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「……ルール違反、ですって?」
狗美姫の瞳の紫が色濃くなっていく。
「世の理から外れ、己が領域に引き籠もった臆病者の言葉とは思えないわね」
「籠もったのではありません。逃れたのです」
「詭弁ね」
ふん、と端正な鼻を鳴らす狗美姫に、
「詭弁などではありません。軛では分からないでしょうが……」
「なんだと?」
ぴくり、と狗美姫の細い眉が反応し、その瞳の紫色がみるみる色を濃くしていく。
「ああ、申し訳ありません。今のは一般名称として……」
「黙れ」
狗美姫はキビキの言葉を遮った。
「責任も、立場も、何もかも捨てておきながら、未だ世界にしがみつく体たらく」
突然、周りの景色が暗転した。
「今日こそ引導を渡してやるわ」
ICUのベッドも、たくさんの医療機器も、ドアも、壁も、なにもかも、鈍紫に光る輪郭だけを残し、あとは真っ暗な闇に変わっている。
『これは……冥界、だわさ?』
剣のまま驚くブレイシルドに、
「ご名答」
狗美姫がうなずく。
「あなたと違って、私はまだ進化しているの。もう、今までのようにはいかないわよ」
狗美姫はそう言うと、ポシェットから分厚い芳名録を取り出した。頭上に浮かぶ満月を見上げ、
「さあ、今宵は誰にしましょう」
ぱらぱらとページをめくり、時折、ちらとカイライを眺めては「ちょっと違うわね」と首を傾げ、唇を尖らせる。
「ブレイシルド」
潜めた声に緊張がにじむキビキに、
『なんだわさ』
不敵に笑うブレイシルド。
『いつも通り、出てきたやつをぶっ飛ばす。それだけだわさ』
「はい」
キビキはうなずき、
「しかしここは彼女の領域。制限時間がありません。十分に注意を」
『望むところだわさ。いつも勝手にただの屍に還って、不完全燃焼だったから』
ブレイシルドが闘気をカイライの全身へ送り込み始めた時、
「うん、この子にしましょう」
狗美姫はページを繰る手を止めた。桜色の指先を芳名録に記された名前の一つに当て、下からなぞり上げる。
「いらっしゃい」
ささやいたのと同時に、狗美姫の前に小柄な男が忽然と現れた。和装で左腰に大小の刀を差しているものの、甲冑や盾など防具の類は身につけていない。侍だ。顔に黒塗りの火男の面を着けているため年齢不詳だが、結われた髷には白いものが多く混じっており、痩せた肌には艶がない。
『ずいぶん小っこいお爺ちゃんだわさ』
「油断大敵ですよ」
『もちろん……先手必勝だわさっ!』
ブレイシルドが吠えると同時に、地を蹴るカイライ。一瞬で間合いを詰め、大剣が侍を一刀両断、したかに見えた。が、大剣の切っ先は侍の爪先にめり込んでいるだけ。侍にはかすり傷一つない。完璧な見切り。狗美姫は満足げにうなずき、
「やっておしまい」
無言でうなずいた侍が、瞬きも待たずに太刀を抜刀、放たれた神速の居合斬りを、
『だわさっ!』
盾となって受け止める大剣、その柄から手を離したカイライ渾身の背面回し蹴りを、半歩身を引き躱した侍は、無防備なカイライの頭上めがけて太刀を振り下ろす。
『させないだわさっ!』
瞬時に全ての闘気をカイライへ注ぎ込むブレイシルド。ほとんど爆発したようなエネルギーの奔流、見えざる障壁に侍の剣が弾かれる。再び大剣をつかんだカイライの繰り出した、袈裟、胴薙ぎ、突きの三連撃を、すい、すい、すい、と、舞うように躱した侍が一転、突き出された大剣めがけて太刀を打ち下ろした。
後世で兜割りと称された必殺の一撃が、大剣の刀身に亀裂を走らせる。
「ブレイシルド!」
懐から生命の秘薬を取り出したキビキに、
「そんなの要らないだわさ!」
叫ぶ大剣。
「あたしはあんたの武器! 戦闘はあたしに任せて、引っ込んでるだわさ!」
刀身の亀裂を塞ごうと、大剣は再び闘気を発するが、カイライを護るために放出した直後で、すぐには発動できない。剣本体に大きな損傷を受けたため、転身も難しい。
『くそっ! 肝心な時に限ってだわさっ』
身動ぎしてカタカタと刀身を震わせるしかできず、歯噛みするブレイシルド。
「あなたとも長い付き合いだったけど、これまでね。子守りのお姉さま」
腕組みした狗美姫が顎をしゃくる。
「とどめを」
うなずくと同時に深く腰を落とした侍が、瞬時に間合いを詰めた。閃く侍の白刃。カイライは大剣を頭上に掲げ防御姿勢をとる。闘気が込められない大剣に、再びの兜割りに耐える力は残っていないだろう。
(さよなら、だわさ)
心の中で呟いた。金属同士がぶつかる激しい衝撃、音。砕け散った我が身を想像していた大剣は、
『な……』
目の前の光景に驚き、
『なにしてるだわさっ!』
激昂した。
「大丈夫ですか?」
侍を見据え、キビキが言った。手にした刀で、侍の一撃を受け止めている。




