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消防車がサイレンと半鐘を鳴らしながら、次々と集まって来ている。雑居ビルが立ち並ぶ急増の繁華街は、もともと幅が狭い路地裏の道に、道路上に電飾の大型看板やゴミ箱やらが置いてあるせいで、梯子車などの大型車輌がなかなか通れない。
「退がってください! 退がって!」
カフェCoCoonの入っている雑居ビルのあちこちから上がる真っ黒な煙。明かり取り用の小窓や換気扇から、時折、炎がちらちらと顔をのぞかせる。
出火元は、隣のビルで営業していた焼肉屋だ。ダクト内に溜まりに溜まった油が発火し、非常階段に放置されていた粗大ゴミか何かに引火したらしい。
「危険です! 退がって!」
「なかに、なかに千恵が、妻がいるんです! 行かせてください!」
「だめです! 退がって! 入らないで!」
ビルへ入ろうと暴れる純也を、消防士の指示で仲間たちが止めている。
「どうしよう……」
つぶやく早希。屋上だったことが幸いし、もうもうと立ち上る黒煙に巻かれることはなかったが、階下ではすでに炎が燃え広がっている。頼るべき非常階段は燃え盛る炎で到底、降りられない。途中の階で緊急停止したエレベーターのドアの隙間からも黒煙が漏れ出ている。ここに火の手が回ってくるのも時間の問題だろう。
咳き込む千恵。
「大丈夫?」
早希は鞄を探り、ハンドタオルとペットボトルの水を取り出し、千恵に手渡した。
「こんなのしかないけど」
「サキ」
恐怖で泣き出す千恵に微笑みかける。
「お母さんになるんでしょ。しっかりしな」
はっとした千恵は唇を結び、うなずいた。手の甲で涙を拭う。
「サキ!」
千恵が指差したのは業務用の室外機だった。燃えている。火が回ってきた。煙も屋上へ噴き出してきている。転落防止柵から見下ろすと、階下はすでに火の海だ。消防車の赤色回転灯の明滅のなか、たくさんの消防隊の姿が見えるが、間に合うだろうか。地上から五階の高さ。飛び降りるには高すぎる。ほんの数分で、屋上の半分ほどが煙で暗雲のように覆われてしまった。暑い。
「それで、鼻と口をおさえて。こっち。頭を低くするのよ」
早希は千恵の手を引き、煙の反対側へ向かった。屋外用の物置がある。非常用の道具でも入っていればと願いつつ、錆びついた引戸を開けた。
しゃらん、と鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
書き物をしていたキビキは手を止め、立ち上がった。
「え?」
後ろからついてきた千恵も、
「なに、これ」
あるはずのない場所に現れた、ガラクタが並べられた質屋に目を丸くしている。
「あ、あなた……」
薄笑みを浮かべるキビキに、
「わたしたち、助かったの?」
早希は問いかけた。
「いえ、残念ながら」
キビキは頭を横に振って言った。
「この後、お二人とも火に焼かれ、たいへん苦しみながらお亡くなりになられます」
「いやっ! いやよっ! 私、これからなのに! これから幸せになるのにっ!」
泣き崩れる千恵。
「で、でも、実際、暑くもないし、しばらくここにいれば、いずれ消防車が……」
「来ません。当店では時間が停止しておりますので、ここにおられるだけでは、お二人の人生は何ひとつ変わりません」
「時間が止まってる? あなた、なに言ってるの?」
「僭越ながら、問題はそこではないと思いますが……」
キビキの言葉に、我に返る早希。
「私、純也のところに帰りたい! お願い、なんでもするから……」
床に座り込んで泣き出した千恵の背中を摩りながら、
「なにか助かる方法はないの?」
早希が尋ねた。
「そうですね。方法はいろいろございますが……」
「一番確実なのにして」
「それでは、今回はこちらでいかがでしょう?」
「今回は?」
眉をひそめ聞き返す早希の目の前に、キビキは純白のコートを広げて見せた。
「自由に空を飛ぶことができるウイングコートの、お修理品です。残念ながら空を飛ぶ能力は失われていますが、残されたでお二人までなら、無事、地面まで運べるはずです」
「良かった……。助かるわよ、千恵!」
「ほんとに!?」
顔を上げた千恵の顔が明るく輝いたところで、
「少々お待ちください」
キビキが水を差した。
「お修理品とはいえ、こちらも当店の大切な品です。無料で差し上げる訳には参りません」
「なんなのよ、もうっ! なにが必要なの? いくらなの?」
まくしたてる早希に、
「ウイングコートのお修理品をお買い求めいただく場合、百万円をいただきます」
「わかった。あとで振り込むから口座番号を……」
「当店では現金しかご利用いただけません」
「カードもダメなわけ?」
うなずくキビキに、
「現金で百万持ち歩いてる人なんていないでしょ! 今時なんなのよ、この店!」
怒鳴る早希に、
「申し訳ございません。なにぶん当店は時空の狭間を漂っておりますので」
「また、わけ分かんないことを……」
「現金が難しければ、代わりになる品物でも結構ですよ」
「代わりって?」
「さきほどご来店された際にお伝えしました、そちらを」
キビキが指差したのは、早希のビジネス鞄だった。
「あのiPodを?」
「はい」
「百万で?」
「いったん質入れいただき、当店がお貸し出しいたしました百万円で、ウイングコートのお修理品をご購入いただきます。月に元本の一割、今回は十万円をお支払いいただけば、お客さまが所有権を失う質流れを止めることができます」
キビキは引き出しから契約書とペンを取り出し、バーカウンターの上に置いた。
「期日までにご返金されなかった場合は、品物の所有権およびそれに付随する一切、すなわちこのお品にまつわる全ての記憶や思い出、あらゆる感情を当店へ譲渡いただきます。他の細かな契約内容につきましては、こちらにお目通しの上、サインを」
キビキが差し出したペンで、早希は契約書に署名した。
「これでいいんでしょ? さあ、渡して!」
手を差し出す早希に、
「おそれいりますが、先にそちらのお品を」
「ああ、もうっ!」
早希は鞄を広げ、中からiPodを取り出すと、差し込まれたイヤホンごとカウンターに置いた。キビキがうなずく。
「あくまでお修理品ですので、ご使用いただけるのは一回限り、お二人までです。よろしいですね?」
「二人ね。わかったわよ! いいから、さあ早く渡して!」
早希はウイングコートをキビキから奪い取った。その拍子で、広がったウイングコートが無重力下であるかのように、しっかり宙を漂った。コートの端を持っていた早希の踵が床から浮かび上がり、十秒ほどかかって再び床に着地する。
「よし!」
早希は引き戸を開けた。ドアにかけられた鈴の音は、燃え盛る木材の爆ぜる音で掻き消される。屋上は、半分ほどが火の海と化していた。視界もほとんど黒煙で覆われている。店から一歩でも出たら、すぐに飛び降りなければ命はない。
「そのアイテム、信じていいのかな? いいんだよね? それを使えば、下へ降りられるんだよね?」
お腹を摩りつつ背後から問う千恵に、
「ついさっき見たでしょ。ほんと、相変わらずとろいわね」
早希が振り返りざまに言い放った。
「……サキ?」
明らかに様子のおかしな早希を案じて千恵が伸ばした手を、
「触るなっ!」
早希が振り払った。




