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角やで催された秀三の慰労会は、子の刻、九つを過ぎてもまだ終わらなかった。
豪傑は近隣の住民たちから相当嫌われていたらしく、礼を言いに来る者たちが絶えなかったのだ。
「悪漢の剛剣をいなして叩き折ったあの技こそ、巌流秘奥義、燕返し! 秀先生はこの日のために、来る日も来る日も人知れず鍛錬しなさってたんだ。泣かせるじゃねえか」
ぐい、と涙を拭う仕草をする大工の六太の創作話は来客たちに好評で、酒が進むにつれ、秀三の周りには人がいなくなっていた。
(頃合いかな)
秀三は隣で舟を漕いでいる治之助に声をかけ、ちょっと厠へ、と店の外へ出た。真っ暗で、肌寒い。
「父上、どちらへ?」
店で借りた提灯を手に尋ねる治之助に、
「質屋へな。借りた刀を返さねば」
ぽん、と腰に差した自在刀を叩き、秀三は微笑んだ。
「わしが勝てたのは、質屋で借り受けたこの刀のおかげだ」
「刀の?」
「うむ。自在刀と云うらしい。誰でも剣の達人になれる、不思議な刀だ」
「まさか」
「信じられぬだろうな。わしもまだ、狐につままれたようだ」
「信じます。私は父上の実力を誰よりも存じ上げておりますゆえ」
「言うてくれるではないか」
呵々と笑う秀三に、
「父上、笑い事ではありません。その刀さえあれば、きっと、もっと良い士官先も……」
「……言うな、治之助」
秀三は微笑みながら、じっと治之助を見つめる。
「自ら努力して手に入れたわけではない力は、いずれ己が身を滅ぼす。借り物の力を己の実力と信じねば生きられなくなるからな」
「そういうものなのですね」
「そういうものなのだ」
明らかに納得していない息子の頭を撫で、
「さあ、ここだ」
市場の中ほどにある米屋を過ぎ、さらに進んだ目立たない場所に、月明かりに照らされた質屋があった。ギヤマンが嵌められた窓から橙色の灯りが漏れている。深夜だというのに、まだ営業しているようだ。
「不思議です」
治之助が言った。
「この店のこと、覚えているのに、今日まで此処にある事に気付きませんでした」
そうか、と返し、店に入る。ドアをゆっくり閉めると、掛けられた鈴が思い出したように鳴った。
「やはりお戻りになられましたか」
キビキは薄笑みを浮かべて二人を出迎える。
「夜分に邪魔するぞ」
秀三は挨拶もそこそこに腰から料差を抜くと、カウンターに並べた。
「こちらは返却いたす」
「本当に宜しいのですか?」
念押しされると、心が揺らがないわけではない。この刀さえあれば、士官先は山ほどあるだろう。ただしそれは、秀三の実力ではない。刀の性能に縋った、まがい物だ。
「構わぬ」
「そうですか。あなたのような方にこそ、相応しい逸品なのですが」
キビキは残念そうに呟き、
「それでは、お預かりしていた金子はお返し致します。利息の四両を差し引いて、三十六両」
キビキが差し出した大判三枚と小判六枚。初めて見る大金に、治之助は目を丸くする。
「ち、父上。これは……」
「わしの一番大切な品物を質入れして借り受けたものだ」
「一番大切な?」
「こちらですね」
真っ白な羽二重に寝かされた翔燕桜の金簪が、大判小判の脇に置かれた。
「こ、これは母上の!」
「そうだ。なつの簪のおかげで、この不思議な刀を手に入れ、お前を救うことができた」
「母上……」
込み上げてきたものを、ぐっと堪える治之助。
「こちらの簪は質流れ前ですので」
キビキが申し出た。
「あと四両を追加いただければ、まだお返しすることができますが」
「……いや」
秀三は微笑んで、つまみ上げた大判と小判を懐へ運んだ。
「では、ごめん」
踵を返そうとした秀三の袖を、
「ち、父上」
治之助が焦って引っ張った。
「あの簪は、母上の形見ではありませんか。手放して良いのですか」
「構わん。なにを学ぶのにも、無料でとはいかぬ。銭金が必要だ。きっと、なつも分かってくれる。なつは、そういう女子だった」
「本当に、本当に後悔はないのですか?」
「……良いか、治之助」
秀三は治之助の目をじっと見つめた。
「もうすぐ刀の時代は終わる。これからは学の時代となるのだ。そして、お前には才能がある。わしなどより数段優れた、学ぶ力がな」
「しかし、それでも」
得心がいかない治之助に、
「考え直されるなら、今のうちですよ」
キビキが追従する。
「ひとたび質流れになりましたら、この品物と、これにまつわる全ての記憶も失われますから」
「え、なんだって?」
驚く治之助の肩を、秀三がぽんと叩く。
「これで良いのだ。なつとの思い出の品物なら、ほかに山ほどあるではないか。見ろ」
秀三は笑って両手を広げ、巧みに継ぎ接ぎされた着物を見せた。
「うちに帰れば、まだまだあるぞ」
「そ、それはそうですが」
「それにな」
秀三は両手で、治之助を両の腕をつかんだ。そして、
「思い出の品などなくとも、ほれ。わしにはいつも、お前が一緒ではないか。お前こそが、なつとの一番の思い出だ」
無言でうなずく治之助。話はまとまった。
キビキは取り出したまま行き場を失っていた契約書を、そっとカウンターの端に置くと、
「それでは、こちらのお品は質流れとし、たった今より当店の所有物となりました。ご利用……」
お辞儀しようとした、その時。
「……えっ?」
治之助が不意に顔を上げ、あたりを見渡した。
「どうした?」
不審げに問う秀三を治之助は見つめ返すと、小さな声で何ごとかを呟いた。
「なんだ、聞こえんぞ?」
問う秀三に、
「あんじょう……」
「うん? どうした?」
「あんじょう……おきばりやす」
「なんだ。急に都ことばなど使いおって」
笑いながら質す秀三に、
「今、そう仰いました」
「誰がだ? わしは都ことばは苦手で……」
治之助は大粒の涙を流しながら、
「母さまです。母さまが今、私に……」
震えた声は、最後まで聞き取れなかった。灯火を反射して優しく煌めく簪が、笑って今生の別れを告げているようだ。言葉を失った秀三の眦にも涙が浮かんでくる。
(なつ……)
いかん。限界だ。これ以上は、決意が揺らいでしまう。歯を食いしばり、簪から視線を外した。
「質屋さん、早く……」
「承知しました。それでは」
キビキは咳払いし、
「ご利用、ありがとうございました」
深々とお辞儀した。




