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川べりの庵は、風流人だった長嶋津の三代前の当主が密かに茶の湯を楽しむために結んだものだ。
今は庭の草木も放ったらかしで荒れ放題。石灯籠は倒れたまま、小さな池も濁りきって鈍緑に淀んでいる。かつての見事な景観は見る影もない。
漆喰が斑らに剥がれた土塀沿いに、風呂敷包みを抱えた治之助がやってきた。全身砂まみれ。左の袖は破れ、肘からは血が流れている。
「ここに、あいつが」
口元に滲んできた血を手首で拭い、視線を尖らせる治之助。何が出来る訳でもないのはわかっている。それでも、何かせずにはいられない。
門の脇に取り付き、僅かに顔を出してなかの様子を窺う。鼓動が早まる。同級の長嶋津によれば、彼の叔父、長嶋津豪傑は毎日昼間から酒を飲み、日が暮れると遊郭通いを繰り返しているという。日没まで半刻以上。まだ、内にいるはずだが、人の気配が感じられない。
「寝てるのか……?」
目を凝らす。開け放した戸板の奥、床の間の刀掛台に据えられているのは脇差だけだ。
(しまった)
思うより早く、
「おい」
背後から声をかけられ、治之助は飛び上がって振り返った。
「なんだ、おまえは?」
伸び放題の髭に覆われた顎をぼりぼりと左指で掻きながら、男が言った。治之助を見下ろす眼は沼のように淀んでいる。右手には、抜き身の長刀。
「どこぞの犬どもが嗅ぎつけてきたかと思ったが、ただの子鼠とはな」
くっくっと嗤い、
「わっぱ、幾つだ?」
にやにやしながら尋ねる豪傑に、
「じゅ、十一」
なんとか声を絞り出した治之助に、
「むかしなら元服の歳だな。貴様、刀はどうした?」
「か、刀?」
「刀は国の防人たる武士の象徴、魂だ。刀を持たずして何が侍か。そうだろう?」
その通りです。そう答えてしまいたい。それなのに治之助の口から出た言葉は、
「か、刀を振り回すだけが、国を守るわけではない! それぞれの持てる力を結集し、皆が一丸となってこそ……」
「貴様……」
ぷるりと腕を震わせる豪傑。歯を食いしばっている。
「小僧の分際で、 あの口だけ達者な青瓢箪どものように、わしに説教を垂れるかっ!」
豪傑が刀をゆっくりと最上段に振りかぶった。まずい。斬られる。
治之助は草に埋もれた白砂を一掴みし、豪傑の顔面めがけて投げつけた。
「ぶ、ぶぷっ!」
大量の砂粒に視界を塞がれ、豪傑はたたらを踏んだ。その隙に治之助は身を翻して駆け出す。
「おのれ、卑怯な! 覚えておれっ!」
刀を振り回して吠える豪傑は、さながら手負いの獣のようだ。その悪態と怒号を背に、治之助は前だけ向いて駆けた。橋を渡り、市場を抜け、家まで休まず、ただひたすら駆け続けた。
家の前に到着して初めて振り返り、
(追って来てはいない、か)
ようやく安堵の息を吐いた。すぐには入らず、きちんと呼吸を整えてから戸板を開ける。
「ただいま帰りました」
「ああ、おかえり。今日は稲荷寿司があるぞ。好物だろ?」
飯の支度をしていた秀三は、足早に奥の間へ向かう息子に違和感を感じた。
「どうしたんだ、治之助」
秀三は自家製の漬物を切る手を止め、着替えを始めた治之助の元へ向かった。治之助は全身砂まみれだった。服も破れ、肘も擦りむいて血が出ている。
「どうしたんだ。喧嘩でもしたのか」
「都ことばを話せと揶揄われたから」
「珍しいな。まあ、子供の頃は男同士、喧嘩の一つや二つするもんだ。相手は誰だ?」
「長嶋津の嫡男と、取り巻きどもです」
「そうか……」
長嶋津の名を聞き、秀三は押し黙った。
「拙者は、都ことばが嫌いです。お祖父様も、お祖母様も……」
「そんなことを言うもんじゃない。二人とも、お前を大切に……」
「都ことばを聞くと、母上のことを思い出すのです! だから……」
それで、都ことばを話さなくなったのか。秀三は合点がいった。なつが亡くなった後だったので、自然に自分の方の言葉を使うようになったものだと思っていた。
「父上は、長嶋津をご存知ですか?」
唐突に問われ、
「今日の喧嘩相手だろう? 寺子屋で同じ組の……」
「違います!」
治之助は地団駄を踏み、
「豪傑! 長嶋津豪傑です!」
叫んだ。秀三は言葉を失う。しばしの沈黙の後、
「もちろん、知っている。なつが命を失うことになった張本人だからな。忘れたくとも、忘れられぬ」
「では、あいつの所払いが明け、こちらへ戻ってきているのも?」
「……ああ」
「なぜ教えてくれなかったのです!」
食ってかかる治之助など、この何年も見たことがない。秀三は戸惑いつつ、
「教えてどうする? あれは事故として、お上が処理したのだ。仇討ちすら認められん。やつの罪は、あくまで日頃の素行不良だけだ」
「そんなことは分かっております!」
「ならば、どうしようもないではないか。ほら、早く着替えて……」
着替えを手伝おうとする秀三の手を、治之助が振り払った。
「父上は、父上は悔しくはないのですかっ!」
「治之助、何があったのだ」
「答えてください! 悔しくないのですか!」
泣き叫ぶ治之助に、
「悔しいに決まっているだろう!」
秀三は声を張り上げた。
「あの日のことを思い出さぬ日は、今まで一日たりとてない!」
「ならば!」
「そうだ。どうすれば豪傑を亡きものにできるか、今でも考えぬ日はない! できるものなら今すぐにも、あの傲岸な男をこの手で八つ裂きにっ……!」
初めて見る父の激昂に、治之助は面食らいつつも、
「ならばどうして……」
唇を噛む。しかし意を決して口を開いた。
「どうして、こんなに普通に暮らしていられるのです!」
「決まっているだろう!」
「なんだと言うのですか!」
「お前だ!」
言葉を失う治之助の両の肩を、ぎゅっと掴む秀三。
「わしが復讐を行えば、それが成ろうと成らずとも、わしはお前の側にいてやれぬ。お前が元服して一人前になるまで、決してお前に寂しい思いはさせぬと、なつの墓前に誓ったのだ!」
「父上……」
「他の誰かにどう思われようが、知ったことか。わしは決して、お前を一人にはせぬ!」
秀三が治之助を抱きしめると、治之助も抱きしめ返した。いつの間に、こんなに力が強くなったのだろう。
「……治之助」
秀三の呼びかけに、黙ってうなずいた治之助の双眸から涙が溢れる。
「わしは幸せだ。お前が産まれたあの日から、お前の父になれてから、ずっとな」
「私も幸せです。ずっと」
養子縁組の話は断ろう。心に決めた秀三の脳裏に、義祖父の怒り狂う顔が思い浮かんだ。




