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「まあ、そうですね」
答えたのは和夫ではなく、黒電話と契約書を手に戻って来たキビキだった。並べてカウンターに置く。
「こちらの契約書はまだ有効です。田中様、どうなさいますか? こちらの黒電話を諦めて百万円を取られますか? それとも百万円を当店へ返済して黒電話を取り戻されますか?」
「わ、私は……」
「ここに書いてありますが」
キビキは契約書に記された細かい文字を指差しながら言う。
「期日までに返金されなかった場合、乙……田中様ですね、は、品物の所有権およびそれに付随する一切を甲……当店に譲渡する」
「あ、あの……所有権は分かりますが、それに付随する一切、とは?」
よく読んでいなかったが、確かにそう書いてある。
「そうですね。今回の場合、この黒電話にまつわる田中様の全ての記憶や思い出、あらゆる感情、といったところですかね」
……からかわれているのか? 和夫は自問したが、キビキは微笑んでいるものの表情は真剣そのものだ。嘘をついているようには見えない。しかし、そんなことが本当にできるのだろうか? 極度の緊張感の中にいるため、考えがまとまらない。混乱のあまり答えられずにいると、
「馬鹿言ってんじゃねえ」
桃井が笑った。
「こんなガラクタが百万だぞ? こいつは天からのお恵みだぜ。さっさと売っ払っちまえよ。な?」
桃井が封筒に伸ばした手を、和夫は振り払った。とたん、桃井の目つきが険を帯びる。和夫はほとんど反射的に封筒を胸にかき抱いた。息がつまり、胸が押しつぶされそうだ。懸命に空気を吸う。
「こ、これは渡せない!」
和夫は目をつぶって叫んだ。
「このお金は、質屋さんにお返しする。ひゃ、百万円は、私が働いて返します! ですから……」
「ふざけんじゃねえっ!」
激昂した桃井の平手が、和夫の頬を打った。強烈な一撃。喧嘩などしたことがなく、当然殴られたこともない和夫は椅子から転げ落ち、熱く燃えるような頬を押さえながら、呆然と桃井を見上げた。
「おまえに他に返すあてがあんのかよ!? ねえだろうが、おいっ!?」
襟首をつかまれ、強引に立たされる。
「か、必ず私が……私が、お返ししますから……」
「まだぬかすか、この野郎っ!」
桃井に蹴倒され、和夫は床に這いつくばった。そのまま体を丸め、封筒を守ろうとする。
「こいつ、なめやがって……やれっ!」
号令を受け、さっき桃井に殴られた子分の龍が和夫を蹴りつけた。
「やめてっ!」
美枝子が叫んだ。しかし、龍は和夫の背中を何度も踏み、蹴りつける。
「なにもかも、私が悪いんです! 主人は関係ありません! もうやめてっ!」
「静かにしてろ、ババアっ!」
虎の張り手が美枝子の頬を打った。悲鳴を上げ、和夫の隣に倒れ込む美枝子。
「み、美枝子っ!」
殴られた妻の姿に和夫は激しく動揺し、顔を上げた。尻餅をついた美枝子と目が合う。
「ごめんなさい、あなた……。私のせいで、こんな目に……」
頭を下げられ、和夫の心が揺らぐ。
「私のことは気にしないで。あなたは、あなたの思う通りにすればいい。あなたがどれだけ、ずっと、私や娘のために生きて来てくれたのか、最近、私もようやく分かって来たの」
「お、おまえ……」
涙を流す美枝子に、和夫の胸にも熱いものが込み上げる。
「いい加減にしろっ!」
龍がつま先で和夫の脇腹を蹴り上げた。突き刺さる痛みに悲鳴を上げ、もんどりうつ和夫。そこへ、立ち上がった美枝子が駆け寄る。古びた靴が片方脱げた。
「う……うう……」
うめく和夫の手からこぼれ落ちた封筒を、桃井が拾い上げた。
「最初からおとなしく渡してりゃ、痛い目にあわずにすんだのによ」
満足げに封筒を開け、中身の札束を数える桃井。
そのズボンの裾を、誰かが引っ張った。桃井は再び怒りを露にし、
「しつこいぞっ、このやろ……」
拳を振り上げかけて、止めた。裾を引いていたのは和夫でも美枝子でもなく少年、キビキだった。