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「遅いな」
寺子屋に大掃除の手伝いに行った治之助が、昼を過ぎても帰ってこない。いつもなら午前中に終わって、昼からは一緒に正月を迎える準備をするのだが。
(一人で先に始めるか)
昨日は珍しく寺子屋で一悶着起こしたものだから、始終、顔を強張らせていたが、まあ子供なら喧嘩ぐらいするものだ。退っ引きならなくなったら、そこで初めて親が出張れば良い。
こんな時、なつなら、母親ならどうするだろう、と、いつも考えては位牌を眺める。返事はなく、思い出すのはあの笑顔だけだ。位牌の奥に手を伸ばし、袱紗に包んだ金の簪を取り出す。たしか翔燕桜という、古代の異国の姫君に因んだ拵えだ。久しぶりに見たが、なんとも美しい。
「ひ、秀先生!」
息を切らした大工の六太が玄関に飛び込んできた。
「て、大変だ! 大変だぞ!」
「どうしたんです? まあ、落ち着いて」
「これが落ち着いてられっかよ! 菩提寺の学び舎に賊が押し入って、子供らを人質に立て籠もってるんだってよ!」
「なんだって!」
秀三は駆け出した。
(治之助!)
駆けながら、気づく。現場へ行ったところで、どうなる? 着の身着のまま刀すら帯びていないこの身で、何ができるというのか。
「くそっ!」
それでも行かずにはいられない。一刻も早く。距離的には近道の市場を抜けるか、遠回りになるが人通りの少ない竹林沿いを行くか。市場は遠目にも、いつもより人出が少ない。いつもなら、正月の飾りや祝いものを買い求める客で繁盛しているはずなのだが。考えながら走っていると、
「あっ」
つまずいて、倒れた。地面にぶつかる瞬間、しゃららん、と鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
質屋の入り口に呆然と立つ秀三を、カウンター越しのキビキが迎えた。
「本日のご用向きは?」
「いや、わしは……」
息子のところへ行かねばならない。そう言いかけて、カウンターに並べられた白木鞘拵えの料差に目を奪われた。
「こいつを貸してくれ! 必ず返す!」
「お目が高い。こちらのお品は、さきほど完成したばかりでして。そうですね。銘は自在刀と言います。持ち主の意図を汲み取り、向けられた敵意や危険に対して攻撃と防御を自動で行う……」
「銘や謂れはよい! こいつを譲ってくれ!」
「こちらは四十両になります」
「よ……ん……?」
言葉を失う秀三。自分の一年分の棒給とほとんど変わらない。そもそも財布すら持ってきていないではないか。なにかないか。なにか……。
「これで、どうだ?」
手にしていた物に気づき、カウンターの上に置いた。金でできた、翔燕桜の簪。なつの形見。
「拝見します」
片眼鏡をかけたキビキが、白の絹手袋を嵌めた手を差し出した。
「急ぐのだ。手短に頼む」
焦る秀三に、
「ご心配なく。店の時間はほとんど止まっていますから」
簪を凝視しつつキビキが空いた手で指差した西洋風の壁掛け時計は、確かに動いていない。ただ壊れているだけではないのか。
「結構です」
不意にキビキが顔を上げ、言った。
「もう良いのか?」
「ええ。以前に同じものを拝見しておりますし、何よりお急ぎのご様子ですから。それではまず、こちらのお品を質草として、当店はお客様に四十両を融通いたします」
キビキがカウンターに無造作に置いた大判四枚を、秀三は目を丸くして見つめる。
「月に元本の一割、四両をお支払いいただけば、お客さまが所有権を失う質流れを止めることができます」
「相分かった」
「さらに、この四十両で、そちらの自在刀をお譲りいたします。他の細かな契約内容につきましては、こちらにお目通しの上、ご署名を」
「ここに名を書けば良いのか」
「はい、乙欄です。なお利息を滞納、あるいは期日までに返金されなかった場合は、品物の所有権およびそれに付随する一切を当店に譲渡することになります」
「それに付随する一切とな?」
「はい。今回の場合、この簪にまつわるお客様の全ての記憶や思い出、あらゆる感情、といったところですかね」
「よく分からぬが、構わぬ。とにかく急いでくれ」
「こちらで契約は完了です。さあ、どうぞ」
「かたじけない」
白木鞘拵えの自在刀を腰に差し、秀三は店を飛び出した。背後でドアの鈴が激しく鳴る。




