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「どないしたん?」

 なつが心配そうに秀三の顔を覗き込んできた。

「ん? ああ、いや。なんだ?」

「お店出てから、なんや様子がおかしいわ。ほんまに大丈夫?」

「大丈夫だよ。ただ、その、なんと言うか」

 どうも記憶があやふやだ。市場で治之助に伊勢海老のことを教えて、それから、もち米を買いに行っていた妻と合流して……

「そうだ。もち米はどうしたかな?」

「いややわ。なに言うてはるの。今からそれを買いに行くんやないの」

 なつに笑われ、秀三は頭を掻いた。

「頭まで呆けてしまったら、わしにはいよいよ取り柄がなくなってしまうなあ」

「あら。なに言うてはるの」

 なつは少し怒ったふうに言う。

「秀さんの一番ええとこは、頭やないで。優しいとこや」

「ほんまや」

 調子を合わせる治之助を笑って抱き上げた秀三は、なつと共に市場の中央にある米屋へ向かった。

 市場の中心部へ向かうに従って、人の出はさらに増え、賑やかになっていく。

 なかでも一番の大店である米屋は、正月を迎えるための客あしらいで大賑わいだった。店頭に設えられた大きな臼。お決まりの掛け声を威勢良く繰り返しながら、手際よく杵でもち米を搗いている。

「ほら、あれ!」

 治之助が指差したのは、店先に置かれた紅白二段の大きな鏡餅だった。

「うわあ、でっかいなあ」

 きらきらした瞳で鏡餅を見上げる治之助。

「さあ、もち米を買ったら、うちでも搗くぞ」

「治ぼん、何個食べるんや?」

「ぼく、百個!」

「そんなに食べたら、お相撲さんになってしまうなあ」

 なつが笑って言った時、

「なんだと、貴様っ!」

 米屋の店先で、ざんばら髪の侍が大声をあげた。

「国家安泰のため夷狄を討ち滅ぼさんと粉骨砕身東奔西走する我らから、金をせしめよう、そう言うのかっ!」

「い、いえ。そう仰られましても。我々も商売でございまして」

「なにいっ!」

 侍はさらに大声を出した。顔が赤い。まだ陽も高いが、相当酔っているようだ。

「お国の一大事と貴様の小商いを比べるとは言語道断! そこへ直れいっ!」

 侍は刀の柄に手をかけた。事態を見守っていた野次馬たちが浮き足立ち、侍が抜刀した瞬間、わっ、と蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

「番所へ……」

 治之助を抱きあげたなつの手を引き、秀三も踵を返す。

「どいつもこいつも、腑抜けた腰抜けばかり! 憂国の烈士はわしだけか!」

 侍はやおら刀を振り回しながら近づいてくる。酔ってはいるが、疾い。背を向けて駆けても、女子供の足では追いつかれてしまう。

「逃げろ、なつ!」

 意を決した秀三は抜刀した。

「……えっ?」

「秀さん、あかん! さっき質に入れたやないの!」

 背後でなつが叫ぶ、が、振り返る余裕はない。きょとんと竹光を構える秀三を見た侍は、

「……竹光、だと?」

 赤ら顔を更に紅潮させ、

「貴様、武士の魂を売ったのか? ……っこの、武士の面汚しめがっ!」

 刀を振りかぶって突っ込んできた。

 大振りの正面斬り。これまでに実戦経験のない秀三は身動き一つできない。

「秀さん!」

 背後からなつに引っ張られた秀三の鼻先をかすめた刃が、床板に深く突き刺さった。

「くそ、ちょこまかとっ! 腰抜けの青瓢箪が!」

 悪態をつきながら、床板に食い込んだ刀身を引き抜こうとする侍。尻餅をついたままの秀三の腕を、

「はよ立って!」

「あ、ああ」

 なつに引っ張られ、前のめりになりながら立ち上がる秀三。床板に食い込んだ刀と悪銭苦闘する侍の脇を抜けて駆け出そうとした時、

「おおりゃあっ!」

 怒号と共に床から抜けた刀身は、侍の手をすっぽ抜け、

「あっ」

 吸い込まれるように、なつの胸を貫いた。

「母さま!」

 治之助の絶叫がこだました。

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