5
思いもかけず自分の名前が呼ばれたことに、和夫は一瞬戸惑ったものの、とっさに頭を縦に振った。
「あ、は、はい。そうです。私が、そうです。はい」
何度もうなずく和夫を、男がじっと見つめる。
「あ、あの……あなたは……?」
勇気を振り絞って訊ねた和夫に、男は場違いなほど柔和に笑み、
「俺は桃井ってもんだが……連れて来いっ!」
叫んだ。と同時に、再びドアが荒っぽく開かれ、桃井の子分らしき二人の若者が店に押し入って来た。どちらも金髪リーゼントで顔もそっくりだが、一人は龍の絵柄が刺繍された青いスカジャンを着ており、もう一人は虎が刺繍された赤いスカジャンを着ている。見るからにアウトローな若者に左右から挟み込まれている中年の女は、
「……美枝子?」
和夫の妻だった。
「あなた……」
強張った顔で自分を見つめる美枝子に、和夫は戸惑う。
「こ、これはいったい……妻が、何を……?」
「何をじゃねえんだよ、おっさんっ!」
混乱する和夫を制し、龍の方がわめいた。言葉を飲み込む和夫。
「このババアはなあ!」
今度は虎の方が叫ぶ。
「うちが貸した金を、今になって返せねえなんてぬかしやがるんだよ!」
「……ま、そういうわけだ」
桃井はため息をついた。綺麗に折り畳まれた紙を懐から取り出し、和夫の前に広げる。
「……借用……書?」
半年ほど前の日付に、妻の名前、捺印。書式になんら不備はない。法外な利率を除けば。
「いや、俺は止めたんだぜ? うちみたいな所から金を借りて、返せるんですかってよ。そしたら、父親が入院しただの、娘の給食費が足りないだの……泣かせるじゃねえか」
「兄貴は見るに見かねて、このババアに大事な金を貸したんだ!」
「なのにこのババアときたら、もう少し待てなんてほざきやがる! 厚かましい! ふざけんなって話だろうが!」
口を揃えてがなりたてる龍虎に、
「うるせえっ!」
怒鳴った桃井が龍の顔面を殴りつけた。龍は後ろ足を踏んで倒れた。拍子で壁際の棚がひっくり返り、飾られていた玩具類が床に散乱した。
「今は俺が喋ってんだろうが!」
苦しげにうめく龍を怒鳴りつけ、桃井は和夫に視線を戻す。
「どうもすみませんね。うちの若いのが跳ねっ返りやがって……。だが、こいつらも俺を思ってのことなんで、勘弁してやってくれよ」
「み、美枝子……本当……なのか?」
和夫の問いに、まだ虎に捕われたままの妻は小さくうなずく。
「な、なんで……なんで言ってくれなかったんだ……なんで……」
頭が真っ白になり、思いつくままに言葉を発する和夫に、
「パートで働いても、どうしてもお金が足りなかったから……」
か細い声で妻は言う。
「ひ、一言、言ってくれれば……仕送りを増やしたのに……」
「……だってあなた……会社、辞めたんでしょ」
「おまえ……知って、いたのか……?」
妻はうなずいた。
「あなたが精一杯やってくれてることは分かっていたから……だから、自分のことぐらい自分でなんとかしなくちゃって、そう思って……」
和夫は何も言えなかった。それなりに生活できている筈だと思い込んでいた。いや、連絡さえ取らなかったのは、そう思いたかっただけかもしれない。
「美枝子は……妻は、いくらお借りしたんですか?」
「三十万だ。利息と延滞金で、百万ぐらいになってる」
「ひゃ、百万……」
驚く和夫の肩に、桃井はするりと腕を回した。肩を抱く。友人や恋人なら親しさを表す仕草だが、この状況では逃がさないという意思表示にしか思えない。
「……ところで、だ」
息を呑む和夫の肩をぽん、ぽんと優しく叩きながら、桃井は言う。
「こいつは、あんたの金なんだろ?」
カウンターの封筒を指差し、桃井は言った。
「こ、これはっ……」
和夫は封筒を手に取り、胸にかき抱いた。
「こ、これは、私のお金じゃないんです。こちらの質屋さんでお借りしただけで……」
「まだ返してないんだろ?」
低い声で質され、和夫はあわててうなずいた。
「だったら、まだあんたの金だ。何に使おうが、あんたの自由。違うかい?」