなたを救われたのです」


「そうなのか……。そうなんだな」


 死んだはずの、もう二度と会えないと思っていたのに。蛮鷹の心は嫌が応にも昂ぶった。


「それで、燕は今、どこにいるんだ?」


「燕姫様は狗美姫の仕込女しこめとなられていたようですから、おそらくは冥界の深奥。最も暗い場所へ……」


「わかった。ありがとよっ」


 駆け出そうとする蛮鷹を、


「お待ちください」


 キビキが呼び止めた。


「どうなさるおつもりですか?」


「もちろん、あいつを迎えに行く」


「それは、燕姫様の御心に沿うものではないかと」


 キビキの言葉に、蛮鷹は自嘲の笑みを浮かべ、


「難しいことは俺には分からねえ。だけど、あいつが俺を助けてくれたんだろ? なら、次は俺の番だ。それだけの話さ」


「差し出がましいことを申し上げますが、燕姫様はお喜びになられませんよ」


「あいつに怒られるのには慣れてるよ。世話になった。じゃあな」


 蛮鷹は一片の躊躇いもなく、無間の闇へ向かって駆け出した。月明かりに照らされたその背中が、亡者の呻き声と未知の獣の咆哮が木霊する暗黒の中へ消えていく。キビキは肩をすくめ、


「困ったものです」


 言ったその口元に、言葉とは裏腹な笑みを浮かべた。手元に残った芳名録のページを捲る。人類史上、個体を識別するために名前が発明されて以来、そのすべてが生誕地と終焉の地とともに、ここに記載されている。名前を下から上になぞればその死者を召喚でき、上から下になぞれば冥界へ還すことができる。死者の書、閻魔帳などと呼ばれたりもする。

 ページを捲り続けていたキビキの手が止まる。


「……いた」


 目当ての名前を見つけ、目を見開くキビキ。息を呑む。高まる鼓動を深く息を吐いて抑え、指先でおそるおそる、その懐かしい名を下から上へなぞり上げた。期待に満ちた視線を上げ、周りを見渡す。しかし、誰も現れていない。さっきは多くの死者を簡単に召喚できたというのに。

 時間の逆説タイムパラドックスに囚われない代償。世界との繋がりを断ち切る前に自身が存在した時間軸にだけは干渉できない。あらゆる物品に所有権も処分権も行使できないのと同様に科された、呪わしき制約。

 何度もなぞった痕跡のあるその名前を、キビキは上から下へ優しくなぞった。


 亡き人の瞼を閉ざすように。

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